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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
復活節第3主日 2017年4月30日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 206(七日の旅路)
交読詩編 116(わたしは主を愛する)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳)コロサイの使徒への手紙3章1~11節(p.371)
説 教 「新しい命・悪徳に勝には」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 325(キリスト・イエスは)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 5月7日(日) 午後5時~5時50分
聖書 ヨハネによる福音書11章17~27節
説教 「イエスは復活また命」
讃美歌(21)432 453 24 交読詩編136
本日の聖書 コロサイの使徒への手紙3章1~11節
1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
本日の説教
コロサイの町は、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレの近くにあった町です。この町の周辺には、ラオディキアやヒエラポリスの町(コロサイ4:13)がありました。コロサイは、西海岸のエーゲ海に面していたエフェソ(イズミールの南50~60㌔にあるエフェス遺跡)から東に150㌔に位置し、かつては東西の交通の要所として繁栄した町です。
コロサイの教会の成立は、パウロの協力者、コロサイ出身のエパフラスを通じて福音が伝えられ、教会の基礎が置かれたものと考えられています。エパフラスは異邦人キリスト者であり、コロサイの信徒たちももともとは異邦人でした(コロサイ1:21、2:13)。コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書と共に、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4:3,10,18)。投獄されていた場所としては従来、ローマとカイサリアが想定されてきましたが、エフェソも有力な候補地として挙げられるようになっています。
今日の聖書の箇所に入る前に、「主キリスト・イエスを受け入れた」コロサイの信徒たちに、パウロは次のように説き、「キリストに結ばれて歩きなさい」(2章6節)と勧めます。
1.「あなたがたは…洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。…罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。」(2章12~13節)
信徒たちは洗礼によって、キリストの十字架と共に死に、キリストの復活にあずかって、キリストと共に、<新しい命>に生かされていることを自覚させます。
2.「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属していうるかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。」(2章20,21節)
信徒たちは、キリストと共にこの世に対して死んでいることを再度強調し、世を支配している戒律にとらわれているなら、再び<世を支配する霊>の支配に戻ってしまうことになってしまいます。キリストの死によって、世の力の影響から信徒たちがすでに解放さたことを、使徒は断言し、すでに世に属していない者であることを自覚させます。
そして、今日の聖書の箇所が始まります。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(3章1節)
古い秩序(世を支配している諸霊)に生きて、縛られていた生活から、キリスト共に復活した新しい命の秩序(望ましいあり方)へ促す生き方を勧めます。<上にあるものを求めなさい>の<上のもの>とは、神の領域、天であり、栄光のキリストのいるところです。
「地上のものではなく、上のものを求める」(3:1,2,5)ようにと命じて励ますことの根拠は、コロサイの信徒たちが古い支配に死んだこと(2:20)であり、今はキリストと共に復活して、新しい命にあずかっている事実です。彼らの命の源は、彼ら自身の命ではなく、キリストの命を生きているのです。しかしながら、このことはすべてがすでに完成し、最後の日はすでに到来したということではありません。将来の完成を見ているのです。信徒たちの新しい命は、今はキリストの命と共に神のうちに隠されているのです(3:3)。その完全は完成と現れは将来のキリストの現れを待つ必要があります。だからこそ、使徒は信徒たちを励まして、「上のものを求めなさい」と命じているのです。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(3章5節)
五つの悪徳のリスト、<①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、⑤貪欲>は、性の乱れとして表面化しているものから、その根源である「貪欲」へと質的に深められて、欲望に属する罪として記されています。<みだらな行い>は、性的な不品行であり、<不潔な行い>は、汚れた放らつな生活であり、<情欲>は悪しき情熱、性的倒錯であり、良くない<悪い欲望>であり、<貪欲>は、より多くを所有したいというむさぼりの欲望です。特に異邦人の信仰者は、ここにあげられている罪のリストに注意を払わなければなりません。異邦人は、性的不道徳に対して寛容な文化の中に育っており、地上のものに心を寄せるという意味で偶像礼拝者です。「貪欲」に対しても無頓着です。そこで異邦人は、そうしたことに厳しい態度をとっているユダヤ人以上に、警戒が必要なのです。
<捨て去りなさい>は、原語では「殺しなさい」という、とても厳しい命令です。罪の現れとしての性的な放縦、貪欲、ときっぱりと別れることが命じられています。信徒たちはキリストと共に死に、キリストの新しい命を生きる以上、これが「地上の肢体」への抵抗の根拠と力になるのです。わたしたちの「命」が「キリストと共に栄光のうちに現れる」ことが確実であるからこそ<地上的なもの>への闘いに立ち上がることができるのです。
パウロははっきりと言います。「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」と。この「以前」の生活は、「今は」キリストと共にあることによって「過去」とされたのであり、「過去」のこととしなければならないのです。
ところでこうした悪徳の根源は、「偶像礼拝」(5節)であり、それゆえ「神の怒り」の対象になります(6節)。従ってこれらの悪徳の克服は真の礼拝に立ち返る他ありません。悪徳に対して直接立ち向かうだけでは新しい道徳主義、自力主義になるだけで、それでは「ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではありません」(口語訳聖書2:23)。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。「上にあるものを求めよ」ということを前提にしているのです。
関田寛雄氏は次のようなすぐれた見解を述べています。「自力主義で悪徳に立ち向かっても絶対に勝目はない。…」「上にあるもの」に導かれることなくして悪徳への闘いは不可能である」と述べ、氏は内村鑑三の所感を引用しています。「悪とは神を離れて存在することであり、神と共にあるならば、万事すべの行いは善となります。わたしたちは悪を避けようとするよりも、むしろ神と共にいることをつとむべきであり、そうすればわたしたちはおのずから善をなすことができ、悔い改めの苦痛を感じることもなくなるでしょう。」(筆者による口語訳)(説教者のための聖書講解№43,p.51)
「上なるものを思い」、自らの「貪欲」による「偶像礼拝」を捨て、「霊の導きに従って歩く」ならば、「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)。ローマ書にも、「霊ではなく、肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。…肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。…肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」(ローマ書8章5~13)とあります。
「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。」(3章8節)
先の5節の悪徳は自己に関する悪徳とすれば、8節の悪徳は他者に関わる悪徳です。①<怒り>、②憤り、③悪意、④そしり、⑤恥ずべき言葉、の五つの言葉や感情に関する罪をあげています。ここでも「捨てなさい」と命じています。そして最も端的なまとめとして、「うそをついてはなりません」と警告しています。見えを飾ることも、過度の謙遜も、陰口も、この世に毒された「うそ」です。
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(3章9、10節)
新しい人とされたわたしたちは、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、<造り主の姿に倣う新しい人を身に着け>て歩むように勧めています。そして、新しい人、神の姿に倣うキリストにある望ましいあり方に、日々新たにされて、この人格的に新たにされることこそが、「真の知識」に至るのです。それを完成させてくださるのは、「あなたがたの中で善い業を始められた方(神)」であり、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださるのです」(フィリピ1章6節)。
「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(3章11節)
<新しい人>には、民族的差別、宗教的、習慣的差別、身分的差別、及び文化的差別の一切が越えられ、差別が取は払われるのです。男も女もありません(ガラテヤ書3:28)。それは、「神の右に座しておられる」イエス・キリストの主権がこの世界の間化の機構のすべてを打ちこわし、自らこの世界の「すべて」となり、「すべてのもののうちにいます」という支配を確立するからです。わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つなのです。