いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
プレゼント
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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ここ数ヶ月、僕はトークライブで必ずあるお話をさせていただいています。
それは、ある「この世の仕組み」について。
その内容は、この世の仕組み・法則下において、僕たちに出来ることと、出来ないことのお話です。
僕たちに出来ること。
それは、誰かの願いを叶えてあげること。
僕たちに出来ないこと。
それは、自分の力で自分の願いを叶えることです。
人は、その法則を忘れ、自分の力で、自分の願いを叶えることに必死になってしまいがちです。
ですが、自分のこれまでの人生を振り返ってみれば、あらゆる願いが、自分以外の力なしには、決して叶えることができていなかったことに気づけます。
お金は、自分の力で作りだしたものではありません。
誰かから、どこかから、「頂いたもの」です。
アナタがどんなに必死になろうとも、渡してくれる人がいなければ、決して手にすることが出来ません。
信頼は、自分の力で作りだしたものではありません。
誰かから、どこかから、「頂いたもの」です。
アナタがどんなに努力しようとも、信頼してくれる人がいなければ、決して手にすることが出来ません。
恋人は、自分の力で作りだしたものではありません。
アナタを慕ってくれる人がいなければ、決して結ばれることは出来ません。
これまで夢見てきた願望のアレコレは、すべて、自分以外の所から届いた、頂き物・プレゼントです。
こういうお話をすると、「そんなことないわ。自分の力で叶えられることだってあるじゃない」と仰るかたもおられます。
例えば…
「私は、おいしい料理が食べたいという願いを、『自分で調理する』ということで叶えられるもの」とか。
もちろんその視点から見たら、仰ることは正しいのです。が、しかし、それにおいても見落としてしまっている点があります。
そのとき、その方に出来たのは「調理」であって、それ以上でも以下でもありません。
その調理が可能となる前提としての、食材も、環境も、自分以外の所から頂いたものや、借りているものばかりです。
「いえいえ。私は自給自足の生活を送っています。その食材も、自分の手で作っているのですから」と言ってみても、その食材が出来る課程で必要となった土壌も、大気も、日の光も、水分も、自分の力で作ったものではありません。
また、トークライブの時に、こんなご質問をいただいたこともあります。
「私は、進学塾の講師をしています。日々生徒たちに『自分の力で合格を勝ち取れ』と励ます仕事をしています。『受験』ということにおいては、やはり『自分の力』で夢を叶えるしかないのではないでしょうか。だって、他の誰かが自分の代わりに試験を受けるわけではないのですから…」
でも、この「勉強」ということにおいても、僕たちは自分の力だけで学ぶことはできません。
学ぶことが出来る環境も、講師との出会いも、すべて頂き物です。
いくら「独学で」と頑張っていても、そこには他の誰かが用意してくれた教材があって、成り立っています。
それらのプレゼントを、「いや、自分の力で頑張りますから」と、受け取り拒否を続けると、どんな願望も叶えられることはありません。
僕たちは、誰一人例外なく、沢山のお陰様によって生かされています。
でも、ついつい忘れちゃうんですよね。日々当たり前に目の前にあることって。
で、失って初めて、そのありがたさを思い出す。
サンタクロースが届けてくれるものばかりが、プレゼントじゃないんですよね。
僕たちは、毎瞬毎瞬、沢山のプレゼントを頂いています。
先ほど、ウィキペディアで「クリスマス」を調べてみたら、こんなことが書いてありました。
*****
キリスト教圏では、クリスマスには主に家族と過ごし、クリスマスツリー(常緑樹で、一般にモミの木)の下にプレゼントを置く。プレゼントを贈る気持ちである「愛」の日でもある。
*****
いいですよね。「愛の日」。
別に、お金や物じゃなくたっていい。
僕たちが誰かにプレゼントできるものは沢山あります。
優しく見つめてあげること。
微笑んであげること。
認めてあげること。
賞賛してあげること。
いいところを見つけてあげること。
許してあげること。
僕たちに出来ることは、自分で自分の夢を叶えることではありません。誰かの願いを叶えてあげることです。
そして、誰かの願いを叶えてあげられた時。
その時初めて、「自分の願いが叶う」という可能性の扉が開きます。
今日はクリスマスイブ。
ついつい忘れてしまいがちなことを、一緒に思い出す日にしてみませんか?
メリークリスマス!
←「あなたに出来ること」のひとつが、ここにありますよ。
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ここ数ヶ月、僕はトークライブで必ずあるお話をさせていただいています。
それは、ある「この世の仕組み」について。
その内容は、この世の仕組み・法則下において、僕たちに出来ることと、出来ないことのお話です。
僕たちに出来ること。
それは、誰かの願いを叶えてあげること。
僕たちに出来ないこと。
それは、自分の力で自分の願いを叶えることです。
人は、その法則を忘れ、自分の力で、自分の願いを叶えることに必死になってしまいがちです。
ですが、自分のこれまでの人生を振り返ってみれば、あらゆる願いが、自分以外の力なしには、決して叶えることができていなかったことに気づけます。
お金は、自分の力で作りだしたものではありません。
誰かから、どこかから、「頂いたもの」です。
アナタがどんなに必死になろうとも、渡してくれる人がいなければ、決して手にすることが出来ません。
信頼は、自分の力で作りだしたものではありません。
誰かから、どこかから、「頂いたもの」です。
アナタがどんなに努力しようとも、信頼してくれる人がいなければ、決して手にすることが出来ません。
恋人は、自分の力で作りだしたものではありません。
アナタを慕ってくれる人がいなければ、決して結ばれることは出来ません。
これまで夢見てきた願望のアレコレは、すべて、自分以外の所から届いた、頂き物・プレゼントです。
こういうお話をすると、「そんなことないわ。自分の力で叶えられることだってあるじゃない」と仰るかたもおられます。
例えば…
「私は、おいしい料理が食べたいという願いを、『自分で調理する』ということで叶えられるもの」とか。
もちろんその視点から見たら、仰ることは正しいのです。が、しかし、それにおいても見落としてしまっている点があります。
そのとき、その方に出来たのは「調理」であって、それ以上でも以下でもありません。
その調理が可能となる前提としての、食材も、環境も、自分以外の所から頂いたものや、借りているものばかりです。
「いえいえ。私は自給自足の生活を送っています。その食材も、自分の手で作っているのですから」と言ってみても、その食材が出来る課程で必要となった土壌も、大気も、日の光も、水分も、自分の力で作ったものではありません。
また、トークライブの時に、こんなご質問をいただいたこともあります。
「私は、進学塾の講師をしています。日々生徒たちに『自分の力で合格を勝ち取れ』と励ます仕事をしています。『受験』ということにおいては、やはり『自分の力』で夢を叶えるしかないのではないでしょうか。だって、他の誰かが自分の代わりに試験を受けるわけではないのですから…」
でも、この「勉強」ということにおいても、僕たちは自分の力だけで学ぶことはできません。
学ぶことが出来る環境も、講師との出会いも、すべて頂き物です。
いくら「独学で」と頑張っていても、そこには他の誰かが用意してくれた教材があって、成り立っています。
それらのプレゼントを、「いや、自分の力で頑張りますから」と、受け取り拒否を続けると、どんな願望も叶えられることはありません。
僕たちは、誰一人例外なく、沢山のお陰様によって生かされています。
でも、ついつい忘れちゃうんですよね。日々当たり前に目の前にあることって。
で、失って初めて、そのありがたさを思い出す。
サンタクロースが届けてくれるものばかりが、プレゼントじゃないんですよね。
僕たちは、毎瞬毎瞬、沢山のプレゼントを頂いています。
先ほど、ウィキペディアで「クリスマス」を調べてみたら、こんなことが書いてありました。
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キリスト教圏では、クリスマスには主に家族と過ごし、クリスマスツリー(常緑樹で、一般にモミの木)の下にプレゼントを置く。プレゼントを贈る気持ちである「愛」の日でもある。
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いいですよね。「愛の日」。
別に、お金や物じゃなくたっていい。
僕たちが誰かにプレゼントできるものは沢山あります。
優しく見つめてあげること。
微笑んであげること。
認めてあげること。
賞賛してあげること。
いいところを見つけてあげること。
許してあげること。
僕たちに出来ることは、自分で自分の夢を叶えることではありません。誰かの願いを叶えてあげることです。
そして、誰かの願いを叶えてあげられた時。
その時初めて、「自分の願いが叶う」という可能性の扉が開きます。
今日はクリスマスイブ。
ついつい忘れてしまいがちなことを、一緒に思い出す日にしてみませんか?
メリークリスマス!
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