(1)福島原発事故の国会事故調査会が6月報告に向けて当時の政府関係者を参考人として聴取している。当時の経産相、官房長官に昨日は当時の首相が呼ばれた(強制権限)。
いづれも当時の対応に不備、不足、混乱があったことを認め、謝罪している。原発事故の危機的状況に何もしなかったとは思わないし、持ちうる能力としてやれるだけのことはやったのだろうが、いとも簡単に不備、不足、混乱を謝罪してはみせても当時相応の適当な政治責任を取ったとは思えないし、いまだに閣僚として開き直ったような厚顔振りの議員もいて、国民の付託を受けて国政に政治責任を負う者としての「謝罪(apology)」の意義、意味が口先きだけの中身のともなわないもので、現在の政治不信をただ助長するばかりだ。
昨日の首相も「最大の責任は国にある」と認めたうえで、しかし自身の判断、行動については正当性を主張し国の危機管理能力、組織力学の不備、不足に責任転嫁するだけの無責任振りをただ公にしただけのことだ。
(2)首相としては、そこを含めた国の統治能力(government)全般に政治責任を負うべきもので、国の最大責任を認めたうえでの首相個人の自己擁護論との比較認識の落差の大きさに、今更ながらのあまりの政治家の器の小ささに落胆させられると同時に、社会規律のパラダイム(paradigm)として他よりもまして政治は謝罪(apology)と相応の責任(duty)が一体化するものであることが原理原則だ。
現在も閣僚として活動する当時の官房長官は別として、当時の首相も経産相もその後辞任したではないかと思われるが、その後の政治行動で当時の政治判断、行動への謝罪に匹敵する政治責任を取っているかと思えば、ただ表舞台から姿を消しての責任転嫁のうらみ節ばかりだ。
これを聞いた被災地・地元からは「今さら反省されたり謝ったりされても」、「(責任転嫁では)何の解決にもつながらない」、「謝罪なら早く補償と除染を」と切実な厳しい声が相次いだ。
(3)聴取最後にこの当時の首相が強調したのが、原子力村といわれる政府、事業者、専門家の既得権益トライアングルが相応の事故への反省もなく、今も原子力行政の実権を握り続けようとしていると批判したことだ。
国会事故調査委員会は、東電会長、原子力安全委員長も聴取しているが十分に切り込んだものではなく、「うそ」と「改ざん」の歴史の原発事業者、原子力村といわれる既得権益集団の実体、弊害についても合わせて同率に解明しなければならない。
二度と国民の安全よりは経済性、効率性、開発性の国策優先などという古い時代のオカルト(occult)復活など許してはならないことだ。
(4)当時の首相は在任中からの主張の「脱原発」を事故体験として再度強調してみせたが、政府、民主党内にはいまだに原発の取り扱い、将来のエネルギー政策の展望、対策を示せないでいる。
政治家の言葉も約束も随分と軽いものだ(それが政治不信を招いて)と、いつも認識させられてきた。なにしろ最近の話題は、現首相が同じ民主党の元代表と会うこと、会って説得することに集中している異常さだ。
デフレ、円高不況に雇用不安の中、消費税増税に「政治生命を懸ける」とか、元代表と会って説得することが「一期(ご)一会(え)」とのエキセントリック(eccentric)な言葉が首相の口から出ては、政治家の謝罪と反省もその程度のもの(パフォーマンス)かと心寂しくなるばかりだ。
いづれも当時の対応に不備、不足、混乱があったことを認め、謝罪している。原発事故の危機的状況に何もしなかったとは思わないし、持ちうる能力としてやれるだけのことはやったのだろうが、いとも簡単に不備、不足、混乱を謝罪してはみせても当時相応の適当な政治責任を取ったとは思えないし、いまだに閣僚として開き直ったような厚顔振りの議員もいて、国民の付託を受けて国政に政治責任を負う者としての「謝罪(apology)」の意義、意味が口先きだけの中身のともなわないもので、現在の政治不信をただ助長するばかりだ。
昨日の首相も「最大の責任は国にある」と認めたうえで、しかし自身の判断、行動については正当性を主張し国の危機管理能力、組織力学の不備、不足に責任転嫁するだけの無責任振りをただ公にしただけのことだ。
(2)首相としては、そこを含めた国の統治能力(government)全般に政治責任を負うべきもので、国の最大責任を認めたうえでの首相個人の自己擁護論との比較認識の落差の大きさに、今更ながらのあまりの政治家の器の小ささに落胆させられると同時に、社会規律のパラダイム(paradigm)として他よりもまして政治は謝罪(apology)と相応の責任(duty)が一体化するものであることが原理原則だ。
現在も閣僚として活動する当時の官房長官は別として、当時の首相も経産相もその後辞任したではないかと思われるが、その後の政治行動で当時の政治判断、行動への謝罪に匹敵する政治責任を取っているかと思えば、ただ表舞台から姿を消しての責任転嫁のうらみ節ばかりだ。
これを聞いた被災地・地元からは「今さら反省されたり謝ったりされても」、「(責任転嫁では)何の解決にもつながらない」、「謝罪なら早く補償と除染を」と切実な厳しい声が相次いだ。
(3)聴取最後にこの当時の首相が強調したのが、原子力村といわれる政府、事業者、専門家の既得権益トライアングルが相応の事故への反省もなく、今も原子力行政の実権を握り続けようとしていると批判したことだ。
国会事故調査委員会は、東電会長、原子力安全委員長も聴取しているが十分に切り込んだものではなく、「うそ」と「改ざん」の歴史の原発事業者、原子力村といわれる既得権益集団の実体、弊害についても合わせて同率に解明しなければならない。
二度と国民の安全よりは経済性、効率性、開発性の国策優先などという古い時代のオカルト(occult)復活など許してはならないことだ。
(4)当時の首相は在任中からの主張の「脱原発」を事故体験として再度強調してみせたが、政府、民主党内にはいまだに原発の取り扱い、将来のエネルギー政策の展望、対策を示せないでいる。
政治家の言葉も約束も随分と軽いものだ(それが政治不信を招いて)と、いつも認識させられてきた。なにしろ最近の話題は、現首相が同じ民主党の元代表と会うこと、会って説得することに集中している異常さだ。
デフレ、円高不況に雇用不安の中、消費税増税に「政治生命を懸ける」とか、元代表と会って説得することが「一期(ご)一会(え)」とのエキセントリック(eccentric)な言葉が首相の口から出ては、政治家の謝罪と反省もその程度のもの(パフォーマンス)かと心寂しくなるばかりだ。