富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ソロモン王の祈りと最後ー神殿とは?」 列王記上8章22-30節

2022-02-04 15:41:27 | キリスト教

                            

                                   神殿の設計図

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕節第7主日 2022年2月6日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序

                    

前 奏               司会 田中恵子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編  109:21-31(主よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳  列王記上8章22-30節(旧p.541)

説  教  「ソロモン王の祈りと最後―神殿とは?」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                            

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

 〇オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                 次週礼拝 2月213日(日)  午後5時~5時50分

                                                 聖書 フィリピの信徒への手紙2章1~5節

                                                説教題 「キリストに倣って」

                                                讃美歌(21) 484 518 27 交読詩編 84   

本日の聖書

8:22ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、23祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、24あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。25イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。26イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。28わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。29そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。30僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」

本日の説教

主なる神は父ダビデに約束されたとおり、息子ソロモンにエルサレム神殿建設を許されました(サムエル記下7章)。

ソロモンは神から与えれた知恵と政治力と財力をもって壮麗な神殿を七年もかけて建立し、祭司たちが契約の箱を至聖所に運び込むと、かつてシナイ山のふもとでモ―セが神の幕屋を建設して終わった時と同じように、そこには主の栄光の雲が満ちました(列王記上8:10)。紀元前957年に神殿は完成しました。
 ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、神殿を神に捧げる祈りを捧げました。この祈りは、列王記8章23節から53節まで続きます。聖書中最も長い祈りです。ほぼ同じ内容の祈りが、歴代誌下6章14節以下にも記されています。

 最初に、ソロモンは、1)この宇宙の「どこにもあなたに並ぶ神はありません」と主を賛美します。2)「主に心を尽くして御前を歩むしもべたちに対し、契約を守り、慈しみを注がれる神よ」と呼びかけます。そして、3)あなたはわたしの父に「約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました」と神殿建設の完成を感謝しました(23-24節)。

4) 私の父ダビデに約束されたこと(2サムエル7:12-15)、内容を基にして「あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない」と言われたことを守ってくださいと嘆願しました(25-26節)。

 5)「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(27節)。

どんなに立派な、壮麗な神殿を建てたとしても、そこを神様の住まいにすることなどできません。まして自分が建てたこの神殿はなおさらのことです、と語りました。神様はこの世界の全てをお造りになった方です。ソロモンはまばゆいばかりの神殿を奉献し、そこに主の臨在の現われを見ながらも、主なる神がこの人間の手で作った神殿に住むような方ではないことを知っていました。

 6)「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」と祈ります(28節)。神殿は神が民の祈りを聞いて下さる「祈りの家」です。

 7)「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です」と祈ります(29節)。「名をとどめる」というのは、具体的には、神様が、その住まいである天から、この神殿に常に目を注ぎ、耳を傾けている、ということです。

 8) 「どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」(30節)と祈ります。神の僕であるソロモンと神の民イスラエルの罪の赦しを求めます。聖なる神の前に立つことのできる者はいません。

 神社や仏閣をお参りする多くの日本人が考えている神に対する考えと大きな違いがあることに気づかされるのではないでしょうか。まさに神様とは、ソロモンの祈りにあるような神様ではないでしょうか。

 この後も、七つの祈りが「あなたは天にいまして耳を傾けてください」という言葉が繰り返されて、なされます。

第一は、隣人との関係がうまくいかなくなり、うらみ、憎しみに支配されてしまい、この神殿で神様に祈るなら、神様は人間の目には見えない真実を知っておられる方なので、正しい裁きを行ってきださい、(31-32節)という祈りです。

第二は、イスラエルが神への罪を犯した結果として敵に敗北するようなときに、反省した彼らを助けて欲しいという願いです (33-34節)。

第三は、罪へのさばきとして雨が降らなくなった場合、立ち返った彼らの「罪を赦し……歩むべき正しい道を教え」てくださるようにとの願いです (35-36節)。

第四は、「疫病がはやったり……ばったが発生したり……敵がこの地で城門を封鎖したり、どんな災いや難病が生じたとき」という場合の願いです (37-40節)。この祈りは、罪を悔いて神様に立ち返り、憐れみを乞う祈りです。

第五は、「あなたの民に属さない異国人が遠い国から来て、この神殿に来て祈るなら、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください」という祈りです (41-43節)。

第六は「あなたの民が敵に向かって戦いに出て行くとき、

あなたの遣わされる道にあって、あなたのお選びになった都、わたしが建てた神殿の方を向いて主 に祈るなら」(44-45節)、彼らを助けてください、という祈りです。

最後の第七の祈り(46-50節)は、最も長い祈りになっています。「もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、ー罪を犯さない者は一人もいませんーあなたが怒って彼らを敵の手に渡し、敵地に捕虜として引いて行かれるときに、彼らが捕虜になっている地で自らを省み、あなたに立ち帰って憐れみを乞い、『私たちは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました』と言い、神殿の方に向かってあなたに祈るなら」、

彼らのあなたに対する罪を赦してください、という嘆願です。ここには明確に、バビロン捕囚の出来事が意識されています。この列王記などが書かれた時代は、バビロン捕囚を経た、後の時代なのです。そのことがこのソロモンの神殿奉献の祈りに反映されています。

51-53節では、 彼ら(捕囚の民)は、あなたがエジプトから連れ出された大切な民だから、どうか、御目を開き、御耳を傾けて、彼らの願いを聞き届けてください、と祈って終わります。

ソロモンは祈り終えると、祭壇の前から立ち上がり、全会衆を大声で祝福しました。

 ソロモン王の治世は、40年です。若い時、ソロモンの夢枕に主が立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。ソロモンは「正しい裁き、善と悪を判断できる知恵」を求めました。その願いを主はお喜びになり、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」と言われ、「あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える、・・・もしあなたが、父ダビデが歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」と言われる夢をソロモンは見ました(列王上3:5-14)。

その賢明であったソロモン、「わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら」、「イスラエルの王座は続く」と言われ、富と栄光を与えられたソロモンが、堕落し、主に対する背信の罪を犯すようになります(列王記11章1-13節)。外国から多数の妻を迎えたことから、妻のために異教の神殿を建設し、人々の批判を招きました。徴税のために苛酷な労役まで課すようになりました。

かつてソロモンに夢で現れた主が、再びソロモンに現われ、「わたしのおきてを捨ててほかの神々を拝むなら、イスラエルの民を、彼らに与えた地から追い払う。また、わたしにささげられた神殿を投げ捨てる。イスラエルの民は、エジプトから連れ出していただいた神を捨て、ほかの神々を拝むようになった」と神が災いを下すことをソロモンに告げたのです(列王記下9:1-9)

主はその後二度も彼に現われ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守りませんでした(11章9-10)。ソロモンの死後、イスラエル王国は分裂し、衰退していくことになります。ソロモンに対する神の裁きを、他山の石としてわたしたちは自戒しなければなりません。

 【バビロニヤ軍によるエルサレム陥落と神殿滅亡は紀元前586年に起きました。前539年、バビロン捕囚から解放され、本国に帰還開始した民は、ゼルバベルの指導の下、前515年第二神殿を再建しました。前20年ヘロデ大王が神殿を修復により、壮麗な大神殿になりました。】

 主イエスがヘロデ大王が修復した神殿の境内に入って見たのは、売り買いをしている人々でした。主イエスはそのことへの怒りを露わにされました。主イエスは、イザヤ書56:7のことばをとりあげて、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家とよばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」と人々に教えて言われました(マルコ11:17)。犠牲は捧げられていましたが、本当の意味で神様のみ前にひれ伏す礼拝はなされず、むしろ人間の欲望に利用される、「強盗の巣」となってしまっていたのです。

その後、弟子の一人が、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と神殿を見て言ったとき、イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない」と、神殿の崩壊を預言されました。

【その預言は、ローマに対するユダヤ人の反乱勃発(第一次ユダヤ戦争)により、紀元70年にエルサレムの陥落と神殿崩壊が現実となりました。】

使徒パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリント一3:16、6:19)、と言っています。建物としての神殿ではなく、礼拝に集まり、祈る人々が、聖霊を宿す神殿であり、またその一人一人の体も聖霊を宿す神の神殿なのです。人々の集まる建物としての神殿や教会堂は必要ですが、それ以上に大切なのは、主に集められ、礼拝し、祈り、神と交わる人々の群れ、集団、共同体が、真の意味の神殿なのです。その一人一人は自分の体で神の栄光を現わす使命を与えられているのです。

スペインのバルセロナに、建築家ガウディの未完成の「サクラダ・ファミリア」の大聖堂が建築途上にあります。すでにミサ礼拝も行われいます。「聖家族」を意味するこの建物には、キリストの塔やマリアの塔があります。見事なすばらしい聖堂です。バルセロナの市民がこの建物を誇る以上に、ここに集まる司祭と信徒のみなさんが、聖霊を宿す神殿である自覚を持ち、神の栄光を現わす聖徒の群れであることを誇りにしてもらいたいものです。

コメント
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