富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「苦難の中にあるキリスト者を励ます」 ペトロの第一の手紙3章13~22節

2019-08-11 14:18:26 | キリスト教

       ↑ 「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」ペトロの手紙一、5章6ー7節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

    聖霊降臨節第10主日  2019年8月11日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

 

                    礼 拝 順 序

                                                司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編   13(いつまで主よ、わたしを忘れておられるのか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ペトロの第一の手紙3章13~22節(p.432)

説  教 「苦難の中にあるキリスト者を励ます」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21)  531(主イェスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                         次週礼拝 8月18(日)  午後5時~5時50分 

                                         聖 書 ローマの信徒への手紙12章9~21節

                                         説教題   「隣人」

                                         讃美歌(21) 540 532 交読詩編 122

                       本日の聖書 ペトロの第一の手紙3章13~22節 

 3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。 14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

                      本日の説教

 この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ、終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。

この手紙は伝統的には、使徒ペトロが、ローマ帝国のネロ皇帝の迫害(64年頃)によって殉教の死を遂げたと言われる直前、当時バビロンと呼ばれていたローマ(5・13)から小アジア地方(現在のトルコのアジア側の大部分)の諸教会(1・1)にあてた手紙か、もしくは、その迫害の直後、67年頃に、シルワノ(5・12)がペトロの遺志を汲んで書いた手紙と考えられてきました。<シルワノ>は使徒言行録15・22の「シラス」と同一人物です。聖書として成立したのは紀元67年頃と推定されています。

 

                                 

1章1節に記されている手紙の宛先であるポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアとは、一~二世紀のローマ帝国の四つの属州の名であり、現在のアジア側トルコの大部分の地域です。手紙の受け取り人は、キリスト教に改宗する前は、ユダヤ教の生き方に賛同していた異邦人であったと思われます。その多くは社会的地位も低く、奴隷や異教徒の夫を持つ婦人や若者たちがかなり多くいたようです(2・18-3・7、5・5)。著者は実際に起こっていた迫害状況に即して具体的に語っているので、その迫害はローマ帝国による公的迫害というより、ある地方における一般的な中傷や非難であったと考えられます。本書では<長老>のみが教会の職務として記されており、奉仕者や監督についての職制が定立される以前の単純な組織体としての教会であったと思われます。

1章1~2節の挨拶のあと、1章3節~12節では、まず主イエス父である神を讃美します。わたしたちを新たに生まれさせ、キリストの復活によって生き生きとした希望を与え、天に蓄えてある財産を受け継ぐ者としてくさった神の救いを述べます。あなたがたは、終末の時の救いを受けるために、<神の力により、信仰によって守られている>と励まします。

1章13~25節では、「聖なる生活をしよう」と、清さと神への畏敬と兄弟愛を勧告します。

2章1~10節では、生きた石、聖なる国民となろうと、神の民としての共同体形成が勧められます。2章の11節以下は、

「神の僕として生きよ」と異教社会に生きるキリスト者への実際的な勧告を与えます。2章18~25節では、召し使いたちへの勧めがなされます。あなたがたのために苦しみを受けられたキリストを模範としなさいと勧めています。

 3章1~7節は、信徒でない夫に対する妻の宣教は、言葉によってではなく、神を畏敬する妻の純真な無言の生活によってなされるべきであると勧められています。妻のあるべき性格として「柔和でしとやかな気立て」という内面的な人柄が強調されています。「柔和」とは、苦難の中にあっても謙遜にひたすら耐えて神に服従するというイエス自身の人柄を表すことばです。夫に対する勧告は、その妻や子供たちはほとんで改心していたと思われるので、非常に簡潔です。夫は勝手な要求を妻に押しつけず、配慮しなさいと勧めています。夫婦関係が崩れている時には<祈り>が妨げられる。しかし、夫婦が相互に抑制し尊敬し合うとき、祈りが十分になされ、それが夫婦の生活の基盤になる、と説いています。

 3章8~12節は、「おわりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」と勧めます。

 今日の聖書の箇所、3章13~22節では、苦難の中にある読者を励ますために、<正しいことのために苦しむ>ことの意義を展開します。

 「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(4・13-14)

 熱心に善行を続ければ神が神が必ず助けてくれる(イザヤ書50・9)、究極的には彼を傷つけ人格を破壊できる者はだれもいない、という確信です。<義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです>は、主イエスの教えでもあり(マタイ5・10)、文脈から判断すると、現在苦難に直面している読者に語りかけているように思われます。

 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(3・15)

 人々を恐れないで、主なるキリストのみを畏れ、あがめなさいと勧めています。あなたがたの希望を、いつでもだれにでも説明できるように備えていなさい、と勧めています。

 「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」(3・16-17)

 <穏やかに、敬意をもって、正しい良心で>弁明するとは、聖霊を受け神と共に判断するキリスト者の姿が示されています。そして<正しいことのために苦しむ>ことの宣教的意義を強調しています。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(3・18)

2章21b-25節に記されているキリストの受難の意義の要約です。ここではキリストの受難の<ただ一度>が強調され、そのいけにえが<あなたがたを神のもとへ導くため>であるとされています。祭司であるキリストが自分自身をいけにえとして<罪のために>ささげたことにより人間が神に近づくことができ<義に生きるように>なったという意味でしょう。<霊では生きる者とされた>は、「死からよみがえらされた」と同じ意味です。

 「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」(3・19-20)

 <捕らわれていた霊たち>は、神に服従しなかった者です。彼らが捕らわれている場所は明らかではないが、ここでは復活のキリストの昇天途上、地の上方に位置すると考えられます。ノアの箱舟のときに神様に従わなかった人々たちのことをここに書いているのは、キリストの福音に従わなかった人の代表としているのです。既に死んだ人々にどのような救いの道が備えられているかということについては、ここでははっきりとした答えは記されてはおりません。<宣教されました>は、一般には悔い改めの勧めと赦しの宣言ですが、ここでは復活者の勝利の宣言と見做されます。世々の教会は使徒信条において「陰府にくだり」と告白します。主イエス・キリストの人間に対する救いの御業の大きさを信仰をもって言い表したのです。ノアは、義人の代表の一人とみなされおり、<箱舟>は後に十字架の型、教会の型と考えられるようになったが、すでにここでは洗礼との関連で考察しています。<箱舟に乗り込んだ八人>とは、ノアとその妻、および三人の子セム、ハム、ヤフェトとその妻たち(創世記7・7)です。彼らは神の言葉に服従し破滅から救われたという点でキリスト者の予型でもありました。<水の中を通って救われた>は、ノアたちが、洪水の中を通って安全な場所へ導かれたように、キリスト者は洗礼の水の中を通り、その水によって救われるという両方の意味がこめられています。

 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3・21)

キリスト教の洗礼は不浄を除去する儀式的行為ではなく、<神に正しい生活態度をとることを約束し誓う>ことです。

 「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」(3・22)

 昇天のキリストが<神の右に座し>、神の主権をもって、人間だけでなく<天使><権威><勢力>と呼ばれる超自然的存在を含む全宇宙を支配していることを述べています。

 全宇宙を支配しているキリストによってわたしたちは守られており、キリストがどのような時も共にいて下さることは、試練の中にあっても、わたしたちの希望であり、喜びであり、苦難に打ち勝つ力でもあります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする