富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

イースター茶会への案内

2017-04-06 23:26:21 | キリスト教

   第25回 イースター茶会のご案内

  庭の梅も見頃となり、うぐいすもさえずる春となりました。今年は桜の咲く頃にイ―スターの日を迎えます。茶会はその前日になります。

日時: 平成29年4月15日(土)

場所: 富谷教会・茶席松風亭 

会費: 3千円(濃茶席、薄茶席、弁当付き)

 午後の部は、12時~3時20分

○駐車場は、富谷教会と富谷ゴルフ場内の指定場所

午後の部に参加ご希望の方は、12時までに受付を済ませて下さい。】

※昼の時間は礼拝と食事の時間になります。

  12時~12時30分: 礼拝

  12時40分~1時20分: 昼食 

  1時20分~3時20分: 茶会

   ☆申し込みは、4月10日(月)まで、下記にお名前と人数、ご希望の部をご連絡ください。

   電話022-358-1380  Fax022-358-1403

  申し込みは、富谷教会内、茶席松風亭:辺見宗邦・辺見宗友まで。

  〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12

  1.バス利用の場合(仙台駅西口の宮城バス停から、富谷車庫行きに乗車(約50分)、(富谷)ゴルフ場入口下車、徒歩3分)

  2.地下鉄利用の場合(仙台駅前より、泉中央駅下車、約20分、泉中央の宮城バス停より富谷車庫行きに乗車・約25分、ゴルフ場入口下車、徒歩3分)

  

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「十字架の勝利(偉くなりたい者は仕える人に)。」 マタイによる福音書20章20~28節

2017-04-02 14:05:29 | キリスト教

               ↑   『使徒の足を洗うキリスト』ティントレット 1547年

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

              日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

受難節第5主日  2017年4月2日(日)    午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 300(十字架のもとに)

交読詩編  118()

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書20章20~28節(p.39)

説  教    「十字架の勝利(偉くなりたい者は仕える人に)」辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   535(正義の主イエスに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

           次週礼拝  4月9日(日) 午後5時~5時50分

           聖書  マタイ27章32~56節

           説教   「十字架への道」 

           讃美歌(21)449 305 24 交読詩編 118 

本日の聖書 マタイによる福音書17章1~13節

 20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

     本日の説教

  主イエスは、御自分が受ける受難について、事前に三回も弟子たちに予告しました。第一回の予告はガリラヤでの伝道を終えて、いよいよ十字架に向かう新し段階となるフィリポ・カイサリアでのペトロの信仰の告白直後のことです。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16章21節)。このイエスの苦難と死、そして復活は神の計画に基ずく必然的な出来事であることを弟子たちに伝え、弟子たちがつずくことのなうように配慮したからです。

 二回目の予告は、フィリポ・カイサリアの出来事から六日後の山上でイエスの姿が栄光に輝いた後、山を下り、悪霊に取りつかれた子をいやした後、一行がガリラヤに集まったときです。

「イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。(17章22,23節」)。

三回目は、エルサレムへの途上でいろいろ教えた後です。

「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』(20章17~19節)」

  第三の受難予告は、もっとも詳しく、イエスの死も<殺す>から<十字架につける>と具体化しています。

  今日の聖書の箇所は、この第三回目の受難予告の直後の出来事です。弟子たちはイエスの受ける苦難と死の意義についてなお十分な理解を持っていないことが明らかとなります。イエスが「イスラエルのために国を立て直す」(ルカ2:34)ためにエルサレムに行くと期待していた弟子たちは、メシヤ王国での自分たちの名誉と権力に関心をいだいていたようです。

「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。」

<ゼベダイの息子たち>とは、ヤコブとヨハネのことです(マタイ4章21節)。二人の弟子たちが直接イエスに頼み込むのでなく、彼らの母親がイエスに頼むのです。

「イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」

母親は、イエスがメシア王国の王として君臨するとき、王に次ぐ重要ポストを二人の子に与えるという約束を求めました。それはきわめて世俗的な特権への依頼でした。これに対してイエスの最初の反応は、兄弟たちの野望を非難するのではなく、もしメシヤの栄光にあずかいたいと願うならば、彼らは、イエスの苦難に参与する準備をしなければならないことを伝えます。

 「イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」

 イエスは、直接ヤコブとヨハネに語りかけます。「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と忠告されました。もし彼らが御国の本質を理解しているなら、そこでの高い地位など求めるはずがないからです。

 直接嘆願したのは母親でしたが、その嘆願の背景には、二人の弟子の意志があったので、イエスは、その弟子たちの問題として対応されたのです。

 <このわたしが飲もうとしている杯>とは、これから予期される受難であり、殺害される処刑について語っています。この杯を飲むことは神がその人に定められた死を受け入れるということを意味しています。イエスは、彼らにその覚悟が出来ているのかどうかを尋ねます。

 「二人が、『できます』と言うと、 イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。』」

 ヤコブとヨハネの二人は、イエスと共に死ぬ覚悟ができえいると即座に応答しています。母だけでなく、息子たちも出世を願っていることが明らかになります。イエスは、ヤコブとヨハネの決意をそのまま受け止められました。イエスは彼らの生涯を見通され、<確かに、イエスの十字架を負って従う者になる>と言われたのです。

 ヤコブは、教会の殉教者になりまりました(使徒言行録12:2)。ヨハネも晩年に激しい迫害を受け、パトモス島への流刑の身になりました(黙示録1:9)。二人ともイエスと同じ苦しみの杯を飲んだことになります。

 神の国での地位は、弟子たちの受ける苦難と交換条件的に約束できるものではないことを、イエスは説きます。その地位は、イエスが決めることではなく、父なる神によって定められている人がゆるされているのだ、と説きます。

イエスは常に、御自分を神の使命を果たすためのしもべの位置に置いています。イエスが「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」と宣言するのは復活後のことです(マタイ28:18-20)。

ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 後でこのことを知った他の十人の弟子たちは、自分たちを出し抜いて良い地位を得ようとしたこの二人の弟子のことで腹を立てました。正にこれは弟子たちの間に、地位をめぐる世俗的な競争意識があることが明らかになります。

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。』」

 イエスは弟子たちを呼び寄せて、彼らを戒めました。<異邦人の間では>とは、ユダヤ人に対する異邦人という意味ではなく、御国の民に対するこの世の人々のことです。この世の人々の間では、支配者たちが権力を振るって人々を支配している。そして、この世では権力ある地位につくことが名誉とされています。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。御国においては、偉くなりたい者は、自らを低くし、他人に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆のしもべとなって仕えなければなりませんと、イエスは弟子たちを諭されました。

 「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 イエスは弟子たちに、仕えることを求めました。それはイエス自身が仕える者としてこの世に来たからです。イエスは人々に仕えられるべきメシヤでしたが、かえって人々に仕えるべきしもべとなってこの世に来られました。それは、多くの人々を罪の裁きとしての死から救い出すために、身代わりとして十字架の死を遂げるためでした。

 <身代金として>とは、古代中近東では、戦争で捕虜となった者を釈放したり、奴隷を自由にするとき、それまでの所有者に対価として支払われたお金を指していました。ところが、この言葉は、次第に宗教的な意味で使われ、赦しのための犠牲として用いられるようになりました。

 わたしたちは、神をあがめず、かえって多くの罪と悪を犯さざるを得ない罪人です。わたしたちのどんな善行も、信心も、命その者さえも、罪に汚れていて身代金には値しません。しかし、わたしたちの払えない、その贖いの身代金として、永遠の世界で神と共におられた方が人となって世に来られたのです。このイエスこそ罪なくして生まれた神の御子であり、人が自分の罪のゆえに払わなければならない代価を、ご自分の命をもって十字架上で支払ってくださった方です。このように、イエスの十字架と復活は、私たちを罪と死の束縛と支配から解放し、自由と救いとを与えてくださる勝利を与えてくださいました。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しましょう。」(コリント1、15:57)とあります。

 讃美歌21の301番(2節)、396番(1節)、406番(5節)は、十字架の勝利を歌っています。

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、わたしたちも愛によって歩み(エフェソ5:2)」、「それぞれの賜物を用いて互いに仕え合いましょう(ペトロ1、4:10)」。

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