■その好機は案外早く到来して、中国側がソ連の援助目当てで頼りない第一次国共合作を決めるのを見澄まして、ソ連政府の指導を選択して援助を受けたモンゴル人民義勇軍が、1921年7月11日に「人民革命」を起こして再び独立を回復します。資本主義経済が確立していた訳でもないモンゴルですから、マルクス主義もレーニン主義も関係なく、ロシアとチャイナを天秤に掛けてロシアに乗ったというだけの話です。
■同年11月には「ソ蒙友好同盟条約」が締結されて軍事援助を中心にソ連型の政府が名目だけですが、成立しました。外モンゴルを失った中国は激怒したのですが、さすがにソ連には刃向かえず、国境を固めて内モンゴルを死守すべく漢族の植民を強化し始めます。この辺の事情を押さえておかないと、後の満洲独立、日本・朝鮮・チャイナからの巨大な移民の動きは理解出来なくなりますぞ。現在の内モンゴル自治区で、間も無くモンゴル族が貧しい少数民族になってしまう事態を、満洲帝国を悪し様に語る人々はどう説明するのでしょう?勝てば官軍、昔取った杵柄で毛沢東大好き、中国大好き、社会主義万歳!の気分で北京政府のやる事は黙認するのならば、東アジアの近代史はぐみゃぐにゃに曲がってしまいます。勿論、盧溝橋事件以降の陸軍内部で盛り上がった出世競争熱は大問題ですが……。
■外モンゴルの独立は、国境の外に同じ民族が取り残される結果となって、皮肉な事に民族の分断状態を深刻なものにしてしまう結果となりました。しかし、モンゴルには同時にソ連と清王朝を継承したと自称する中華民国に対処する南北両面作戦を実行する力は無く、チャイナの勢力圏に留まって漢化政策に耐えながら民族の統一を維持するか、内モンゴルを切り捨てて国家の独立を果たすかの究極の選択が迫られていたのですが、それを民族の意志で決定できる状態ではなかったのでした。そしてモンゴルは、長年の経験からチャイナとの縁を切る決断をしたのでした。
■日本で関東大震災が起こった翌年の1924年、孫文は1月30日に開催された第1回全国代表者大会で「連ソ・容共・扶助工農」の3大政策を発表して、第一次国共合作が成立します。これは全てコミンテルンの指示に従ったもので、当初は米国をモデルとして多民族民主主義国家を標榜していた孫文がソ連の社会主義理念に共鳴した結果です。この人物の言動や行動に思想的な一貫性を求めても意味は無いようです。この9年前に、日本が「対華二十一箇条要求」を発表して世界中から顰蹙を買った事件が起きていますが、その原案は覇権争いを続けた孫文と袁世凱の双方が日本の援助を得ようと裏交渉で乱発した空手形を参考にして書き上げられているので、日中交渉の集大成として成立したようなものです。この餌に釣られて裏交渉を不用意に表に出してしまった日本は反日運動の盛り上がりに仰天してしまいます。
■中国共産党の謀略も盛んで、満洲建国に危機感を持っていたソ連も、大陸に利権を得たい米国も、この反日運動を大いに利用したようです。日本としては典型的なマッチ・ポンプ式の稚拙な外交政策によって謀略の餌食になった典型例のようなものです。モンゴルでは同年5月20日に54歳でボグド汗が死去。旧勢力を懐柔する役割を果たしていたボグド汗の後継者は選ばれずに、6月3日には共和制に移行した上で、11月のモンゴル人民共和国成立に至るのである。これ以降、モンゴルはソ連から新しい技術を導入して急速な近代化を開始しましたが、それは同時にロシア語教育の採用をも意味していました。モンゴル文字は急激にキリル文字に書き換えられてしまいます。イデオロギー教育は一夜にして転換出来ますが、言語文化の回復は非常に困難な仕事であり、現在もモンゴル文字は完全には復活していないのですなあ。記して銘すべき事態であります。
■文字を持たぬ遊牧の民だったモンゴルは、チベットの高僧パスパを元朝の「帝師」に迎えたフビライがチベット文字を基礎とする縦書き文字を公用語として制定したのが文字の最初で、このパスパ文字は霊験あらたかだったかも知れませんが、速記性に欠ける文字で甚だ不便だったので、通商用に普及していたウイグル文字を参考にして縦書きで左から右へと行を進めて書くモンゴル文字が定着していたのでした。しかし、世界で最も民族問題に精通していた?スターリン同志の指導で、母音が七つ有る縦書きのモンゴル語が、母音が五つしか無い横書きのキリル文字に強引に転換されてしまったのです。こうした悲劇が50年も続いた後に、ソ連崩壊で民族教育の復興が試みられて早速小学校からモンゴル語を教えようと張り切ったものの、教材も教師も消え去った現実の壁は想像以上に厚かったようです。
■仕方が無いので、低学年にはキリル文字を教えて高学年にはモンゴル文字を徐々に教えるという折衷策を採っているとも言われますが、どこかの国が、漢字文化に大鉈を振るって教養の欠片も無い国民を大量生産し続けている喜劇と好対照の話ではないでしょうか?
外モンゴルを奪われた北京政府は、スターリン同志に民族融和策の手本を示す為か当て付けかは知りませんが、内モンゴル自治区の民族学校ではモンゴル語を学べる体制を維持し、国内発行の紙幣にも小さいながらチベット文字等と並べてモンゴル文字を印刷して流通させています。勿論、その内モンゴルでも漢化政策が進んで、モンゴル文字の学習者が間も無く消滅するだろうと容易に予測出来るのですが……。
■同年11月には「ソ蒙友好同盟条約」が締結されて軍事援助を中心にソ連型の政府が名目だけですが、成立しました。外モンゴルを失った中国は激怒したのですが、さすがにソ連には刃向かえず、国境を固めて内モンゴルを死守すべく漢族の植民を強化し始めます。この辺の事情を押さえておかないと、後の満洲独立、日本・朝鮮・チャイナからの巨大な移民の動きは理解出来なくなりますぞ。現在の内モンゴル自治区で、間も無くモンゴル族が貧しい少数民族になってしまう事態を、満洲帝国を悪し様に語る人々はどう説明するのでしょう?勝てば官軍、昔取った杵柄で毛沢東大好き、中国大好き、社会主義万歳!の気分で北京政府のやる事は黙認するのならば、東アジアの近代史はぐみゃぐにゃに曲がってしまいます。勿論、盧溝橋事件以降の陸軍内部で盛り上がった出世競争熱は大問題ですが……。
■外モンゴルの独立は、国境の外に同じ民族が取り残される結果となって、皮肉な事に民族の分断状態を深刻なものにしてしまう結果となりました。しかし、モンゴルには同時にソ連と清王朝を継承したと自称する中華民国に対処する南北両面作戦を実行する力は無く、チャイナの勢力圏に留まって漢化政策に耐えながら民族の統一を維持するか、内モンゴルを切り捨てて国家の独立を果たすかの究極の選択が迫られていたのですが、それを民族の意志で決定できる状態ではなかったのでした。そしてモンゴルは、長年の経験からチャイナとの縁を切る決断をしたのでした。
■日本で関東大震災が起こった翌年の1924年、孫文は1月30日に開催された第1回全国代表者大会で「連ソ・容共・扶助工農」の3大政策を発表して、第一次国共合作が成立します。これは全てコミンテルンの指示に従ったもので、当初は米国をモデルとして多民族民主主義国家を標榜していた孫文がソ連の社会主義理念に共鳴した結果です。この人物の言動や行動に思想的な一貫性を求めても意味は無いようです。この9年前に、日本が「対華二十一箇条要求」を発表して世界中から顰蹙を買った事件が起きていますが、その原案は覇権争いを続けた孫文と袁世凱の双方が日本の援助を得ようと裏交渉で乱発した空手形を参考にして書き上げられているので、日中交渉の集大成として成立したようなものです。この餌に釣られて裏交渉を不用意に表に出してしまった日本は反日運動の盛り上がりに仰天してしまいます。
■中国共産党の謀略も盛んで、満洲建国に危機感を持っていたソ連も、大陸に利権を得たい米国も、この反日運動を大いに利用したようです。日本としては典型的なマッチ・ポンプ式の稚拙な外交政策によって謀略の餌食になった典型例のようなものです。モンゴルでは同年5月20日に54歳でボグド汗が死去。旧勢力を懐柔する役割を果たしていたボグド汗の後継者は選ばれずに、6月3日には共和制に移行した上で、11月のモンゴル人民共和国成立に至るのである。これ以降、モンゴルはソ連から新しい技術を導入して急速な近代化を開始しましたが、それは同時にロシア語教育の採用をも意味していました。モンゴル文字は急激にキリル文字に書き換えられてしまいます。イデオロギー教育は一夜にして転換出来ますが、言語文化の回復は非常に困難な仕事であり、現在もモンゴル文字は完全には復活していないのですなあ。記して銘すべき事態であります。
■文字を持たぬ遊牧の民だったモンゴルは、チベットの高僧パスパを元朝の「帝師」に迎えたフビライがチベット文字を基礎とする縦書き文字を公用語として制定したのが文字の最初で、このパスパ文字は霊験あらたかだったかも知れませんが、速記性に欠ける文字で甚だ不便だったので、通商用に普及していたウイグル文字を参考にして縦書きで左から右へと行を進めて書くモンゴル文字が定着していたのでした。しかし、世界で最も民族問題に精通していた?スターリン同志の指導で、母音が七つ有る縦書きのモンゴル語が、母音が五つしか無い横書きのキリル文字に強引に転換されてしまったのです。こうした悲劇が50年も続いた後に、ソ連崩壊で民族教育の復興が試みられて早速小学校からモンゴル語を教えようと張り切ったものの、教材も教師も消え去った現実の壁は想像以上に厚かったようです。
■仕方が無いので、低学年にはキリル文字を教えて高学年にはモンゴル文字を徐々に教えるという折衷策を採っているとも言われますが、どこかの国が、漢字文化に大鉈を振るって教養の欠片も無い国民を大量生産し続けている喜劇と好対照の話ではないでしょうか?
外モンゴルを奪われた北京政府は、スターリン同志に民族融和策の手本を示す為か当て付けかは知りませんが、内モンゴル自治区の民族学校ではモンゴル語を学べる体制を維持し、国内発行の紙幣にも小さいながらチベット文字等と並べてモンゴル文字を印刷して流通させています。勿論、その内モンゴルでも漢化政策が進んで、モンゴル文字の学習者が間も無く消滅するだろうと容易に予測出来るのですが……。