いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
真我という錯覚
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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さて、まずは精神世界や宗教で語られている内容の「前提」をご紹介させていただきました。
拙い説明ではありましたが、ご理解いただけましたでしょうか?
「存在本来の完全性を発揮する為、その完全性を妨げているものを手放しましょう」というのが、精神世界・宗教の「前提」です。
ここで気をつけていただきたのが、この前提を理解出来ていない「にわか精神世界」・「エセ宗教」の類です。
真我の本当の意味を理解・体験できていないため、その語りは、自我(エゴ)観点からの平面的なモノとなってしまいます。
立体的な解釈が出来ていないため、その論法は「アナタには、また、アナタの人生には○○が欠けています。」という観点からの脅しに陥りがちです。
「アナタが幸せになれないのは信心が足りないからです。その欠落を補うために、仏様を、イエス様を、エル・カンターレを拝みなさい。」とか、「アナタが不幸なのは感謝が足りないからです。その穴を埋めるために、ありがとうと唱えなさい。」とか、「アナタに不運がつきまとうのは、先祖供養に問題があるからです。その欠陥を修復するために、お線香は3本立てるようになさい。」とか…。
なにかと、不安や苦しみを補う為の何かを「付け加えよう」とします。
こういったおかしな論法に巻き込まれてしまうのは、巻き込まれた人が悪いのではありません。巻き込んだ人が悪いのでもありません。両者の抱える固定化された思考パターン、つまり自我(エゴ)が「優越感を欲したがる」とか「いつも不足を感じてる」という特性をもっているからなんです。
自我(エゴ)自体が「私には(私の人生には)何かが欠けている」という「不安」が大好きな為、「欠陥・欠落を埋めてあげますよ」という言葉や状況には、ホイホイと飛びついてしまいやすいんです。
特に、人を苦しみから解放することではなく、ビジネスが目的となってしまっている宗教は、真我の発見を手伝うことではなく、このような自我(エゴ)が喜ぶアレコレ(物質や環境だけに限らず、知識や思想、習慣なども含みます)を与えるという手法を用います。
簡単にお金を落としていってくれるのは、真我(智慧)ではなく、自我(無知)の方だからです。
また、お金とは別に、“教祖”や“霊能者”、“チャネラー”などといった「特別な能力・才能を持つ、特別な存在」という優越的な肩書き、名声を抱えたがるのも、自我(エゴ)の力です。(※注:霊能やチャネリング能力そのものを否定しているわけではありません。)
本当に真我を発見できた人は、「自分は何者でもなかった」ことに気付いた人です。
たとえそのような能力や才能があろうとも、それを押しつけたり、ひけらかすようなことはありません。
ですから、「私の霊視によりますと…」とか「私には特殊なリーディング能力があります。今日は時間があるので、特別に観てしんぜよう。」などと“人とは違う特殊能力”をアピールし、なかば強制的に話を進めていく方の話は、「あ、この人のエゴが、満足しようと頑張っているのね」ぐらいにみて聞き流していた方が賢明です。
さて、偽宗教批判はこれぐらいにして、ここから先は、この「自我・真我」のお話をもう少し踏み込んで行きたいと思います。
まずは、前回使用した模式図を再確認してみましょう。

話をわかりやすくお伝えするためにこの図を書き起こしましたが、実は、この図には明らかな間違い(精神世界・宗教の混乱を招く原因のひとつ)が含まれています。
この図を見てから、そこに「ありのままの状態(真我)を発見しましょう。」とか「完全性を妨げるモノ(自我)を手放していくことなんです。」という説明を受けると、どうしても『自我(エゴ)を消すことによって、真我が現れる。』つまり『真我がある』と考えてしまいます。
実は、この『真我がある』という解釈に、混乱の原因(自我の罠・自我のサバイバル作戦)があるんです。
では、話を進めていきましょう。
「自我」は前回ご説明したとおり、「固定化された思考」が作り上げた偽りの個性です。(この「固定化された思考」の事を、僕は以前「思い癖」という言葉で表現していました。)
それは、自分の意思から離れ、無意識のうちに一人歩きし出す思考パターンのことです。
仮に、何分か思考を止めるということにチャレンジしてみてください。
アナタの「思考を止めよう」という意思に逆らい、決して止まろうとしない“思考”があることに気付けることと思います。
言葉として発する事はなくても、頭の中では四六時中なにがしかの独り言が繰り返されています。
アナタ自身が自覚していない、無意識に繰り返される思考ゆえ、アナタは思考が止まらずにいることすら忘れてしまっているのです。
それこそが“自分”という仮面をつけて、本来のアナタの意思から離れ、一人歩きしている自我(エゴ)です。
アナタはいつの間にか、アナタの意思を離れ自動的に繰り返される、この思考パターンのことを、“自分”だと思い込んでしまったのです。
アナタがまだ目覚めを経験してないのであれば、残念ながら、アナタが自分の考えや感情だと思っているそれは、アナタのモノではありません。
状況に応じて展開される自動プログラム(思考パターン)。それが算出した反応が、考えや感情として表れているだけなんです。
ですから、その考えや感情は、本当のアナタの考え(智慧)ではなく、自我の考え(マインド)なんです。
※自我(エゴ)がつくり出す思考。そのことを精神世界では「マインド」と呼んだりします。
とはいえ、この“思考”は、止めようと思っても止めることはできません。どんなに頑張ってもできません。
なぜなら、「思考を止めよう」という思いそのものが、やはり“思考”だからです。
あー…
長くなりそうなので、続きはまた。
ノシ
←只今めずらしく本気モードに入っております。応援いただけると嬉しいです。
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さて、まずは精神世界や宗教で語られている内容の「前提」をご紹介させていただきました。
拙い説明ではありましたが、ご理解いただけましたでしょうか?
「存在本来の完全性を発揮する為、その完全性を妨げているものを手放しましょう」というのが、精神世界・宗教の「前提」です。
ここで気をつけていただきたのが、この前提を理解出来ていない「にわか精神世界」・「エセ宗教」の類です。
真我の本当の意味を理解・体験できていないため、その語りは、自我(エゴ)観点からの平面的なモノとなってしまいます。
立体的な解釈が出来ていないため、その論法は「アナタには、また、アナタの人生には○○が欠けています。」という観点からの脅しに陥りがちです。
「アナタが幸せになれないのは信心が足りないからです。その欠落を補うために、仏様を、イエス様を、エル・カンターレを拝みなさい。」とか、「アナタが不幸なのは感謝が足りないからです。その穴を埋めるために、ありがとうと唱えなさい。」とか、「アナタに不運がつきまとうのは、先祖供養に問題があるからです。その欠陥を修復するために、お線香は3本立てるようになさい。」とか…。
なにかと、不安や苦しみを補う為の何かを「付け加えよう」とします。
こういったおかしな論法に巻き込まれてしまうのは、巻き込まれた人が悪いのではありません。巻き込んだ人が悪いのでもありません。両者の抱える固定化された思考パターン、つまり自我(エゴ)が「優越感を欲したがる」とか「いつも不足を感じてる」という特性をもっているからなんです。
自我(エゴ)自体が「私には(私の人生には)何かが欠けている」という「不安」が大好きな為、「欠陥・欠落を埋めてあげますよ」という言葉や状況には、ホイホイと飛びついてしまいやすいんです。
特に、人を苦しみから解放することではなく、ビジネスが目的となってしまっている宗教は、真我の発見を手伝うことではなく、このような自我(エゴ)が喜ぶアレコレ(物質や環境だけに限らず、知識や思想、習慣なども含みます)を与えるという手法を用います。
簡単にお金を落としていってくれるのは、真我(智慧)ではなく、自我(無知)の方だからです。
また、お金とは別に、“教祖”や“霊能者”、“チャネラー”などといった「特別な能力・才能を持つ、特別な存在」という優越的な肩書き、名声を抱えたがるのも、自我(エゴ)の力です。(※注:霊能やチャネリング能力そのものを否定しているわけではありません。)
本当に真我を発見できた人は、「自分は何者でもなかった」ことに気付いた人です。
たとえそのような能力や才能があろうとも、それを押しつけたり、ひけらかすようなことはありません。
ですから、「私の霊視によりますと…」とか「私には特殊なリーディング能力があります。今日は時間があるので、特別に観てしんぜよう。」などと“人とは違う特殊能力”をアピールし、なかば強制的に話を進めていく方の話は、「あ、この人のエゴが、満足しようと頑張っているのね」ぐらいにみて聞き流していた方が賢明です。
さて、偽宗教批判はこれぐらいにして、ここから先は、この「自我・真我」のお話をもう少し踏み込んで行きたいと思います。
まずは、前回使用した模式図を再確認してみましょう。

話をわかりやすくお伝えするためにこの図を書き起こしましたが、実は、この図には明らかな間違い(精神世界・宗教の混乱を招く原因のひとつ)が含まれています。
この図を見てから、そこに「ありのままの状態(真我)を発見しましょう。」とか「完全性を妨げるモノ(自我)を手放していくことなんです。」という説明を受けると、どうしても『自我(エゴ)を消すことによって、真我が現れる。』つまり『真我がある』と考えてしまいます。
実は、この『真我がある』という解釈に、混乱の原因(自我の罠・自我のサバイバル作戦)があるんです。
では、話を進めていきましょう。
「自我」は前回ご説明したとおり、「固定化された思考」が作り上げた偽りの個性です。(この「固定化された思考」の事を、僕は以前「思い癖」という言葉で表現していました。)
それは、自分の意思から離れ、無意識のうちに一人歩きし出す思考パターンのことです。
仮に、何分か思考を止めるということにチャレンジしてみてください。
アナタの「思考を止めよう」という意思に逆らい、決して止まろうとしない“思考”があることに気付けることと思います。
言葉として発する事はなくても、頭の中では四六時中なにがしかの独り言が繰り返されています。
アナタ自身が自覚していない、無意識に繰り返される思考ゆえ、アナタは思考が止まらずにいることすら忘れてしまっているのです。
それこそが“自分”という仮面をつけて、本来のアナタの意思から離れ、一人歩きしている自我(エゴ)です。
アナタはいつの間にか、アナタの意思を離れ自動的に繰り返される、この思考パターンのことを、“自分”だと思い込んでしまったのです。
アナタがまだ目覚めを経験してないのであれば、残念ながら、アナタが自分の考えや感情だと思っているそれは、アナタのモノではありません。
状況に応じて展開される自動プログラム(思考パターン)。それが算出した反応が、考えや感情として表れているだけなんです。
ですから、その考えや感情は、本当のアナタの考え(智慧)ではなく、自我の考え(マインド)なんです。
※自我(エゴ)がつくり出す思考。そのことを精神世界では「マインド」と呼んだりします。
とはいえ、この“思考”は、止めようと思っても止めることはできません。どんなに頑張ってもできません。
なぜなら、「思考を止めよう」という思いそのものが、やはり“思考”だからです。
あー…
長くなりそうなので、続きはまた。
ノシ

コメント ( 24 ) | Trackback ( )
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本当に本気モードなんだね…
[物蔭]д・)ノ チラッ
気になるわ~
ランキング1位のような「少しウソの方」がいると
精神世界そのものが、「ヤッパリ・・」と否定されそうだと思いました
傲慢になった時、人はその成長を止めるのではないでしょうか
「自分は何者でもなかったコトに気付く」この言葉、今年の私のヒットです
例え、霊能者でなくても何に対しても同じだと思います。
人は知れば知るほど何も知らなかったコトに気付く
少し知ると全てを知ったつもりになる
不足や不安はエゴがあるから感じるのじゃないかな。。。
そして、競争が悪と感じるこの頃ですが
競争がある限り優越感がある
優越感がある限り競争がある
何も社会主義国家を目指せと言ってるわけではないです
。。。。。
。。。。。
。。。。。
クリスマスコフレ買いに行って来ます
自分が真我を体験していない限り、
自我が作り出した真我という新たな観念をもてあそぶことになりますよね…
「自我の考える真我」というイメージに自我を重ねて満足してしまいかねない
読み終えて、ふと外を見たら・・雪・・
小雪が降ってきましたよ(⌒-⌒)ニコニコ
*アナタがまだ、目覚めを経験していないのであれば・・
アナタが自分の考えや、感情だと思っているのは、
アナタのものではありません。 バシッ! (゜口゜;)うっ・・
*「思考を止めよう」という思いそのものが、やはり”思考”だから です。
*長くなりそうなので、続きはまた。
本当に、長くなりますよね・・
私も、時々休みながらしますね・・
「おお~雪ってきれいね~」って思う時間を
”思考”さんにお願いしながら・・(*^-^)
黒斎さんがんばってね^^
一応私もわかったつもりになっていますがこういう風に解説していただけると理解が深まります。
あとは修行あるのみ~(まだまだ本当の体験まで道のり遠し)
面白ーーい!
黒斎さん、ありがとう!
本気度がひしひし伝わってくるようです。
特に「思考を止めよう」という思いそのものが、やはり“思考”だからです。
これは感覚としても理屈としてもそのとおり!
って感じです。
ちょっと違うかも?ですし、駄文ですが少し似たような事を僕も書いてました。
よろしければ冷やかし半分、暇つぶし程度に覗いてみて下さい。
これもきっとエゴ・・・
イエス様もお釈迦様も「我を拝め」なんて言ってないはずです。でも何も考えず、ただ拝めば救われるといった信仰に陥っている伝統宗教信者の多いこと。
また、教祖に帰依して思考停止している新興宗教信者も多いこと。
そういった信者にこのブログを読ませるのは難しいかも知れませんが、いつか「あれっ?」て思ったときに運良く出会えれば、きっと目が覚めるはずです。
ですから、迷っている人達の未来のためにも本気でガンガンいっちゃって下さい。
目覚めを経験している人って、例えば日本にはどのくらいいるのでしょうか?
本当の自分を知るというのは、真我を発見すること!?・・・「自分は何者でもなかった」ことに気付くということ・・・
自分は何者でもないと気付くとどうなるのか気になるのです。
どうなるというレベルの話ではないのかな~。
何者でもないということは、何者でもあるということ・・・!?
私はすべて、すべては私!
私は、何か大きな勘違いをしているのかな~。
周りの人も何者でもない…
境目ないのね。
前の話の「生と死の境もない」的な話と何か
つながるのかな?
2008/10/7 生死。
おもしろいですっ!
私は今、自我と格闘しています
只、疑問ですが、自我が無くなると感情はどのように変化するのでしょうか?
揺れ動く感情、切なさ、悲しみ、苦しみ、喜怒哀楽…
心動かされる時。
感情はあっても「私」という自我で(思考で)判断するのではなく、ただ感じたままに感じる??という事なのでしょうか?
ちょっと分らなくなってきたけど…
因みに、「ニュー・アース」読んでいます!
これは良いですね
頭で理解する事、それと同時に心で感じることのギャップがあります。気持ちはコントロールする事が出来るのだろうか…
最近はエゴがかなり出てきてて、ここも二日ぶりに見ました(忙しいって心を亡くすって書きますねえ)
たまーにあるんですが、何も考えずにボーっとしていると、「あ、息してないや。死んじゃう死んじゃう」ってフッと思って息したりすること。こんな事ないですか?
意識してその状態に入ろうとしてもゆっくり息を吐いて止まるまでいけるんですけど吸う時にいつもより大きな息を吸って戻っちゃう。
無意識のあの「状態」の先に何かあるのかなあ?って思ったり。「あ、やばいやばい」って意識が起きなかったら、どこにいくんだろうって。もしそのままどこかに行ったり(死んだり)しても何も感じないで逝けるような気がしますが、今の自分が止めるようなので、まだ今やる事があるんだろーなーって思います。
こんなことありますか??( ̄~ ̄;)??
↑
コレコレ! これですよー! 私も長年悩んでたことは~! このパラドックスさえ解決すれば 人類みな目覚めるっていうことになりますね!
スゴいスゴい!
毎日の更新は大変だと思いますが、
楽しみにしております。
まずはお茶で一休みしてください
思考は止めようとせずに流れ出るままにして、
それに捉われない。
「今ここ」に在る自分に集中する、呼吸に集中する、深く自分に入っていくと言う感じかなぁ。
本気モード、ひしひしと伝わって来ます!
こちらもピシっと背筋を伸ばして受け取ります!
本気モードは凄くリズムがよくて読みやすいです!
続きも期待してます。
投稿順に全部読みました
ANOYOレンタリースはよく理解できましたし、
仏陀シリーズもわかりやすかったです。
イケメン黒斎さんのユーモアたっぷりの文面とても
楽しく読み進められました。
今回の自我のお話も楽しみに続きを読みたいと
おもってます。
しばらくはまりそうです。