ハッカー伝言板改めえむびーまんの日記帳(山本隆雄ブログ)

日本コンピュータクラブ連盟・日本霊能者連盟・日本占い師連盟各理事長・メイドリラク萌とカードカルト経営者 山本隆雄の日記帳

相部屋の3人目として白髪のおじんが。

2023-12-10 17:29:41 | 入院&入院準備

相部屋の3人目として白髪のおじんが入ってきました。

挨拶してこなかったので、こちらも無視。

同室の81歳のおじん。

私と正反対。

低血糖で医師からチョコレートを食べろとわれているとか。

また。右足の中指が真っ黒けに。

痛いとか。

ちなみに、新入りおじんは、会社の重役風ですが、重役なら個室へ。

隣の個室は、でかいなぁと思ってみてみると、中に応接セットのある特別室でした。

私もそんな部屋に入れる身分になりたいものです。

 

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (まさ)
2023-12-10 18:00:24
まさは病院にはアスペまさみたいにアスペ病患者が入るアスペ部屋があると思っているのか?
返信する
Unknown (Unknown)
2023-12-10 18:12:10
>重役なら個室へ
古参の髪の薄い日本人離れしたオッサンは「容疑者は会社役員で」とテレビで紹介されたホンマモンの会社の重役ですが、重役なら個室へ。
返信する
Unknown (reisi)
2023-12-10 20:27:50
ピカソさんより

私の絵を馬鹿にする人がたくさんいるそうです。
あんなのは、子供が描いたみたいだ。
私の絵は、抽象画というジャンルになります。
抽象画でも、概念を絵にしたものと、実際にあるものをレタッチしたものに分かれます。
実際にあるものをレタッチするとは、要するに、現実とは、違う形にしてしまうことを意味するわけです。
ただ、すべての写実的芸術作品は、実はレタッチされているといって過言ではないのです。
レタッチの種類は、無数にあるのですが、
一つとして、そのままのものを作り出した作品はないのです。
ちょっとは、ずれがあるのです。
機械でつくったようなものも、わずかのずれはあったりするでしょうが、まあ、それは、写実作品といってよいでしょうが。
要するに、抽象画のジャンルが私が生きていた時代に隆盛した背景はそこにあります。
機械で正確なものが描けるあるいは、作り出せるのであれば、写実的作品は、意味をなさないのではというものです。
実際は、写実作品もわずかのレタッチを加えることにより、写真機以上の価値を生み出すということが徐々に証明されていったのでした。
その当時は、芸術家特に、絵描きは、死活問題に直面しました。
写真機の技術が発達し、写実作品を一瞬で生み出していったからです。
それらを目にした私は、抽象主義に活路を見出しました。
結局、画家というか、芸術家は、写実主義か抽象主義か2択なのですが、
ほとんどの芸術家は、写実主義の作品を生み出してから抽象主義に向かいます。

その当時の画界は、混沌が支配していました。
写実作品が求められる世界が写真機に浸食されていたのです。
その前から、抽象絵画をかいていた画家は、自分たちの領域に入ってくるなとバリアを敷きました。
写実画家は、仕方なく、写実作品をいかにレタッチすることにより、写真機を上回るのかの活路を模索していました。
画家たちは、ほかの芸術家、芸術領域のビジネスマンたちと会合、合宿を開いては、それについて、情報交換をしました。
それは、切実な問題への取り組みではあったのですが、同時に、楽しいひと時でもありました。
共通の敵へ立ち向かうとき、普通は、商売敵として、話もしないような連中と、夜通し、酒を飲みながら論議し、自分たちの技術を披露しあい切磋琢磨したのです。
写真機を一緒にハンマーで壊したりしながら、われわれは、実際は、この写真機のおかげで、楽しいひと時が過ごせるのではないかと感じたりもしていました。
写真機への敵意は、私の芸術作品にも色濃く現れています。
「人生」は、そのさいたるものでした。
この作品は、私の落胆をあらわしています。
要するに、くっていけないという気持ちです。
せっかく、芸術学校も入ったりして、画家としてのエリートコースに入ったつもりだったのに、収入がなかったのです。
それはなぜか。
写真機が一世を風靡してたのです。
我々の仕事を奪っている。
そういう気持ちを伝えたかったのです。
結局、写実主義の作品も、題材次第で、抽象主義といえるわけです。
この作品は、写実主義的でありながら、題材が、実際にある人物モデルなのですが、
その構成が、意味を持っているというわけで、
その構成が抽象的なメッセージを持つということで、
これは、構成的抽象がの範疇に入る作品です。
全体的抽象画は、その構成の要素すらが、抽象主義的なものになります。
確かに、この絵は、写実主義とは言えないかもしれません。
しかし、非常に暗いところからみた、あるいは、遠くからみたと仮定したらどうでしょうか。
こんな感じに見えないでしょうか。
写実主義にもそのようなジャンル分けがあり、
これは、まあ、遠近法の一分野である、影を意識した作品でもあるのです。
そんなテクニックも入れているのは、若い間で、なんとかして、認められたい一心で、
様々なテクニックを身に着けようとしていた当時の心境も表しています。
遠近法は、サイズの問題だけではなく、影や、ぼんやりさといった問題もはらみます。
写実主義の芸術家は、そんなところも駆使して、クライアントに喜ばれる写実作品を仕上げていたのです。
そんなのが、一瞬でつくりだされていったことに当時の芸術家は、危機を抱いていました。
とにかく、これは、そんな風に見えないかもしれないですが、写実主義ともいえるし、構成が抽象的なので、構成的抽象主義ともいえる作品となります。
写実主義のテクニックは、様々です。
ただ、一つ言えることは、ひかりと影が重要だということです。
光源は、太陽のこともあれば、ランプでもありうるし、ランプも1つのこともあれば複数のこともある。
太陽が光源であれば、太陽は動くので、一日のうちで少しの時間しか描けないとなりますし、天気が違えば、日によってまちまちになります。
当たり前ですが、写実画家は、この光を強く意識します。
抽象画と思われるような作品も画家からみたら、写実画のジャンルだとみられることもあります。
私は、この「人生」で、写実主義の道を歩もうとしていたことも示しているのです。
しかし、写真機との戦いが待ち受けている。当時の画家なら、誰もがわかるであろうメッセージをこの作品に込めました。
写実主義画家の戦いは、この後も続きます。
そして、ラッセンという画家がでました。
彼の画風は、構成的抽象主義といえますが、
そのイメージは、実際に見たものをつなぎ合わせたものです。
であるので、彼の構成的抽象主義は、いうなら、記憶主義といえなくもないでしょう。
かれの作品に高い評価がされるのは、うなづけるでしょう。
彼は、写真機に果敢に立ち向かい勝ったからです。
要するに、写真機では、容易に撮影できない映像を、画にしたのです。
これをもって、写実画家のひとつのスタイルが確立されたのです。
つまり、冒険的画風です。
ラッセンは、写実画家として一流の腕を持ち、かつ、海に潜り、美しい映像を脳裏に焼け付け、そして、それを、おそらく、カメラの援用もうけつつ、再現したのです。
そんなことをできる人は、数少なく、かれは、それを自分の生業にしようとした、おそらく、世界で初の人間だったのです。
であるので、評価されたのです。
そして、需要があったのです。
彼を追いかける画家は、いないようです。
なぜか。皆、画家は、インドア派なのです。
海で泳ぎまわるという習慣はないのです。
カメラを援用したという点も含め、かれの独創的な創作態度は、世界をあっといわしめたのです。
写実作品の評価は、カメラとの闘いという点が非常に重視されるのです。
今後、彼をおいかけた画家が出るかもしれないですが、
彼の作品への価値は色あせないでしょう。
かれは、カメラとの戦いにおいて、新たな活路があることを示した数少ない画家のひとりなのです。
絵には、そのような芸術界への貢献というそういう価値も考慮されるということを、絵を干渉する人たちには、添えておきたい言葉となります。

写実主義の様々な技術を知っておいた方が、写実主義の作品を干渉するときの画家の努力を垣間見えるので、よいと思います。
写実主義の技術は、無数です。一つの大きなジャンルは、光です。
また、多くは、人間を描きますので、人間の骨格への造詣が重要となります。
そんなことを意識してみてもらえば、感銘を受けることもよくあるかと思います。

一方、抽象主義は、さきほど申しましたように、構成的抽象主義、あるいは、ラッセンのような記憶主義といった構成的抽象主義の発展形まであります。全体的抽象画は、構成要素が抽象画となります。先ほども述べた通り、写実画がすべて、そのままとはいえません。レタッチがあるといえます。それが、では、どこまでが、写実画でどこからが抽象画なのかの区切りは、ありません。画家次第です。しかし、画家がこれは写実画だといっても、周りが、これは、どういっても抽象画になると評価するものはたくさんありますが、これは、抽象画だと作者がいっても、周りが、いや写実画だということはあり得ません。
抽象画の分野も無数です。
抽象画の画家の数だけジャンルがあるといって過言ではありません。
抽象画のジャンルは、指数的に増加しているともいえるでしょうし、あるジャンルはその画家が描くことをやめた時点で終了ということもいえるでしょう。
この抽象画のジャンル分けの問題は非常に楽しくもあります。
そして、そのジャンルは、時に融合します。
その融合は、画家が時折開く合宿で起こったりします。
画家は、短気です。自分の作品をけなされたら、すこしでもけなしているとされることを口にされたら、話をしなくなりますし、時には、なぐりあいのけんかもしますし、まあ、なんというか、知り合いに仕返しをしてもらうよう頼むこともあるのです。
画家のエチケットは、作者を傷つけず、評価する文言を用意しておくことにあります。
ここに、抽象主義の、味わいの一つ、ジャンルの融合ということがあります。
まあ、写実主義でもおこるのでしょうが、抽象主義は、特に起こります。
そして、新たなジャンルが生まれるのです。

抽象画のジャンルは、画家の数だけあるといえますが、
それでは、あまりにわかりにくいです。
大きな主要なジャンルを紹介しましょう。
一つは、サルバドールダリの作品群にみられる通り、
抽象的なメッセージを抽象的な事物を抽象的な配置で描くことにより、表現するというジャンルです。
ただ単に、抽象的な事物を描くだけでなく、抽象的なメッセージを込めるというものです。
彼の作品の多くがキリスト教をイメージしています。
このように宗教的な意味合いを持たせる画風を宗教画といいますが、
このようなジャンルはひっくるめて、主張主義といいます。
抽象画のほとんどが、主張主義といえますが、なかには、メッセージ性がないものもあるのです。
例えば、洞窟壁画の類です。
簡略化しただけのアイコンもそうです。
そういうのは、メッセージ性がありません。が、写実主義とはいえないので、抽象主義といえます。非主張抽象主義とジャンル分けできますが、普通は、そんなことは言いません。
ただ、メッセージ性のあるものが、主張主義といわれるのです。
さて、このメッセージ性ですが、千差万別です。それでの種類わけは無数にできます。
大きなジャンルは、宗教的なものですし、哲学的なものもあるでしょう。
一方、ほかに種類わけができるとしたら、作品の制作過程もいえるでしょう。
さきほどのラッセンが、冒険主義といえるような制作過程であったように、題材を探しに行くところから、制作は始まるといえるのです。
この制作の態度の分け方で大きなジャンルの一つが古典を学ぶというものです。
それが、古典派と言えます。
そして、その古典もどんな時代のどんなジャンルから援用するのかで分かれるのです。
私は、ラッセンに共感を覚えるのは、その古典の題材を洞窟壁画に見出したからです。
今は、インターネットなどで、そのようなものを簡単に見出すことができるでしょうが、その当時は、だれも知りません。
私も、それなりに名の通った画家でしたが、それが、いきなり、洞窟壁画の作風を真似して絵を書き出したのですから、その当時のまあ、絵の評価をする論壇は、大きな動揺を見せました。まあ、どこそこにいって、こういうのをみて来て援用したというような話は、するのですが、あまり、はっきりとは言いません。真似されるのは嫌だからです。
何も言わないで、ぱっといきなり、変な絵を描きだして、まあ、悪くてもいいから話題になって、その後、じわじわ、ああだこうだと論じて、評価をあげていったろうと思っていたのですが、
テレビが飛びついてきました。
で、そこであれこれ説明するというの...
返信する
Unknown (まさ)
2023-12-11 00:13:24
自称、神戸大首席卒業天才準神ご本尊で各種連盟理事長兼宗教法人代表および有名ブローカーのくせになにいってやがる😒重役風に見えるだけの白髪おじん🧑‍🦳にむかって😒まるでテメーでテメーのこと馬鹿正直に🇰🇷パチモン🇰🇵だというてるようなもんじゃろがい😒
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Unknown (reisi)
2023-12-11 00:45:04
途中で、とぎれましたね。
返信する

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