富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「栄光から栄光へと造り変えられていく。」コリントの信徒への手紙二、3章7-18節

2022-02-13 16:04:41 | 礼拝説教

        ↑ 直訳 「わたしたちは、造り変えられていきます。主の似姿に、栄光から栄光へと、それは主によるものです、聖霊であられる」(コリントⅡ3:18)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

 

週    報

降誕節第8主日 2022年2月13日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

前 奏               

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

交読詩編   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、3章7-18節(新p.328)

説  教      「神の栄光を表す」

祈 祷                                            

讃美歌(21) 518(主にありてぞ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                               次週礼拝 2月20日(日)  午後5時~5時50分

                                               聖書  フィリピの信徒への手紙2章1~5節

                                              説教題  「キリストに倣って」

                                              讃美歌(21) 13 518 27 交読詩編 147   

本日の聖書

 3:7ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 9人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。 12このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、 13モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 15このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 16しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 17ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

本日の説教

モ―セがシナイ山で十(とお)の戒めからなる契約の言葉を記した二枚の石の板を手に持って山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知りませんでした。兄アロンとイスラエルの人々がモ―セを見ると、彼の顔の肌は光を放ていました。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員が彼のもとに戻ってきたので、モーセは彼らに語りました。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じました。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いをかけました。

モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出てくるまで覆いをはずしていました。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語りました。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モ―セの顔の肌は光を放っていました。モーセは、再び主と語るまで顔に覆いを掛けました(出エジプト記34章29~35)。

 なぜ、モーセは普段は顔に覆いを掛けたのでしょう。モーセの顔が神の栄光の輝きで輝いていたので、人々はモーセに近づくのを恐れていたからです。モーセは明らかにイスラエルのために覆いをしていました。それはモーセの背後に輝きに満ちている神がおられることを示すものでもありました。

神がモーセに契約として十戒を与えたのは、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(申命記5:10)と神が語ったように、民を幸いにするための戒めと掟でした。

だが、信仰の厚かったダビデ王もバト・シェバを妻としたことで、預言者ナタンによってその罪を指摘されたとき、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩篇51:12)と罪を悔い祈ったように、神の戒めを守ることはむずかしいことでした。ソロモン王も、晩年に外国生まれの妻たちのために他の神々の礼拝所を建てることを認め、共に参加したことにより、主なる神に背信の罪を犯しました。アッシリヤの侵略による北イスラエル王国の滅亡も、バビロニヤの侵略による南ユダ王国の滅亡も、王と民による神への不信の罪によるものでした。

 しかし神はイスラエルに対する憐れみのゆえにイスラエルとの契約を破棄することなく、その罪を赦されました。旧約の預言者エレミヤは、「主が、新しい契約を結ぶ日が来る」、主は律法を「彼らの心に記す」(エレミヤ書31:33)と預言しました。エゼキエルは、主が「彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける」。主は「彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」彼らが主の「掟に従って歩み、法を守りおこなうためである」(エゼキエル書11:19-20)と預言しています。

 そもそも、神が契約を結ぶためにイスラエルを選ばれたのは、「他のどの民よりも数が多かったからでは」ありません。イスラエルは「他のどの民よりも貧弱であった。ただ主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守る」ためである、と主は語っています(申命記7:7-8)。

 パウロは旧約聖書が書かれた時代の後に発展したユダヤ教の伝統を用いて解釈します。律法は神から出ているのでそれ自体に輝きがあったが(ローマ7:12,13参照)、キリストによってもたらされたさらに優れた輝きによって、死と罪しかもたらさなくなりました。ユダヤ人パウロは律法が命を与えることを信じていたが(詩篇119篇参照)、キリスト者となったパウロはその結果が死であことを知っていました(ローマ8:2、ガラテヤ3:10-14,21、23)。そして律法はわたしたちがどこで過ちを犯したかを明らかにするが、何の希望も与えないので、死と共に人を罪に定める務めとなりました。

 パウロのようなキリストに仕える人を通してもたらされる霊の務めは、古い契約の最大の奉仕者であるモーセよりも輝き、古い契約のあらゆる奉仕者よりも優れた輝きを与えることができます。それは罪に定める務めから解き放つばかりでなく、義をも与えるのです。それは救ってくださる神との新しい関係(信仰による義認)に入るように、わたしたちを導きます。

 ユダヤ人としてのパウロは、律法以外に神に近づく道がありませんでした。そして律法によって命がもたらされると信じていました。キリスト者となったパウロは、律法をすべて新しい視点から理解したのです。

 パウロは,12-18節で、モーセの顔に掛けられた覆いに注意を向けます。出エジプト記34章29-35節によれば、モーセが臨在の幕屋で神と語り合っている時、あるいはそこから出て来てイスラエルの民に神が何を語ってくださったかを伝える時以外は、モ―セの顔に絶えず覆いがかけられていました。モーセは明らかにイスラエルの民のために覆いをしていました。モーセの顔が神の栄光(輝き)で輝いていたので、人々はモーセに近づくのを恐れていたからです。

だが、パウロはモーセの蔽いを違った方法で説明しています。モーセは神と語り合って幕屋から出てきた後に、その栄光が次第にその顔から消え去っていくのを人々に見られないために、モーセは顔に覆いをしていたと説明します。

パウロによれば、モーセの顔の上で消え去る輝きは、古い契約(モ―セの律法)が過ぎ去ることを意味しています。またユダヤの心に掛けられた覆いは、彼らが旧約聖書を正しく読むことに失敗したこと、すなわち旧約聖書の中にキリストを見出すことに失敗したこと、さらに重要なことは、キリストが宣べ伝えられた時にそれを受け入れなかった、パウロ自身の時代のユダヤ人の失敗を意味しています。パウロは回心の際に、自分の心から覆いが取り除かれるのを体験しました。だがその覆いがすべてのユダヤ人キリスト者から、とくにコリントでパウロに敵対している人々から十分に取り除かれていないことを恐れていました。彼らがあまりにも教えの中心に律法を置いていたからです。

 すべてのキリスト者は、死の恐怖と人を罪に定める恐怖から解き放たれて、永続する輝きを共にすることができるという希望を抱いています(7-11節)。希望によって大胆さが与えられ(12節)、モーセが臨在の幕屋で大胆にも覆いをしないで神と会見したように、「わたしたちは皆」(18節)、覆いをしないで主の栄光を見ます。しかも、モーセは幕屋から出て来た時に顔に覆いを掛けていたが、わたしたちは自分の命のうちにある神の栄光に覆いを掛けるべきではありません。主の栄光がわたしたちのうちに現れるようにすることによって、大胆にキリストを告白すべきです。

 16節の「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」は、出エジプト記34:34に基ずいています。「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた」とあります。そこでは「主」とは神を意味していました。パウロにとって、16節の「主」はキリストのことであり、17節の「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」の「主」は、キリストのことです。「主の霊」とは、旧約聖書でも新約聖書でも、聖霊を指す言葉としてしばしば用いられるので、「神の霊」を意味するので、神を指していると受け取る方がふさわしいのです。「主は霊である」とは、主と霊は一つであって、同じ存在であるということです。「自由がある」とは、聖霊の内住の結果として起こる自由です。神の子の栄光の自由です(ローマ6:14、7:4)。キリストがわたしたちに与える自由です(ガラテヤ5:1)。

自由であるキリスト者は古い契約から自由であり、律法を行うことによって義とされるのではなく、キリストによって義とされるのです。パウロはキリスト者の生活におけるキリストの働きと聖霊の働きを同一視しているが、両者が実際に同一である、と述べているのではありません。

 主に立ち返った人は、そこで、新しい希望、新しい自由、新しい大胆さを得ます。何にもまして、彼らは変えられるが、この変化は霊である主に由来します。

パウロの口から勝利に満ちた文章が続きます。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(19節)

わたしたちは皆、顔や心に掛かったどのような覆いも取り除かれて神の栄光を見ます。キリストが宣べ伝えられる時、聖霊の中にキリストを見い出す時、聖餐の中にキリストに出会う時、わたしたちはキリストのうちに神の栄光を見て、わたしたち自身も変えられて主の栄光を表す者とされます。年月が経てば経つほど、キリストや主の民と共に生きるわたしたちは、いっそうキリストの似姿に変えられていきます。ただ復活したキリストの力のみが、わたしたちのうちで真実で永続する変化を完成することができるのです。モーセと律法は、ユダや人に対してこのように行う力をもっていませんでした。わたしたちはキリストの似姿と栄光に遂に全くかえられるまで、キリストを通して栄光から栄光へと変えられていくのです。

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