富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「へりくだった心をもちなさい」 フィリピの信徒への手紙2章1~5節

2021-06-06 03:36:02 | キリスト教

     ↑ 「へりくだった仕える人になりなさい。」(フィリピ2:3)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第3主日 2021年6月6日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

       礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 497(この世のつとめ)

交読詩編  90(主よ、あなたは代々にわたしたちのやどるところ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)フィリピの信徒への手紙2章1~5節(新p.445)

説  教   「へりくだった心をもちなさい」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 543(キリストの前に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 韓国と名古屋から、星野兄と辺見兄が礼拝に参加します。どなたでも参加できます。希望の方はお申込みください。メールアドレスは munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp  ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

〇礼拝後、田中恵子姉によるグレイス・タイムがあります。

 

                   次週礼拝 6月13日(日)午後5時~5時50分    

                   聖 書 フィリピの信徒への手紙2章6~11節

                   説教題 「キリスト賛歌」

                   讃美歌(21) 543 513 27 交読詩編 67  

  本日の聖書 

 2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

  本日の説教

 パウロは1章27~30節で、フィリピの教会の人々が、外部の反対者たちに屈しないで、一つ心で福音の信仰のために戦い、苦難に耐えるようにとの勧告のことばを記しました。そして2章1節以下では、これをうけて、いわば内部の敵、すなわち「党派心や虚栄」を克服し、真の一致に至る道を「へりくだった心」として勧告します。

 2章1節で、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」という信仰者のうけている四つの力と根拠を確認し、次にそれにもとずいて、彼らが「同じ思い、同じ愛、心を合わせ、思いを一つ」になること、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と警告し、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と、一致への強い勧めをしています。 

 「利己心」は、自分や自分たちの利益のみを追及する姿勢、生き方を指します。このような自己追及、我欲が支配するところでは、当然ながら愛は育たないし、「同じ思いを」抱く共同体の一致は形成されません。

「虚栄心」は、すでに完全な者であることを誇り、すでに栄光を受けているという主張が虚栄心であり、その虚栄心は他の者を軽蔑することにつなって、教会の一致を損なうと警告します。栄光は、信仰者にとって、将来に約束されていることにすぎないのです。

 「へりくだる」ことは、教会の他のメンバーを自分と同等の存在として認めるということだけでなく、さらに他人を自分よりすぐれた存在として尊敬するということにたつながります。キリストのへりくだりに倣って自らを他に対して低くへりくだって、同じ思いをいだく(2節)ことに他なりません。「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」は、この点を強調したことばです 。

 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」の「自分のこと」とは、自分の利益ではなく、他人の利益をも追及せよという一般的勧告ではなく、自分の受けている賜物を過大評価したり、これに心を奪われることなく、他の人の受けている賜物をも注視せよ、というより限定された意味で用いられています。

 パウロはキリストに出会い、救われる前は、ファリサイ派に属する宗教家で、自分を誇っていました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3:5-6)と言っています。自分を誇っていたパウロは、キリストを信じる信仰によって義とされる救いにあずかったことにより、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないことを」知りました。「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(ローマ3:20)からです。律法によってだれも神の御前で義とされないことは明らかです。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3:9)と述べています。以前は自分の過ちと罪のために死んでいた者を神は恵みにより、信仰によって救われました。「このことは自らの力に依る者ではなく、神の賜物です。行いによるのではりません。それは誰も誇ることがないためです。」(ローマ2:8-9)と述べています。

高慢なことを戒め、へりくだること、謙虚、謙遜であるべきことを勧告したパウロは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」(フィリピ2:5)と述べ、キリストのへりくだりを模範とせよと勧めるのです。

虚栄を捨てて神の前に謙遜にされた人間は、社会の人々に対してもまた「へりくだった心」を持たなければなりません。

曽根暁彦著の「若き魂への福音」の「虚栄」という項目に次のような文章が書かれているので、紹介いたします。

「虚栄の社会は対立の社会であり、争いの社会であり、お互いに裁き合う人間の集まりです。そこでは人間は高慢です。冷酷です。その中にあって虚栄を捨て、へりくだった心で生きて行こうすることは決してやさしいことではりません。しかし、それこそ『キリストの福音にふさわしく生活』(フィリピ1:27)することなのです。『あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている』(フィリピ1:29)とあるように、この世での苦難は救いにあずかる者への、神からの賜物であることを忘れてはなりません。」(p.119)

私は父から、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばを教わりました。稲の穂に実が入り、内容が充実すると、ますます重くなって、穂が低く頭を垂れる様子を詠んだものです。人間も人物ができてくればくるほど謙遜になるものだということを、教えた言葉です。

讃美歌21の543番「キリストの前に」の作詞者、奥野昌綱(1823-1910)は、明治維新後、米国宣教師ヘボンの日本語教師となり、感化されてキリスト教に入信。日本のプロテスタントで二番目の牧師となりました。一番目は、大阪の澤山保羅牧師です。奥野牧師は聖書、讚美歌の翻訳に、またキリスト教の伝道に貢献した人物です。次のような短歌を詠んでいます。

  「キリストを人に見せばやわれはその

   かげにかくれてありとしらさで」

イエス・キリストを主と仰ぐ奥野牧師の、へりくだった心境がよくあらわれている短歌です。謙遜な伝道の姿勢がうかがわれます。キリストの大きな愛によって生かされている恵みを自覚する時、人間はへりくだって謙遜になれるのではないでしょうか。

 

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