星野リゾートの新今宮進出を書くのに、1990年西成暴動で南霞町駅が焼き討ちにあい炎上した事を書いた。
炎上中の写真を探しにくぐってみた。
すると、西成暴動で炎上したことまでは正しいが、駅が仮説で北側に移され、その場所になっていると書かれている。
南霞町駅を紹介する全ての記事が、そう書いているので、おかしいなぁと思って、ウィキペディアで確認すると、ウィキペディアでそう書かれているからだと判明した。
ウィキペディアの記事を真に受けたからこうなるのである。
南霞町の駅舎は、炎上前からあの位置にありました。
父の兄私から見ておじさんが南海電車の運転手をしていた関係で、余った家族乗車券を我が家は譲り受けていました。
それで、私は、ダダで乗れる南海電車によく乗っていました。
地下鉄谷町線ができる前は、南海平野線というちんちん電車が走っていました。
行先は、交互に、恵美須町と天王寺駅前行きとなっていました。
あべの(斎場前)から、天王寺駅前行きと恵美須町行きと線路が別れていました。
南海電車の乗車券だけを使って、和歌山方面に行くときの方法は2つ。
①南海平野線の中野駅で乗車。天王寺駅前駅まで。そこからJRの天王寺駅の19番線・20番線(現在は車の駐車場になっている)に乗り込んでいる南海電車の天王寺支線に乗車。
そこから、天下茶屋駅へ。そこで、南海本線や高野線に乗り換え。
②南海平野線の中野駅で乗車。南霞町駅で下車。南海新今宮駅へ。そこから本線や高野線へ。
母が一緒の時は、南霞町駅と南海新今宮駅間の200mの移動は困難。(当時、女性が歩ける状況ではなかった)だったので、①を。
自分ひとりの時は②を使っていました。
南霞町の駅舎は、私が中学生くらいの時からあとは、ずっと同じ場所にあります。
当然、1990年の炎上前も炎上後も同じ場所にあります。
南海平野線ついでに。
中学3年生の時、大阪市の第6ブロックの社会科クラブの研究発表会で、まもなく廃止される南海平野線の歴史について発表しました。
南海平野線は、天王寺駅前行きでは、あべの・天王寺駅前 1区間。恵美須町行きでは、あへの・飛田 1区間。だけ、路面電車となりますが、他の区間は専用軌道を走ります。
特に、中野・西平野間は、1.1キロもあり、60キロ以上のスピードを出して走っていました。
どの駅の駅舎も、でかかったので、2両編成の時代はなかったのかといろいろと調べました。
当時は、インターネットはなく、図書館に行って東住吉区区史などを調べていました。
すると、「南海平野線は、飛田通いが盛んだったころは2両編成で運行。」という記述を見つけました。
恵美須町に行くとき、途中にある飛田駅の存在は知っていましたが、住宅地の中にあるさびれた駅でした。駅舎はなく、ホームだけがありました。
平野線の駅は、平野、中野、駒川、田辺、文の里、あべの 駅前にそこそこの商店街をもっていました。飛田は駅前に商店街はありません。また、乗降客もほとんどいませんでした。
そこに向かう、2両編成で走らないといけないくらいの乗客がいた理由が全くわかりませんでした。
「飛田通い」をいろいろな大人に聞きました。父に聞くと、教えてくれません。母に聞くとそういう言葉を聞いたことがないといいます。
中学の職員室で、片っ端に先生に「飛田通いって何」と聞いたことがあります。
男性の先生は、「にたっと」するものの、教えてくれません。女性の先生は、母と同じそんな言葉は聞いたことがないと言います。
もし、ブロック大会で、他校の生徒に、「飛田通いって何ですか。」と聞かれたらどうこたえようかと悩みました。が、ブロック大会では、「飛田通い」について、
質問されることはありませんでした。ほっとしましてた。
橋下市長が飛田の飲食店組合の顧問をしていた問題で、外国人記者協会かなんかで、「ませたガキなら中学生でも知っている」と外人記者が橋下市長に言ったのを覚えていますが、、
私は、「ませたガキ」ではなかったという事です。
試しに「えむびーまん」「山本隆雄」をウィキペディアで検索したら、掲載がありませんでした。
でも、パチモンのユアペディアに掲載されていたので、流石に神戸大首席級卒業天才準神様だなぁ、とボランティアで思ってあげることにしました。
ウィキペディアに載っていな無名人と遊ぼうと言っても人が集まらないので、可哀そうに思われました。