いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
真我という錯覚.2
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
アナタという存在の本質は、何者でもありません。
それが真実です。
その真実を認めようとせず、「個」というパーソナリティー・アイデンティティを確立したがるのが「自我(エゴ)」です。
必死に「何者かになろう」と、その方法を模索し「存在全体からの分離」を望むのが自我の最大特性。
ですが、元々が「何者でもない存在」なのですから、どうあがいても「何者か」になることはできません。
この不可能なことにチャレンジし続ける「空回り」こそが、釈迦の言う「ドゥッカ(苦)」や、イエスが説く「原罪(的外れ)」です。
何者かになろうと頑張れば頑張るほど自我(エゴ)が拡大し、自らを、また、周囲を苦しめる結果となります。
自我は、「自分(個性・アイデンティティ)」を存続させておく為なら、どんなことでもします。
どんな手を使ってでも「個」でありつづけようとします。
決して「全体(何者でもない、存在本来の姿)」へ溶け込もうとはしません。
なぜなら、全体へ溶け込み「個」でなくなるということが、「自我の死(消滅)」を意味するからです。
自分が幻想であることに気付いていない幻想が、夢から覚めることを恐れているのです。
『真我がある』という錯覚は、そんな自我が生き残りをかけたサバイバル作戦の一つです。
…
では、上記を踏まえて先日の文章と模式図を確認してみてください。
「アナタという存在の本質は完全・完璧なものです。アナタはアナタのままでいいのです。ですから、他の何者かになろうなんて、エゴを肥大化させる様な努力は必要ないのです。さぁ、ありのままの状態(真我)を発見しましょう。アナタがこれまで苦しんできたのは、また、なにかしらの不満を抱えていたのは、その人生に何かが欠けていたからではありません。幻想の自分(固定化した思考)に飲み込まれ、本来の完全性を発揮出来ていなかったからなのです。アナタが幻想の自分から離れ、ありのままの状態であるために精神修行が必要となるのです。“必要となる”と言っても、それは物質や新たな知識を得ることではありません。完全性を妨げるモノを手放していくことなんです。」

文章自体は真実を指し示していますが、模式図はこの文章を歪曲して解釈した「自我目線での模式図」です。
「自我が消失すれば、真我を発見できる。」
このことを、自我(思考)は自らの生き残りを賭けて、次のようにアウトプットしました。

「自分の内側奥深くには、わたし本来の光り輝く“真我”という姿がある。」
これなら、自我が消えてもなお「光り輝く個性」、つまり「真我」という名の「何か」を残すことができるからです。
つまり、自我は「個」の消失を避けるため、「真我」に何らかの「定義」を持たせ、そこに「個としての性質(自我)」を継承させました。
この「何か」のことを人は「魂」と呼んでみたり、「霊」と言ってみたり、「心」と名付けてみたり、「意識体」などと解釈したりします。
どんな名称であれ、そこに「定義づけ」を行い「個としての性質」を維持させようとするのです。
「個」である以上、これは「真我」ではなく「真我のふりをした自我」なんです。
このトリックに気付けないある人は、このように嘯(うそぶ)きます。
「この“光り輝く個性”の寄り集まりが“神”である。」
そんなのは大嘘です。神でもなんでもありません。
「光り輝く個性」などと自らを美化し、自分を神だと勘違いしている自己陶酔型エゴの塊です。
いまだ「個」に執着し続けている自我の姿です。
しつこいようですが、存在そのものは、何者でもないのです。
それを図にするとこうなります。

このエゴの中、「自」と「他」を分ける厚い壁の内側にあるのは…
…
…
…
…

からっぽ。
「空(から)」、つまり「空(くう)」です。
自我(エゴ)という名の壁がなくなった時、壁の内にあった「空間(本当の自分)」と、壁の外にあった「空間(大いなる存在)」が一つとなり、存在本来の姿(全体)となるのです。
その時、“幻想の自分”の内側深くにあったもの、および“幻想の自分”を包みこんでいたあらゆるものこそが、本当の自分であったことに気付き、自分が“全て”であることを知ります。
“自分”が、自我(幻想・思考)から真我(空間・宇宙)へ逆転する瞬間です。
精神世界で『ワンネス(すべては一つ)』とか『私はアナタ。アナタは私。』と語られるのは、こういう仕組みがあるからです。
←どうだべ? 難しかったべか?(北海道弁で)
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アナタという存在の本質は、何者でもありません。
それが真実です。
その真実を認めようとせず、「個」というパーソナリティー・アイデンティティを確立したがるのが「自我(エゴ)」です。
必死に「何者かになろう」と、その方法を模索し「存在全体からの分離」を望むのが自我の最大特性。
ですが、元々が「何者でもない存在」なのですから、どうあがいても「何者か」になることはできません。
この不可能なことにチャレンジし続ける「空回り」こそが、釈迦の言う「ドゥッカ(苦)」や、イエスが説く「原罪(的外れ)」です。
何者かになろうと頑張れば頑張るほど自我(エゴ)が拡大し、自らを、また、周囲を苦しめる結果となります。
自我は、「自分(個性・アイデンティティ)」を存続させておく為なら、どんなことでもします。
どんな手を使ってでも「個」でありつづけようとします。
決して「全体(何者でもない、存在本来の姿)」へ溶け込もうとはしません。
なぜなら、全体へ溶け込み「個」でなくなるということが、「自我の死(消滅)」を意味するからです。
自分が幻想であることに気付いていない幻想が、夢から覚めることを恐れているのです。
『真我がある』という錯覚は、そんな自我が生き残りをかけたサバイバル作戦の一つです。
…
では、上記を踏まえて先日の文章と模式図を確認してみてください。
「アナタという存在の本質は完全・完璧なものです。アナタはアナタのままでいいのです。ですから、他の何者かになろうなんて、エゴを肥大化させる様な努力は必要ないのです。さぁ、ありのままの状態(真我)を発見しましょう。アナタがこれまで苦しんできたのは、また、なにかしらの不満を抱えていたのは、その人生に何かが欠けていたからではありません。幻想の自分(固定化した思考)に飲み込まれ、本来の完全性を発揮出来ていなかったからなのです。アナタが幻想の自分から離れ、ありのままの状態であるために精神修行が必要となるのです。“必要となる”と言っても、それは物質や新たな知識を得ることではありません。完全性を妨げるモノを手放していくことなんです。」

文章自体は真実を指し示していますが、模式図はこの文章を歪曲して解釈した「自我目線での模式図」です。
「自我が消失すれば、真我を発見できる。」
このことを、自我(思考)は自らの生き残りを賭けて、次のようにアウトプットしました。

「自分の内側奥深くには、わたし本来の光り輝く“真我”という姿がある。」
これなら、自我が消えてもなお「光り輝く個性」、つまり「真我」という名の「何か」を残すことができるからです。
つまり、自我は「個」の消失を避けるため、「真我」に何らかの「定義」を持たせ、そこに「個としての性質(自我)」を継承させました。
この「何か」のことを人は「魂」と呼んでみたり、「霊」と言ってみたり、「心」と名付けてみたり、「意識体」などと解釈したりします。
どんな名称であれ、そこに「定義づけ」を行い「個としての性質」を維持させようとするのです。
「個」である以上、これは「真我」ではなく「真我のふりをした自我」なんです。
このトリックに気付けないある人は、このように嘯(うそぶ)きます。
「この“光り輝く個性”の寄り集まりが“神”である。」
そんなのは大嘘です。神でもなんでもありません。
「光り輝く個性」などと自らを美化し、自分を神だと勘違いしている自己陶酔型エゴの塊です。
いまだ「個」に執着し続けている自我の姿です。
しつこいようですが、存在そのものは、何者でもないのです。
それを図にするとこうなります。

このエゴの中、「自」と「他」を分ける厚い壁の内側にあるのは…
…
…
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からっぽ。
「空(から)」、つまり「空(くう)」です。
自我(エゴ)という名の壁がなくなった時、壁の内にあった「空間(本当の自分)」と、壁の外にあった「空間(大いなる存在)」が一つとなり、存在本来の姿(全体)となるのです。
その時、“幻想の自分”の内側深くにあったもの、および“幻想の自分”を包みこんでいたあらゆるものこそが、本当の自分であったことに気付き、自分が“全て”であることを知ります。
“自分”が、自我(幻想・思考)から真我(空間・宇宙)へ逆転する瞬間です。
精神世界で『ワンネス(すべては一つ)』とか『私はアナタ。アナタは私。』と語られるのは、こういう仕組みがあるからです。

コメント ( 66 ) | Trackback ( )
« 真我という錯覚 | 白昼夢 » |
執着とか、囚われとか、そういう物がどんどん無くなったら私には何も残らない。私の手の中には何も無い。私はきっと、からっぽだ。と、すごく恐れてました。
それが普通なんですね。安心しました。
真我のトリックには、気づきませんでした。
脱力感と安心感が芽生えました。
今夜はぐっすり眠れそうです。
ありがとうございました!
導きだす答えが同じでも、それを多くの人に解り易く伝える事はやっぱり僕は黒斎さんの様にはうまく伝えられないなあ・・・
前からわかってた事だけど、やっぱり僕が国斎さんの様なブログをやるもんではないよなって再確認しましたね すごいです。
あと・・・ 蛇足ですが・・・ すいません前のコメントでリンクを貼り間違えてたので・・・冷やかし程度に覗いてくれれば、全然つまらない駄文ですが・・・
なぜ感情があったり、肉体を持って、そして感覚があって・・・なぜここにいるんだろう?
アパレル小売販売店を営んでいます。
着飾るのも「自我」のため・・・?!
たまに空しくなる時もあります。
しまった。またドツボコース?!
口先では無く
肉体で愛と平和を伝播する
そうすることで始めて言霊は発生する
個性とは肉体
個性とは『今存在する制限規約:肉体』
この肉体から否定と攻撃を排除し
愛と平和のみを放出する状態になれたとき
自身の個性=制限の解放は起こるだろう。。。
それでも必ず死ぬけどね^^
死を死と思わないのも自由
死を死として捉える事も自由
愛と平和の名の下に自身の個性で選択すればいい
個性には厳しさと楽しさが必要
神様を裏切った瞬間を見逃さない厳しさと
神様の愛と平和を肉体から放出する楽しさと
その二つの根気強さに
神との親しみは倍加する^^
これは勝手な意見かな。。。
これは身勝手な私見かな。。。
もしこのコメントに否定が起こったら
速やかに削除して下さい。。。感謝します
この先がとてもとても気になるのです。
続きをよろしくお願いします!
楽しみにしていま~す!*!*!*!
大丈夫だよって口に出さずにつぶやくんです。
心配したって、なるようになるんだから、
対処法で武装したところで
次の心配が生まれるだけなんですよね。
考えがぐるぐると回るのは何故なんでしょう。
これが処世術で身につけたエゴなのかな。
これがエゴだと気づいていれば振り回されなくてすみますね。
黒斉さん、ありがとう。
瞳孔開きました。
これが空の考え方かぁ!
存在そのものは何者でもないのだから
「すべては一つ」この意味が理解できませんでした。
よ~~くノートを読み返してみます。
ありがとうございました。
これからもよろしく 期待してます。
意外と「ああ、そうですよね」って感じで素直に受け止められました。
いろいろとありがとうございます。あとは体験していくことだけですよね。私もめんどくさがりだったりします(^^;)時期がもうそこまで来ているような気はしますが・・・やんなきゃダメですかぁ??
えーんえーん・(ノД`)・°・
そういえばこの前のS○X失敗した時に彼女に言われたんですけども「なんで疑うことばっかり考えるの?何で今を見ないの?」って言われてガーーン!!って来ましたねえ(; ̄Д ̄)・・・バタリ (o_ _)o
真を突かれました。
他の男としてるんじゃないの?他に好きな男が居るんじゃないの?俺となんかしたくないんじゃないの??って感情が出ていましたね。いろいろな裏事情はあるのですが、愛しているはずなのに相手を信じられず、要らないって感情もあったりしてグチャグチャしちゃって。今もすぐ不安になったり。ヽ(  ̄д ̄;)ノ
彼女は言いました「私の努力って無駄だったんだね」って。結構ズボラで久々に帰ったら鍋の中にきれいな臭い物体が出来てたりすることは日常茶飯事だったりするんですけど、最近考えてくれているようで洗濯していてくれたり、帰れる時に合わせてご飯の用意していて家に居てくれたりしたり。(それって当たり前じゃない?ってツッコミは無しで。今までは全く無かったわけで)努力が見えているにも関わらず、それを受け止めずにいた自分に反省しちゃったり・・彼女曰く、「今目の前に居るって事はどういうことか?」って。ほとんど私(Fam)が帰れないけど、一緒に暮らしている。生活もいろいろ厳しくって冬服も買ってあげられなかったり。「金銭面だけで考えるなら、もっと○○買ってあげるよ~的なパパも居るし、一緒に生活するのが嫌ならそっちに行ってるよ。それでもそっちに行かずに生活キツくても一緒に暮らしてるのはどうしてだと思う?」って。
そして一度も言った事はなかったけど、「私も好きなんだよ」って。その時は心がささくれてて、「うれしい」って素直に思えなかったけれども、後で冷静に考えれば、それを言うって事がどういう意味を持っているかって。そう発してしまったら後戻りは出来ない事(今までのように他人他人した生活)って事を理解した上で発しているって。彼女がそれを望んでいないと言えない言葉だったって気づいて。
ほんの少しだけ今までより通じあえた。
いや、私が少し通じる力をもらえた。
与えてもらった。って気づいた。
まだ疑う気持ちが残っている。捨てられずに残っている。彼女が可愛いから。好きだから。愛しているから。心配しちゃう。でも信じている気持も芽生えた。夜のバイトをして朝帰りしても、どこかで信じている。心配する気持より信じる気持が強くなっているのが解った。本当は裏ではどうだか判らないって気持ちが無くならないけど。
心配する気持が無かったら「本当はどうでもいいんじゃないのお前?」って自我の言葉も聞こえてきそうな気持ちもあったり。いつもドキドキ。自分の心と闘ってる。無我の境地を見る時、彼女の事が消えて無くなるのが解ってて、それが怖い自分がいる。
それらもひっくるめて全体として見れる境地に至れない自分は未熟だなーとは思いつつも、捨てられないのが自我なのかなぁ。
黒斉さん、黒妻さんや竹彩ちゃんが居ないけれども一緒だから大丈夫って境地まで至っているんでしょうか?それにも囚われない境地に入れるのかなって。まだ黒斉さんにもあるのだと感じますけれども、無くすことは正しいとは感じません。全てを引き受ける度量と言うか全てを受け入れる度量(あら?一緒の事書いてるし・・)が必要なのだろうなって感じます。
今、周りに居る人たちも今、自分として居る自分もひっくるめて受け入れる気持が・・・・
なのでしょうかね。
長い感想文になっちゃいましたね。(^^;)
ここまで書く気はなかったんですけれども。またかかされたんでしょうかねえΣ(゜д゜lll)
いつもお世話になってます。(^^)
tomomiです~~~~~
唸るほどに見事な解説!!!!
さすがですね~~~~
座布団500枚くらいあげたいです。(笑)
とりあえず、縁起のよさそうなお団子をどうそ!
あはははは
今日の日記の内容は、特に特に重要ですね!!
皆さんに読んでいただきたいでーーす!
ガシガシ宣伝させていただきます!!
素晴らしい説明でした。
「ポケットの中のダイアモンド」という本を
読んでいましたので・・・
最初の絵図のイメージでおりましたねぇ~
でも 空っぽ の方が納得できました。
だから もとは1つ。
私は 大きな流れの本質と ほんとうの自分の本質は
同じ!
ならば 触れてみたい。。。と思っていました。
すでに触れていた のですねぇ~
また ここから始まります。
ありがとうございました。
すっかり、真我は、ダイヤみたいなものと勘違いして
ました。
真我とは、空の状態ですね。
なんか、自分の自我がさびしがってます。
「空」の意味、「ワンネス」の意味がやっと
わかりました。
壁の内と壁の外が同じだったんですね。
壁の内がからっぽとわかって、とてもホッと
しました。な~んだ、って(笑)
今まで光り輝く“真我”を求めて必死でしたから…。
何者でもないって気持ちいいですね!
ありがとうございます!
なんでこんなに不安なんだろう、
ミスってもない時に、ミスったらどうしようって
思ったり・・・。
結局、自分はいつも何に対しても不安で心配
してるんだって気づいた時がありました。
その時に、よし、自分の中で不安に思っている
原因を一個一個考えてみようって思って
一個また一個って思いついた順に
これは単なる考えすぎ、これは将来に対する妄想
じゃん、とかあてはめていったら・・・。
なんと、不安や心配はひとつもないじゃん!!
と思った瞬間に
ぽんっ!!となにもない
真っ暗なだだっぴろい世界に放り出された
自分がいて超びっくり\(◎o◎)/!
した事があります。
あまりに広い場所で、それがまたすごく
こわくなってあわてましたが。
それ以来、いろんなことに対して
不安や心配することが少なくなりました。
まったく無いっていったら
嘘なんで(^_^;)
なんとなくそれは「空」に近いのかなって
思いました。
見送ったことがあります(盲腸の手術ですが)
友達の手術は問題なく終わったのですが、その日の夜
私は怖くて眠れなくなってしまったんです。
もし、私が全身麻酔で手術を受けることになったと
して・・・麻酔からさめることができないまま手術中
に死んでしまったら私の意識はどうなるのだろうと。
あの世は昔から信じていたはずなのに、その時ばかり
は、「無」になるイメージから逃れられませんでした
まさに、消えてなくなるという感じです。
エゴが「個」を確保する為に何でもするなら、あの時
感じた恐怖は、エゴ自身が感じた恐怖だったのかなと
今回のお話を読ませていただいて感じました。
だから、人は「死」を恐れるのかも知れません。
にしても、分かるようで分からない、この歯がゆさ
何ともいえません(><)
ちなみに僕は無宗教なのでキリストの復活みたいな
意味での名前では無く単にクリスマスイブ生まれなのでイブにしましたf^_^;
今回のお話かなりわかり易かったです☆
でも何で自我は自分が何者でも無い事を恐れ
エゴで固めようとするのでしょうか…?
う~ん、難しい(>_<)
“自分が全てであったことを知る”
こうして、全てが一つを悟った私(もはや『私』という概念がないかもしれませんが^^;)は
一体何を望むのでしょうか?
その後が、とっても気になります
何日かかけて全て読みました。
なんか目から鱗とはこの事ですね。
ありがとうございます。
これからも応援してます!
「真我のふりした自我」
やられちゃいましたねー
ほとんどの人がコレを求めて旅してますよね
まさか偽物だったとは!
おのれ~~~~~~!
なんて怒りません♪
ハイ、偽物ちゃん、さよーなら♪です
だって凄く楽になれました。
「からっぽ」って、エゴが真実を隠す壁を作っていただけで
壁を壊しちゃえば全てに繋がっているんですものね
あー気持ちいいなー
自由だーーーー♪
自我の中身は空だったのですか?
結局、自我とはゴムボールのようなものでボールの中に
素晴らしい真我が宿っていると思ってるけど、
その中身はゴムボールの外側とおなじ空気。
自分と思っていた物は、元々全体であるの空気をゴムボールで包み込んでいただけなのですね。
何事も体験と感動が大切かと思いますが
わたしもピカピカ輝く「真我」というものが
自我とは別に「在る」んだと思っていました。
外と内を隔てている壁(自我)をとっぱらったら
相即相入のイメージでひとつになるんですね。
元々ひとつだったんだとそこで気づくわけですかぁ。
うーーん
放心したら空になりました。ちょっとだけよ(笑)
続き楽しみにしています。
個とは、錯覚と、見出だしたり!
私の本質は、形をもった芸術品ではなく、何にでもグネグネ変われる粘土(「空」)と、見出だしたり!
黒斎さん
ブラボー( ・∀・ )
あってる?
自分のアイデンティティーや生い立ち、血縁関係など
自分に係わる観念を浄化したところ、何もない自分を
意識しました。意識はあるのですが、他は何もない。
表現が難しいのですがこんな感じでした。
最近になり、自分は自然の一部だと感じるようになり
ました。
小さい頃から体が弱くて、幼少期のほとんどを大きなお部屋で寝ているか本を読んでることが多かったんですが
自分がベットの中でぐっと目を閉じて、長時間横たわってると現れていくる世界として
「からっぽの世界」の絵と記事が
すごくよくわかります。
ダイアの方の記事も解り易かったんですが、
実際はからっぽのほうですよね。
長時間ベットで一人横たわってると
今も極たま~に現れます。
昔は、そこの世界に行くのが怖くて、でも飲み込まれそうになって、寝てなくちゃいけないのに、歯を食いしばって、どきどきして、飲み込まれる瞬間に電気をつけて、飛び上がる、を繰り返してました。
でも日に日に大きくなって、自分の意識の重力が膨れ上がる感じ(上手く説明できなくてごめんなさい)、頭の中が広がる感じが免れなくなります。
今では、その瞬間が来たら、怖がらずに身を委ねます。大きな自分になって、同時に消えるから。からっぽだけど、満たされて優しい世界で、別に怖くないことですよね。
んーわかんないですよね。
でもその後は、温かい優しいお水の中にゆらゆらユレテイル感じでとても気持ちいいです。
自分と他人をそのお水にゆらゆらのせて、世界の全てが幸せであることを心から思えてくる、そういう気持ちや感覚が湧き上がる時間。
んー、この世界ですか?
自分の人生と他人の人生、つながっているように見えても
そう見えないのは、自分の人生を歩いてはじめて周りの人にもイイ影響を与えられるからなのでしょうか?
そのためにも、エゴによって思考による自己防衛状態にすぐに気付けるようになりたいですね。
以前、般若心経の訳を読んだ時、何か引っかかっているものがあったんですが、それが何だか分からず…
今ここで初めて「空」の意味をちゃんと理解していなかったんだ、ってことが分かりました。
最初から最後まで「自分」って言うものはなくて、ただ「全」だけがあって、今こうして地球で泣いたり、笑ったり、悩んだりしながら体験しているのも「自分」ではなく「自分」と言う姿をした「全」だったんだなぁって…
何と言うか、「自分」がなくなった感覚、全体に溶け込んで一つになった感じがあって、ああ自分は「神の器」ってだけで、神の意志を体現するただの道具だったんだぁ、って思っていたんですが、
その聖なる道具としての何もない自分…その感覚がだんだん薄れ行く中で、「世の中の為に何かしたい」と言う思いにいつの間にかエゴが入り込み、「神の道具である自分」と言うものをアイデンティティーにしてしまっていたんだ!!と分かりました。愕然です。
自分だけは大丈夫だ、とか、ちゃんと分かっている、とか、そう言う思いも傲慢で…エゴだったんだぁ!
と思うと…なんかもう、恥ずかしくてジタジタしてます。ぐはぁ~
でもスッキリ☆しました。ふふ。軽くなった感じです。肩の力が抜けました!
でも一つ疑問が浮かんできたんですが、私の勝手な解釈で、大元の「全なる存在」から分かたれた時、
エゴが勝手に作り上げた個性ではなく、全なる存在のパーツである「魂の特質」、と言うか性質と言うか…
そう言うものを与えられていて、それをこの世で活かしているって思ってたんです。
そしてまた、全なるものに溶け込む時にお返しする、みたいな感じで。そう言うものも、最初からなかったのかなぁ、って思ったのです…
あっ!また長くなってしまいました。スミマセン。
(しかし、恐るべし…自我のサバイバル…むむむ)
またエゴの幻影に惑わされてしまわないように、気をつけます。黒斎さん、ありがとうございました!
ろくに喋れなくても「ね?楽しいね」と
それが、段々欲が出来てエゴにもなって
他人の欲とぶつかって、ぶつけて
互いにどんどんエゴが増えて凝り固まってしまう
その繰り返しだと思います
純粋だった頃を思い返してみると・・・
「特別な何者でも無い自分」が居ました
大した事もしない、けれども今の様に苦しんだり足掻いたりもしていませんでした
病気や怪我を抜きにして、ですが今の自分にはこんな事の様に思えます
う~ん、まだまだ理解出来てないみたいです
頭をぺちこ~ん!
なるほどぉぉ!
アハ体験まではいかずとも、
ァヘ体験くらいはできたかも~♪
アバター○チューナーの2のほう(^-^)
シャンティ・シャンティ!
エゴが強いのかなぁ…(泣)
的外れな質問かもしれませんがお許しください。
魂自体がそれぞれに宿っているわけではないのであれば、幽霊と呼ばれるものの正体はエゴですか?
人は肉体の死を迎えたら、その後にすべてを思い出し
全体へ戻り一体化するのだと理解していましたが、エゴから離れられないまま迎えた死は、全体との一体化は完全には起きないということでしょうか?
頑固になったエゴは肉体が死んでもそれだけで生き続ける(存続する)のでは?と思ってしまったのですが・・・。だとしたら輪廻があるのもそのせいで・・・解消されなかったエゴ自体を何らかの形で持ち越して輪廻しているのでしょうか?
壁の内と外は同じ、壁の内は空っぽで輝く真我など無し
ボールの中には素晴らしい真我が宿っていると思っていても中身は外と同じ空気なり
皆様のお陰で「すべては一つ」「私はあなた、あなたは私」という仕組みが理解できました。
ありがとうございました。
言葉で表現ができませんが
「これで、良かったんじゃん」
です。
書き込みは初めてですが、しっかり全記事読ませて頂いてます。
自分で思っていたことと内容が一致して安心したのと
黒斎さんの説得力・表現力のうまさに感動しました。
同じ道産子です。これからも応援してます。
私には霊感はありませんが、母が霊感のある人でよく
亡くなった人や動物の霊を見たり感じたりしてました。
江原さんの「天国からの手紙」などを見ていると、
霊の存在がリアルに感じられ、まんざらウソとも思えず、
霊って一体なんなんだろう、、と疑問に感じてしまいます。
お元気ですか?
去年マリアさんより私に送ると言われた宮沢賢治の
「雨にも負けず、風邪にも負けず」の詩が何故私に
必要なのか?ズーと考えて頭の隅にありました。
そしてその意味がやっと、やっと理解できました
それは、あるきっかけで私がどういう生い立ちの人間か分かったからです。 自分一人で何とか知る事ができました。その時マリアさんの送ってくれた詩がいかに私に大切で必要な詩かが分かったのです。
私は、利口でもなしオオバカでもない普通の人で
「見ざる、言わざる、聞かざる」を守り静かに余生を
送る覚悟です。
マリアさん、本当に、本当にありがとうございました。
魂の成長と言われているのはこのシャボン玉が膨れて大きくなっていくような感じ。霊性の高い人と言われる方はこの大きさがものすごーく大きくなれる(なれている)人だと。土地神と呼ばれる方はこのシャボン玉のサイズがその土地全てを飲み込むくらい大きいんではないかなと思います。
ちなみに欲ってこのシャボン玉の成長より早く出てしまうウニのトゲのような感じがしています。だから欲深いといびつなシャボン玉に。行き過ぎると割れる??極悪人が急に善人になっちゃうのって全部の欲が飛び出して全体が針で丸くなったら(それこそウニのように)針と針の間が干渉して埋まり、丸になっちゃう。するといきなり魂が大きくなっちゃう。ってわかりずらいですね・・脱線しました。
そして、この地球にもあると思います。地球サイズのシャボン玉。われわれ個の人間の霊ってその地球のシャボン玉の中に生まれる泡のようなシャボン玉なのかなーって。肉体が消えてもシャボン玉がふわふわ浮いていて、それが霊と呼ばれたりするのかな。
光の中に帰ると言われることって、個のシャボン玉がパチンと弾けて全体に溶け込むことなのかなーって。でも、溶けたとしてもそれは地球サイズのシャボン玉の中でのことで、その中でまた泡が生まれたら地球の中の空から生まれた同質の者ってことに。
アセンションとか言われていますが、これって地球(サイズ)のシャボン玉が割れて溶け込むことなのかな?って。でも中にあったシャボン玉が割れるわけではないので、さらに外の空間に飛び出すのかな。でもね、多分太陽系サイズのシャボン玉もあるでしょうし、そのさらに外には銀河系サイズのシャボン玉もあるんでしょうね。そして宇宙全体を包んでいるシャボン玉も。
個のシャボン玉は地球のシャボン玉(地球の意志)の中に居ますから、繋がれる人は地球の意志に触れることも出来るのかなって。
他の土地の神様と繋がりたかったら、その土地を包んでいる土地神のシャボン玉の中に入りに行く(参拝する)ってことなのかなって。
なんとなく私のイメージのまとめですが、いかがでしょうか?
自分たちはどんなにあがいても嫌がってもワンネスであることには変わりないんだし、ワンネスでなかった時なんて一時もないんだし。それを改めて確かめる意味でもここに個人としているんだから、ここで生きている限りは今この瞬間もワンネスと同時に今の個としての存在を楽しめばいいと思う。考えすぎるとマインドが出てきてワンネスであろうとする自分を個にしてしまうから、今ワンネスであると感じるだけでいいんじゃないかな。たぶん。自分はそう思う。
「生れつき」発達障害や人格障害などの心の病を持っている人がいますよね(僕もたぶんそうなんですが)
そういう場合、その原因が前世のカルマや、学びのために仕組んだカリキュラムだったりすることはあるんでしょうか。
わたしは霊はエゴの残留思念のようなものかなあ、、
なんて想像していましたが、シャボン玉のイメージは
わかりやすいですね。
極悪人が善人に豹変するウニのたとえは
なんとなく分かるような気がします。
陰極まれば陽になる。。かな。
猫にはちょっと難しかったですけど(^^ゞ
貴重なコメントありがとうございました。
なんていうのも、自我の感想?
「コクサイさんはエゴの中は「空」ではあるけど「無」であるとは言ってないと思う。」
自分に備わっている全体としての空の一部を囲んでいるものが(エゴが)解けなず、閉じ込められたままの状態が霊と呼ばれる者なのかと・・・。この考えは違うと思いますか??
物事には何でも順序、順番があるんだと思うこの頃です。
真理を求めて日々の生活に気をつけて生きて、いや生かされていますと、今の自分に必要なものがちゃんと用意されていてそれを確認して進むだけかもと思うこの頃です。
わたしにはまだ霊だ魂だ心だの段階ですが、このままの状態でいけばきっと理解出来る日がやってくると思っております。
理解できなくても何も焦ることなく、順序よく進めばいいかなぁと思っています。
悩むってなんだったの?と思えるようになった今がわたしの立ち位置なのだと思っております。
これからも楽しみに拝見させて頂きます。
ありがとうございました。
「エゴの中は空ではあるけど無ではない」ってこと。
無ではないのだから、喪失感を感じる必要はないってこと。
でも「王様は裸で…」のUnknownさんの言っていることは正直で、もっともだと思う。本当に分かっている人は少ないと思う。書いてないだけで心から納得していないと思う。たぶん。でもそれは仕方ないと思う。これは頭で理解できないもので、コクサイさんの言う体験しないと分からないものなんだろう。だったらあまり考えても仕方ない。ブルース・リーのセリフなんだろう。「考えるな。感じろ」
ちょっとだけ!ちょっとだけ、私の勝手な意見ですが、書かせてください。(ウズウズ)
エゴの中が「空」=「全」だと分かって、「じゃあ何のために今生きているのか」と思われた方も多いと思うんです。
元々私達は「全ては一つ」であるので、それをより深く知るために、全体から切り離された「個人」と言う感覚と、「他人」と言う二元性が必要だったんですよね。
「全」である記憶を封印して、エゴに支配され「個人」だと思い込んで生きる中で、私達は孤独を感じたり、他人に振り回されたりしますよね。人間関係で悩んだり、他人を憎んだり、疑ったり、妬んだり。
そう言う「体験」が必要なんだと思うんです。
「全」である時は体験できないものですから。
そうやって体験しながら生きて行く内に、自分は「全」であったんだと気付く。
究極の分離を体験した後、「全」であったことを思い出すと、いかにそれが素晴らしく、安心できるものなのかが分かる。そうやって体験して初めて知ることが出来ると思うんです。
その為の「個」なんじゃないかなぁと。ですので全ての道はローマに通ず、じゃないですけど、今私達の目の前に横たわる問題や悩みは、最後には「自分は全であることに気付く」事に繋がって行くので、「わたし」さんが書かれていたように、今は一つ一つ目の前の問題と向き合って、エゴが作り出した幻影に気付き、自分を限定している思い込みや信念や葛藤を一つ一つ手放していけばいいと思うんです。
今のこの二元性の地球では肉体は別々で、「個」として存在しているように見えますが、この瞬間も本当は「全」であるので、安心して、目一杯この地球での生活を楽しめばいいんじゃないかなぁ、と思った訳でアリマス!
あぅ。ちょっとだけよ~と言いながらまたもや長くなてしまいました…失礼しますた!
怖い
何の意識も無いなんて
怖いです
苦しくても
エゴ
あった方がいい気がするのですが
次回楽しみにしてます
自分も同じ考えです。
神から分離して、神ならざる体験を
して、神に再び戻る。
そのすべてに神はいるのだけど、
それを思い出してしまったら、
分離の世界は終わってしまう。
至高体験や神秘体験とは皮肉にも
そんな世界を思い出してしまう、
せっかちな人?または、その職業?に
つくシナリオのある人、もしくは
ただのエンターテイメントで体験
するのだと思います。
だからといってそんな体験をした人が
上だとか、霊格が高いと言っている人が
いたら、それはまさにエゴが人格化して
いるだけの演技者でしょう。
またはお金儲けのためのビジネスとして
それを利用しているのだと思います。
そんな人が精神世界には五万といますから
ねぇ~。でもそれも神ならざる体験ですから、
OKですかね。
分離を体験したいなら、どうぞそんな分離
を進める五万とあるところがいいでしょう。
でもここは目を覚ましたい人、分離に飽きた
人が来て思い出す場であると自分は感じます。
長文しつれいしやした~。
こんにちは
本当にお久し振りですね。
私も元気です。
もうすぐ クリスマスですね。
プーさんにも たくさんの
http://classic-midi.com/midi_player/mbox/mbox_Xmas_JingleBells.htm
で、雲さんのサヨナラは、
…黒斎さんの夢ですよね?
ほんとにお別れ、ではなくて。
「白昼夢」さん江。
今日「空」を見て思わずにっこりしてしまい、自分のブログに勝手に紹介してしまいました。
リンクを張るときには事前に同意が必要なのでしょう。以後気をつけます。
アドレスは削除しました。ごめんなさい。
結論からいうとエゴって「脳」なんだ!ってこと。
模式図としては脳から神経が全身に回っている全身の透過図が出てきました。
実は脳と体には主従関係が出来ていて、脳が各部位に指令を出して体を動かしているんだけれど、体を動かしているのは私だ!って勘違いしているのが脳くん。
指令を出すのが仕事ではあるけれど体を従えているわけでは無くて共存しているのだけれど。
脳は車に乗っている時は車体を、スプーンや包丁など何か持ったりした時はそれを体の一部と認識するそうですが、体外の人間も自分の一部として認識しだすこともあるなあって。信頼出来る部下を右腕って呼びますでしょ?
この際に脳と体を主従関係とするクセが付いている脳くんはエゴ丸出しで他人を従えようとしだすのかなあって。
国家単位での一番上に立つ代表の人を首相とか首脳とかよびますでしょ?脳が一番上だって言う事がクセとして刷り込まれてしまっているってことなのかなあって。本当は全てが共存しているのに・・・
で、瞑想の達人の話をθオシレーション(2009/7/6記事)で聞いたこともあり、何故に瞑想が大事なのかって話が持ち上がるのか?ということに到り、脳の思考は常に体との主従関係を持っている為に、この脳の思考を停止することで脳が持っている主従関係という思い込みを止められるのじゃないか?と。
阿部さんの「瞑想すると頭が消える」って話やエゴ(脳)を無くすことは出来ない(当然ですが脳を捨てるわけにはいきませんよね)ということからエゴ(エゴと感じているもの)は「脳」そのものなんじゃないのか?という考えに到ったわけでして。
だから瞑想が有効なのですねえ。多分(^^;)
いったい、このひらめきは何の為になんでしょうねぇ・・・
・・・・・
あー書いていて、思ったこと。
と、いうことはミケランジェロはあの絵で一体何を表したんだろうって疑問が(; ̄Д ̄)グフゥ
「空」とはほんとの意味でのカラッポではなく、
「空」=「すべて」
「空」=「全体」
と解釈したほうがよいと思います。
すっきりした!!
探していた謎が解けたみたいでビックリしてしまいました(笑)
ありがとう。