花山信勝師のご法話は、故東條英機ら、A級戦犯七人は巣鴨プリズンにおいて昭和二十三年十二月二十三日に処刑された話の詳細でした。
昭和二十九年、戦犯の遺族によって「白菊会」が結成されます。しかし、同じ戦犯の遺族でも、命令した側と命令された側という意識が根底にあり、その「白菊会」でも、A級戦犯の遺族たちは肩身の狭い思いをされたようです。
そんなこともあってか、A級戦犯の遺族だけで「七光会」をつくり、交友が持たれます。それがいつの日からか毎月二十三日(東條英機ら7人の命日)に、用賀の東條邸に集まって茶話会がもたれるようになりました。
昭和五十五年十二月、築地本願寺で故東條英機の三十三回忌法要が営まれました。そのご法事が契機となって、毎月二十三日に用賀のお宅での、月参りが始まりました。同五十七年五月二十九日に勝子夫人が亡くなられるまでの一年半、「西原さんに」とのご要望もあって、わたしが専任で、ご仏事と茶話会にお参りをさせていただきました。
そして勝子夫人が亡くなられてからは、ご次男で三菱自動車の会長等と勤まれた東條輝夫氏の三鷹のお宅に、私が築地を辞める61年1月まで出勤しました。築地を辞めた翌年、輝夫夫人から『東條勝子の生涯“A級戦犯”の妻として』(時事通信社刊)送られてきました。その後しばらくして輝夫夫人は病死したと聴いております。
花山先生の講話を聴いて、あらためて『東條勝子の生涯』を本箱から取り出して読んでいます。
その中で心を痛めたのは、A級戦犯を裁いた東京裁判は国民の間にも広く知られているが、数からいえば他内裁判所で裁かれた戦犯のほうが遥かに多い。米、英、オーストラリヤ等九か国がそれぞれ各地五十余か所において裁判所を設置し、日本軍人を裁き、s処刑は、チャンギー、広東、マニラ、ペナン、ダロドック、ラバウル、香港、栄鴨等、50余か所です。以下本の中から転載します。
処刑されたものは、絞首刑、銃殺刑ともで、1068名、終身刑が325名、有期刑が3098名、という大掛かりのものであった。
しかし、その裁き方は東京裁判と同じように計画的、報復的、非文明的であるといわれており、人違いであろうと、誤解であろうと、容赦たく裁いていった。死刑の判決をうけたものたちが獄中で綴った日記や手祗によると、現地で行われた裁判七検事や判事を務めたものが、かつて日本の俘虜であったものが多く、裁判がいかに一方的で横暴で、腹いせのものであったか、などが、最後の力をふり絞って書かれている。(以上)
過去の腹いせを、正義の名のもとに処刑という形で断罪する。戦争の中にある残虐さは、ここに極まります。
昭和二十九年、戦犯の遺族によって「白菊会」が結成されます。しかし、同じ戦犯の遺族でも、命令した側と命令された側という意識が根底にあり、その「白菊会」でも、A級戦犯の遺族たちは肩身の狭い思いをされたようです。
そんなこともあってか、A級戦犯の遺族だけで「七光会」をつくり、交友が持たれます。それがいつの日からか毎月二十三日(東條英機ら7人の命日)に、用賀の東條邸に集まって茶話会がもたれるようになりました。
昭和五十五年十二月、築地本願寺で故東條英機の三十三回忌法要が営まれました。そのご法事が契機となって、毎月二十三日に用賀のお宅での、月参りが始まりました。同五十七年五月二十九日に勝子夫人が亡くなられるまでの一年半、「西原さんに」とのご要望もあって、わたしが専任で、ご仏事と茶話会にお参りをさせていただきました。
そして勝子夫人が亡くなられてからは、ご次男で三菱自動車の会長等と勤まれた東條輝夫氏の三鷹のお宅に、私が築地を辞める61年1月まで出勤しました。築地を辞めた翌年、輝夫夫人から『東條勝子の生涯“A級戦犯”の妻として』(時事通信社刊)送られてきました。その後しばらくして輝夫夫人は病死したと聴いております。
花山先生の講話を聴いて、あらためて『東條勝子の生涯』を本箱から取り出して読んでいます。
その中で心を痛めたのは、A級戦犯を裁いた東京裁判は国民の間にも広く知られているが、数からいえば他内裁判所で裁かれた戦犯のほうが遥かに多い。米、英、オーストラリヤ等九か国がそれぞれ各地五十余か所において裁判所を設置し、日本軍人を裁き、s処刑は、チャンギー、広東、マニラ、ペナン、ダロドック、ラバウル、香港、栄鴨等、50余か所です。以下本の中から転載します。
処刑されたものは、絞首刑、銃殺刑ともで、1068名、終身刑が325名、有期刑が3098名、という大掛かりのものであった。
しかし、その裁き方は東京裁判と同じように計画的、報復的、非文明的であるといわれており、人違いであろうと、誤解であろうと、容赦たく裁いていった。死刑の判決をうけたものたちが獄中で綴った日記や手祗によると、現地で行われた裁判七検事や判事を務めたものが、かつて日本の俘虜であったものが多く、裁判がいかに一方的で横暴で、腹いせのものであったか、などが、最後の力をふり絞って書かれている。(以上)
過去の腹いせを、正義の名のもとに処刑という形で断罪する。戦争の中にある残虐さは、ここに極まります。