■20世紀初頭のモンゴル人達は、辛亥革命に際して漢族が清朝皇帝の位を奪い取って、大汗の位の継承者として侵略して来る危険を逸早く察知しており、当時としては最良の後ろ盾となるソ連を指導者とする事で、ソ連からも中国からも侵略されない独立を手に入れたのです。略奪好きのロシア軍でも、見渡す限りの大草原から奪い去る物はそれほど見付けられなかったでしょうから、彼らがモンゴルを欲した唯一の理由は満州征服の前線基地と、その尖兵として使える現地の若者であったようです。しかし、ソ連の傘下に収まる事を潔しとしない勢力も居て、彼らは日本の援助を頼りにソ連からも中華民国からも独立した国を建てようと運動していました。満州国を維持したい日本にとって、隣国モンゴルの情勢は重視すべきものではありましたが、それは海洋国家日本を大陸の深奥部に引きずり込まれる罠ともなる危険な要素でもあったのです。満蒙国境は権謀術数の渦巻く複雑な歴史を刻む舞台となったのですが、何故か戦後の日本では余り語られる事が無いようです。安彦良和さんの漫画『虹色のトロツキー』が、祖国の独立を願う日本人とモンゴル人の両親を持つ若者を描いて大きな衝撃を与えたのはちょっとした事件でしたなあ。
■1930年代末期には、内モンゴルの東部が満州国の支配下に入り、西部は王公徳王が日本の援助を受けて「蒙疆連合自治政府」を樹立して独立運動が続きましたが、日本が敗れて大陸を去ると、ヤルタ会談で「外モンゴルの現状維持」は決定済みであったので、問題の焦点は内モンゴルの去就に絞られて、ソ連と北京政府の思惑に挟まれたモンゴル人達の中には、フトクトの「内外モンゴル合併運動」やボインダライの「内モンゴル人民共和国臨時政府」等の動きが錯綜しました。しかし、1945年の6月から、日本の敗退を見越して既に中ソ条約の交渉が開始されており、そこで満州国のソ連利権・外モンゴルの独立問題・新疆の「東トルキスタン共和国」独立問題に関する取引が合意されていたのです。即ち、外モンゴルは独立を維持してソ連の支配下に留まり、新疆は中国領として承認されるが、満州問題は玉虫色で残されたのです。戦後の中ソ国境紛争は、済し崩しに満州利権を失ったソ連の未練と恨みを原因として繰り返されたとも言えますし、日本があまりにも満州国を手前勝手に傀儡化してしまって、戦後交渉に耐える現地の政府が生まれなかった悲喜劇に中国共産党が付け込んだ結果とも言えそうです。
■ソ連型の社会主義国家が崩壊した後の経済的混乱を終息させる特効薬は無く、ロシアはマフィア経済の闇が広がり続けて世界に拡大し続けていますし、東欧諸国はEU加盟に国運を賭けていますが、ヴェトナムやキューバのように東西冷戦の代理戦争を請け負って政権を維持していた国は、ソ連の指導と援助を失うと同時に光明を失いました。モンゴルも乏しい国富をロシアのマフィア経済に食い荒らされる危機に直面しているような話が聞こえて来ます。米ソの対立構造が解消された後に、自分達が所属すべき組織を見出せない国の窮状が早期に解決される可能性はまだ見えないようです。
■モンゴルは、常にロシアとチャイナとの間で一見内部分裂を起こすようでありながら、権謀術数を尽くして独立を守り抜く努力を続けて現在に至っているとも言えそうです。日本が介入して来た時期には日本の思惑も利用し、ロシアかチャイナかの究極の選択を誤らずに生き残ったモンゴルは、チンギス汗の時代から外交上手な国だったのかも知れません。それは、峻険な地形に守られたチベットの暢気な外交姿勢とは異なり、一望千里の平坦な草原地帯で生存圏を維持する民族の宿命が鍛えた技術だったのでしょうなあ。
■現在、モンゴル国に220万人、中国の内モンゴル自治区に350万人、ロシアのバイカル湖東岸のブリヤート共和国に30万人、そして遠くカスピ海西岸のカルムィク共和国に10万人が、近代国家が定める国境を越えて民族のアイデンティティの紐帯を維持するのはモンゴル語文化とチベット仏教の信仰だけです。1979年に初めてソ連とモンゴルを初めて訪問したダライ・ラマ14世は、旅行中に立ち寄った当時のブリヤート自治共和国で、チベット語で祈祷するモンゴル人達と交流し、ウランウデの仏教寺院の威容に感動していらっしゃいます。この寺院が建立されたのがスターリン時代の1945年であった事に驚嘆もなさったそうです。ソ連の崩壊でチンギス汗礼賛は解禁されましたが、ロシアに新たなイヴァン雷帝が出現しないとも限りません。今の所はモンゴル国の独立は安泰のようですが、急速に進む近代化の波が草原文化と素朴な遊牧民の生活形態を根底から破壊する危険性が高まっているのも確かです。独立という民族の宝を守る事と、民族の伝統文化を守る事との悩ましい鬩(せめ)ぎ合いは主権国家の宿命的な課題でありますから、その根幹が教育政策である事には国の区別は無いのでしょうなあ。
■1991年のソ連の崩壊で社会主義の看板も安心して下ろせるようになって、92年には国名を「モンゴル国」に変えて議会制民主主義と市場経済に移行する新憲法を制定し、93年には選挙で大統領を決めて、経済復興に邁進できる時代を迎えたのです。正直で元気なモンゴル人の中には、漢族族と見るとちょっと態度が狂暴になる傾向が見られますが、かつて毛沢東が「百年もすればモンゴルは自主的に中国に復帰するだろう」と放言した事に対する確固たるNOの反応だと考えれば納得は出来ます。地図を見るとモンゴル国と中国内モンゴル自治区との国境線は滑らかな曲線で括れる形をしているのですから、遠い将来において国境が変更されるならば、毛沢東の予言とは逆の形になるのではないかと想像したくもなりまうが、国境はどんなに僅かでも移動変更される時には、大量の流血を見るのが決まりなので、当事者双方に軽挙盲動は厳に謹んで頂きたいものでありますなあ。でも、経済協力圏だの共同開発計画だの、甘い誘惑はこれからますます強まって行くでしょうから、早めに私利私欲に走る上層部の腐敗を排除して法律的な予防策を講じておくべきでしょう。
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■1930年代末期には、内モンゴルの東部が満州国の支配下に入り、西部は王公徳王が日本の援助を受けて「蒙疆連合自治政府」を樹立して独立運動が続きましたが、日本が敗れて大陸を去ると、ヤルタ会談で「外モンゴルの現状維持」は決定済みであったので、問題の焦点は内モンゴルの去就に絞られて、ソ連と北京政府の思惑に挟まれたモンゴル人達の中には、フトクトの「内外モンゴル合併運動」やボインダライの「内モンゴル人民共和国臨時政府」等の動きが錯綜しました。しかし、1945年の6月から、日本の敗退を見越して既に中ソ条約の交渉が開始されており、そこで満州国のソ連利権・外モンゴルの独立問題・新疆の「東トルキスタン共和国」独立問題に関する取引が合意されていたのです。即ち、外モンゴルは独立を維持してソ連の支配下に留まり、新疆は中国領として承認されるが、満州問題は玉虫色で残されたのです。戦後の中ソ国境紛争は、済し崩しに満州利権を失ったソ連の未練と恨みを原因として繰り返されたとも言えますし、日本があまりにも満州国を手前勝手に傀儡化してしまって、戦後交渉に耐える現地の政府が生まれなかった悲喜劇に中国共産党が付け込んだ結果とも言えそうです。
■ソ連型の社会主義国家が崩壊した後の経済的混乱を終息させる特効薬は無く、ロシアはマフィア経済の闇が広がり続けて世界に拡大し続けていますし、東欧諸国はEU加盟に国運を賭けていますが、ヴェトナムやキューバのように東西冷戦の代理戦争を請け負って政権を維持していた国は、ソ連の指導と援助を失うと同時に光明を失いました。モンゴルも乏しい国富をロシアのマフィア経済に食い荒らされる危機に直面しているような話が聞こえて来ます。米ソの対立構造が解消された後に、自分達が所属すべき組織を見出せない国の窮状が早期に解決される可能性はまだ見えないようです。
■モンゴルは、常にロシアとチャイナとの間で一見内部分裂を起こすようでありながら、権謀術数を尽くして独立を守り抜く努力を続けて現在に至っているとも言えそうです。日本が介入して来た時期には日本の思惑も利用し、ロシアかチャイナかの究極の選択を誤らずに生き残ったモンゴルは、チンギス汗の時代から外交上手な国だったのかも知れません。それは、峻険な地形に守られたチベットの暢気な外交姿勢とは異なり、一望千里の平坦な草原地帯で生存圏を維持する民族の宿命が鍛えた技術だったのでしょうなあ。
■現在、モンゴル国に220万人、中国の内モンゴル自治区に350万人、ロシアのバイカル湖東岸のブリヤート共和国に30万人、そして遠くカスピ海西岸のカルムィク共和国に10万人が、近代国家が定める国境を越えて民族のアイデンティティの紐帯を維持するのはモンゴル語文化とチベット仏教の信仰だけです。1979年に初めてソ連とモンゴルを初めて訪問したダライ・ラマ14世は、旅行中に立ち寄った当時のブリヤート自治共和国で、チベット語で祈祷するモンゴル人達と交流し、ウランウデの仏教寺院の威容に感動していらっしゃいます。この寺院が建立されたのがスターリン時代の1945年であった事に驚嘆もなさったそうです。ソ連の崩壊でチンギス汗礼賛は解禁されましたが、ロシアに新たなイヴァン雷帝が出現しないとも限りません。今の所はモンゴル国の独立は安泰のようですが、急速に進む近代化の波が草原文化と素朴な遊牧民の生活形態を根底から破壊する危険性が高まっているのも確かです。独立という民族の宝を守る事と、民族の伝統文化を守る事との悩ましい鬩(せめ)ぎ合いは主権国家の宿命的な課題でありますから、その根幹が教育政策である事には国の区別は無いのでしょうなあ。
■1991年のソ連の崩壊で社会主義の看板も安心して下ろせるようになって、92年には国名を「モンゴル国」に変えて議会制民主主義と市場経済に移行する新憲法を制定し、93年には選挙で大統領を決めて、経済復興に邁進できる時代を迎えたのです。正直で元気なモンゴル人の中には、漢族族と見るとちょっと態度が狂暴になる傾向が見られますが、かつて毛沢東が「百年もすればモンゴルは自主的に中国に復帰するだろう」と放言した事に対する確固たるNOの反応だと考えれば納得は出来ます。地図を見るとモンゴル国と中国内モンゴル自治区との国境線は滑らかな曲線で括れる形をしているのですから、遠い将来において国境が変更されるならば、毛沢東の予言とは逆の形になるのではないかと想像したくもなりまうが、国境はどんなに僅かでも移動変更される時には、大量の流血を見るのが決まりなので、当事者双方に軽挙盲動は厳に謹んで頂きたいものでありますなあ。でも、経済協力圏だの共同開発計画だの、甘い誘惑はこれからますます強まって行くでしょうから、早めに私利私欲に走る上層部の腐敗を排除して法律的な予防策を講じておくべきでしょう。
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