ハッカー伝言板改めえむびーまんの日記帳(山本隆雄ブログ)

日本コンピュータクラブ連盟・日本霊能者連盟・日本占い師連盟各理事長・メイドリラク萌とカードカルト経営者 山本隆雄の日記帳

本日は母の出身江津市川平町ざんまい。佐々木家の先祖の墓参り3ヵ所。懐かしさ満載。天然コケッコーや砂時計の映画のロケで使われていた三江線川平駅は桜満開。駅前ロータリーが完成。超満員の列車で江津・浜田へ。

2018-03-30 13:31:32 | 三江線

本日の行程(変更後)
都野津一町内7時16分発 石見交通バス 江津駅行き 250円。

JR
川平  9時15分発 三江線 三次始発 普通 浜田行き 10時27分 下府着 2両 クロスシート16席 他はロングシート
下府 11時58分発 下府から江津まで山陰本線・江津から三次まで三江線 浜田始発 普通 三次行き 16時15分 三次着 2両 クロスシート16席 他はロングシート
三次 16時36分発 三次から塩町まで芸備線・塩町から府中まで福塩線 普通 府中行き 18時20分 府中着 1両 ロングシート
府中 18時42分発 福塩線  府中始発 普通 福山行き  19時29分 福山着  4両 ロングシート
福山 19時35分発 山陽本線 三原始発 普通 日生行き  20時33分 岡山着  6両 クロスシート
岡山 21時09分発 山陽本線 岡山始発 普通 姫路行き  22時33分 姫路着  3両 クロスシート
姫路 22時35分発 山陽本線 姫路始発 新快速 野洲行き 23時38分 大阪着 12両 クロスシート

 

 

江津から小型タクシーで江津市川平町の母の実家。佐々木家の跡地に。
20年くらいの前の、裏山の土砂崩れで、家の中まで、土砂が入って、家は撤去されています。
そこに、裏山から降ろされてきたお墓が立てられました。

3月7日にお参りした時の花は健在でしたが、水がほとんどなくなっていました。
前の川へ、水を汲みに行きました。

子供のころ、夏休み、この小川で、水遊びをしたものです。
きれいな小川です。

線香をたいて、お参りしました。
山本家は、真言宗ですが、佐々木家は、浄土真宗大谷派。
お墓のタイプが真言宗と異なります。
まず、浄土真宗では、お墓でろうそくは灯しません。そのため、ろうそく立てはありません。
また、線香も、立てません。
線香は、着火したあと、寝かします。

そして、佐々木家のお墓に参った後、叔父さん(次男)宅へ。
歩いていきましたが、途中、廃屋が。

叔父さん宅へ。叔父さんは、何年か前に交通事故で亡くなり、その奥さんが一人で住んでいましたが、体の調子が悪くなり、加古川にいる長男宅に現在身を寄せています。
そのため、現在、誰も住んでいません。
叔父さんのお墓参りを。

こちらでも、線香を手向けました。

そして、おじいさんの妹の墓へ。
井上家に嫁いだので、井上姓を名乗っています。
子供のころ、みみの遠いおばあちゃんと呼んでいました。
お線香を手向けました。
墓石のそばに、横たわった墓石がありました。
19歳で、戦死した息子さんの墓石でした。
井上家には、戦死した長男の写真が飾られていたのを覚えています。
「またも負けたか第4連隊」でおなじみ大阪人で結成された軍隊は、日本最弱、負けそうになるとさっさと逃げて戦死者を出さなかったことで有名です。
よって山本家の方は、戦死者がいません。また、大阪から戦争に行って、戦死したという話もまわりできいたことがありません。
戦争に行った人から聞く言葉は、「逃げて・逃げて、逃げ回った」でした。
島根県の人は、戦争でまじめにたたかったのだなぁと子供心に思っていました。
私と血のつながっているおじいちゃんの妹は、90何歳まで生きていて、江津市で2番目の高齢者となっていました。
井上家は、絶家となっていて、佐々木家の亡くなった次男の嫁が面倒を見ていましたが、その嫁が加古川の長男に引き取られてからは、
墓参りする人もいません。

そして、川平駅まで、歩きました。

私は、塾に行っていなかったので、夏休みは、フリー。
中学2年生の時まで、毎年、夏休みは、川平に来ていました。
長い時で、夏休みほぼ全部、40日を川平で過ごしていました。
中学2年生の時など、弟と2人だけで、大阪から特急やくもと三江線に乗って、川平まで来ていました。
カブトムシをとったり、川で遊んだり、自然を堪能した夏休みを過ごしていました。
なつかしい昔を思い出しながら。

江川(ごうがわ)に流れ込む川は、どれもきれいな川です。

川平駅に着きました。
3月7日に来た時は、工事中だった駅前は、工事が完成していました。

そして、駅舎へ。

川平駅がロケに使われた 天然コケッコーと砂時計のポスターや写真が貼られていました。

川平駅のホームへ。向かい側のホーム沿いには、桜満開です。

現在は、向かい側のホームは使われていませんが、以前は、使われていました。
浜原行きに乗るときは、ホームの一部にある鉄板がバカンと開けられ、そこにある階段で線路に降りて、向かい側にある同じく鉄板がパカンと開けられ、
そこにある階段で、ホームに上がるようになっていました。
それが、お役御免となり、コンクリートで埋められていることに気づきました。

私が、最後に川平で夏休みを過ごしたのは、1972年。
その当時は、三江北線と呼び、石見江津と浜原までの線でしたが、朝は、4両編成でした。1日に9往復か10往復走っていました。
川平駅での、すれ違い。江津方面4両編成の時は、この場所にも電車が、、。
どうやって向こう側のホームに行けば良いのか、子供心に疑問に思っていました。

そして、9時15分川平発の江津行きの列車が2両編成で来ました。三次を朝の5時38分に出発した列車です。


満員です。座れません。

ちなみに、三江線で、3両編成で走る便もありますが、3両目のドアはロックされていて、あきません。
なぜかというと、3両目に乗っていてわかったことは、旧三江南線(三次から口羽間)で、停車した時、ホームでないところに止まりました。
三江北線は、最盛期、5両で走っていたので、ホームに、3両編成の長さがありますが、三江南線側には、2両編成の長さのホームしかない訳です。
そのため、今回、3両編成にした便では、3両目のドアは、ロックされていたわけです。

そして、9時31分江津駅へ到着。この電車は、浜田行きです。

車内で座席を確保。
10時4分の発車まで33分ほど時間があるため、ホームヘ。


そして、改札を出て、向かいにあるパレット江津へ。

なつかしの三江線写真展を駆け足で見ました。

そして、道向かいの江津駅へ。

当初、川平から、三次から三江線経由で来た浜田行きのこの列車に乗車。
そのまま、終点浜田へ。
そこで、折り返しとなるこの列車に乗る予定にしていました。
理由は、始発駅でない江津からだと座れないので。
もし、江津で座れなかった場合、終点三次まで、4時間半、立ちっぱなしとなるためです。

 

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3 コメント

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田舎だけに素朴な疑問だが、 (岡山マサ&せごん級の供養マニア)
2018-03-30 21:56:01
コンビニのない田舎の墓参りは、コーヒー牛乳やプリンはどうするの?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-03-30 22:25:49
「本日は、川平ざんまい」なんてタイトルがあると、また串焼き攻撃とか、食べ物屋の話だと思った。
返信する
むかし逃げる大阪民国日本兵、いま無住廃屋。南無阿弥陀仏。 (特別低級警察色情取締課タヌキのスカベ調査班)
2018-04-01 08:04:10
電車の立ち乗りも怖いけど、背乗りはもっと怖いとか。
返信する

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