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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
降誕節第6主日 2018年2月4日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) マルコによる福音書2章1~12節(新p.66)
説 教 「癒すキリスト」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 436(十字架の血に)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月11日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マルコによる福音書4章35~41節
説教題 「奇跡を行うキリスト」
讃美歌(21)149 432 24 交読詩編147篇
本日の聖書 マルコによる福音書2章1~12節
2:1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3四人の男が中風の人を運んで来た。4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
本日の説教
ガリラヤで伝道を始められたイエスは、カファルナウムで「汚れた霊に取りつかれた男」を癒し(マルコ1:21~27)、シモンとアンデレの家で熱病で苦しんでいるシモンのしゅうとめを癒し、いろいろの病気で苦しむ者を癒されました(マルコ1:29~34)。 イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。そして、「重い皮膚病を患っている人」を癒しました(マルコ1:40~45)。
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになりました。「家」は、シモンとアンデレの家のようです。イエスが御言葉(福音)を語っておられると、四人の男が中風を患っている人を床に乗せて運んで来ました。しかし、群衆にはばまれて、イエスのもとに連れていくことが出来なかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、病人の寝ている床をつり降ろしました。
中風(ちゅうぶ)とは、半身の不随とか、腕や脚のマヒする病気です。一般的には、脳出血後に残る(後遺症の)マヒ状態のことで、「中気」とも言います。ここでは<中風の人(パラリュティコス)>は「不随の者」を意味するギリシャ語です。歩けない状態にあった人です。
【英語では中風はパラリティク(Paralytic)です。下半身不随を表す英語のパラプレジヤは「パラリンピック」の語源となり、1985年以降、半身不随以外の身体障害者も大会に参加することから、パラレル(平行)とオリンピックとを合わせた「もう一つのオリンピック」という意味で使われるようになりました。】
当時パレスチナの家屋の屋根はおそらく横梁(ばり)の上に角材を並べ、その上に木の枝や柴を編み、粘土で練り固めた平屋根でした。屋根には外から階段で上ることができました。<屋根をはがして穴をあけ>とあるので、粘土を固めた屋根のようですが、ルカ福音書では<瓦をはがし>とあります。これはルカ自身のギリシャ・ローマ的な背景を反映しています。<床>は貧しい人が使う小さくて粗末なベッドです。
イエスは<その人たちの信仰を見て>とあります。中風の患者の信仰と四人の信仰です。イエスの権威と奇跡的な力に対する、彼等の信頼です。中風の人へのイエスの最初の言葉が、中風の者に、<子よ>と親しく呼び掛け受け入れています。そして<あなたの罪は赦されている>と宣言しました。<赦されている>は現在時制の受動態です。「今このときに赦される」の意味です。<神によって赦されている>ということであり、神が赦されたことをイエスは宣言したのです。イエスは神の子として罪を赦す権限を父なる神から与えられているのです。イエスが宣言した時に罪の赦しが起きました。その断固たる宣言の調子を表すために、<あなたの罪は赦された>という訳も成り立ちます。
「イエスは罪だけが病気や災難の原因とは決して考えませんでした(ヨハネ9・2-3、ルカ13・1-5)。しかし、この場合、「罪」は複数形で表されています。彼の「麻痺」は彼の霊的な状態と関係していることが明らかに暗示されています。イエスが、あなたの罪は赦されたと言えば、病人は癒されたも同然なのです。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが罪を赦すことができるだろうか」と考えたのです。
「罪を赦すこと」は旧約聖書では神の特権です。神の特権を横取りする者は、石打ちの刑で殺されることになっていました。律法に通じている律法学者たちは、イエスが神ご自身のように振る舞われたので、神を汚したと考えたのです。
律法学者たちの間違いは、聖書の律法を守ることによって罪が赦されると考えていたことでした。確かに旧約聖書には罪が赦されるための犠牲について書かれています。しかし、それは不完全であり、完全な犠牲は人の努力によるものではなく、神の恵みによるものです。自分の行いに頼る高慢な心が、自分の罪深さを見え無くさせ、神の恵みを見失ってしまっているのです。
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに見抜いて、なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦され』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。
「あなたの罪は赦された」というのは、誰もその結果の真偽を具体的に判定できないので、言うことは簡単なことです。しかし、「起きて、床を担いで歩け」というのは、その結果はすぐ目に見えるので、難しいことです。しかしイエスにとっては罪を赦すのも病を癒すのも同じ権威に属することでした。病を癒すイエス行為は、罪の赦しによる神との和解のえる「しるし」なのです。これがイエスが病人を癒す理由です。
イエスは自分を「人の子」と呼んでいますが、自分がメシア(救世主)である自覚をもっておられたが、人々の無用な誤解を避けるために、普通の「人」の意味にもとれる「人の子」という言葉を用いられたのです。このような漠然とした表現を取りながら、「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」とイエスは言われたのです。
そして、イエスは中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。主イエスの癒しの権威により、この人は、寝たまま起きることの出来ない状態から、起き上がって歩ける状態に変えられたのです。人々は皆大変驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神を賛美しました。
イエスの罪の赦しと癒しの宣言は、ただ口先だけの言葉ではありません。わたしたちの罪を負い赦すために、身代わりとなって十字架の死をとげ、わたしたちを罪の支配と死の恐れから解放するために復活されることと結びついているのです。癒された中風の人は、わたしたちと無関係ではありません。わたしたちも、イエス様によって罪を赦してもらわなければなりません。そして罪から解放され、聖霊を与えられて、立ち上がり、自分に与えられている十字架を背負って、主イエスに従って歩かなければなりません。毎朝、床から起きるとき、主イエスの罪の赦しの言葉をいただき、「わたしはあなたに言う。起き上がり、霊に従って歩みなさい」との御声に聞いて、新しい日を始めたいと思います。
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