富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「五旬祭のペトロの説教」 使徒言行録2章14~36節

2019-06-13 16:53:18 | キリスト教

         ↑ ペトロの聖霊降臨日の説教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第2主日  2019年6月16(日)     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内に

キリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと

立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

 

礼 拝 順 序

司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編    8(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者木

聖 書(新共同訳) 使徒言行録2章14~36節(新p.215)

説  教  「五旬祭のペトロの説教」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                        次週礼拝 6月23日(日)  午後5時~5時50分 

                                          聖 書 使徒言行録2章37~47節

                                          説教題   「教会の一致と交わり」 

                                          讃美歌(21) 149 535 24 交読詩編 138

              本日の聖書 使徒言行録2章22~36節

 2:14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

  2:22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 26だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 29兄弟た、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。 32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』 36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

                              本日の説教

   五旬祭の日に、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちが聖霊に満たされて、世界各地の土着の言語を使って、神の偉大な業を語り出しました。それを聞いて、当時の世界各地から帰ってきて、エルサレムにいた信心深いユダヤ人たちは驚きとまどいました。しかし、このような不思議な熱狂的様子を、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいました。

 この奇跡に驚いている民衆に向かって、ペトロは他の十一人の使徒と共に立って、声を張り上げて話し始めました。ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」とペトロは呼び掛け、「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と語りかけました。

 ペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と話し出しました。聖霊の働きによって弟子たちが、外国の言葉で語った現象を、ペトロは預言者ヨエルによって語られていた預言が実現したのだと語りました。ヨエルが活動したのは、紀元前450年から400年頃と思われています。旧約聖書の預言者の中では、年代的には最後の預言者です。ヨエル書には、「神の霊の降臨」を、次のように記しています。

 「その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル書3章1~5)

 「その後」とは、ヨエル書1章で描写されたいなごの災害の後の回復の時、2章18~27節に約束された祝福が成就された時を指しています。ヨエルは、「その後」、聖霊降臨が生じ、人々が、神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代がくることを予言しました。「わが霊」とは、神の息であり、神の力です。ここでは神が人の命を支え、歴史の中で力強い業を行い、救いを与えることです。

 旧約聖書の伝統の中では、神の霊は、神の特別な選びと好意を受けた者だけ注がれるものでした。例えば王や士師、預言者でした。ところが、預言者ヨエルはそれが全ての人に対して起こると言っています。「すべての人」とは、ヨエル書では全人類、全世界の意味ではなく、イスラエルの民のすべての人です。「息子や娘」、すなわち、男女の性別にかかわりなく、聖霊は与えられて、人は預言をする。また、「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」すなわち、社会の階級や立場にかかわりなく、社会の最下層の男の奴隷、女の奴隷も、聖霊を与えられる、という預言です。

 ペトロは、ヨエルの預言を、次のように語ります。

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。」(使徒言行録2:17~18)

 ヨエル書の「その後」が、「終わりの時に」にとなっています。聖霊の注ぎによって教会が宣教を開始する「終わりの時」です。ヨエル書の3節と4節は、世の終わりの最後の審判が来るとき、その前兆(しるし)が、天にも地にも自然界に異変、災害が現われることを教えています。しかし、その前に、聖霊が豊かに注がれて、人が、神の言葉を語る時代が来るので、神の言葉を聞いて、神を信じ、「主の御名を呼ぶ者」は、裁きの試練の中で、エルサレムに避難所を見出し、救われる。このようにして主に選ばれた残りの民がそこに残る。

 ペトロは、次のように語ります。

 「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:19~21)

 ペトロの説教では、「エルサレムには逃れ場がある」という表現はありません。天上の都こそ永遠の都なのです。ペトロは「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と締めくくります。その主とは、私たちのために十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇って父なる神の右に座しておられるイエス・キリストです。私たちも、その主の名を呼び求めることによって救われ、喜びと希望を与えられて生きています。その喜びと希望は、この世の人生を支え導くのみでなく、肉体の死を越えた彼方にまで及ぶものです。

 ペトロは、「イスラエルの人たち」(22節)と呼びかけます。「イスラエルの人たち」は神に選ばれ、神の民とされた人たちです。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。……このイエスを、……あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(2:22b…23)

 「律法をしらない者たち」とは、ローマ帝国の総督ピラトやその兵卒たちを指しています。しかしこのことは神が予知されていたことが起きたのです。

 「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデはイエスについてこう言っています。」(2:24~25a)

 ペトロはこう言って、詩編16篇8~11節を引用し、ダビデ王が言った言葉で、イエスの復活を証明しました。

 「『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』」(2:25b~28)

 この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活が神様のご計画の中に既にあったことなのだと、ペトロは説明したのです。「兄弟たち」(29節)、とペトロは三度目の親しい呼びかけをしました。

 「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」(2:29~31)

 ダビデは死んで、その墓が今もあり、ダビデは彼の子孫の一人が王座に着き、「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」とペトロは詩篇16編10節を再び引用して、キリストの復活を証明します。

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。《わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。》』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(2:32~36)

 イエスの復活を詩編の言葉で証明したペトロは「わたしたちは、イエスの復活と昇天の証人です」と宣言しました。さらにペトロは神の右の座に上げられたイエスの昇天を、詩編110・1を引用し、「主(神)は、わたしの主(キリスト)に神の右の座に着くようにお告げになった」と証明しました。

 ペトロは、今度は「イスラエルの全家(ぜんか)は」と言い、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語りました。「イスラエルの全家」とはイスラエルの全(すべ)ての家のことで、国外に滞在するユダヤ人を含めたユダヤ人をも対象として語りかけたのです。そして、神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神の右に上げられ、主(世を支配する主)とし、メシア(救い主)とされたのです、と宣言しました。

 ペトロの説教は、ユダヤ人に対して、キリストの十字架と復活、昇天、聖霊降臨を、聖書の預言の成就であると説き、自分たちは主の復活の証人であることを述べ、イエスは神の右に座す支配者であり、救い主(キリスト)であると宣言したのです。

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2・36)は、ペトロの説教の要約です。ペトロはこの説教で、「あなたがたはこのイエスを殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが殺したイエス(36節)」と、二度もイエスの殺害の責任をユダヤ人に帰しています。神の民であると自負するユダヤ人が神の子を拒否し、直接手を下さないまでもイエスを十字架に追いやった責任と罪に気付き、悔い改めるように迫っています。

 しかし、ペトロの説教はユダヤの罪を告発しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を用いて救いのみ業を達成して下さった神様の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みの勝利が宣言されているのです。神様の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、ペトロの説教は告げているのです。

 ペトロの説教を聞いた人々は心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

 ペトロは、彼らに向かって、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言って、聖霊はイスラエルの人々に限定されない、すべての人に与えられるものであると言いました。

 ペトロが告げ知らせた福音は、ダビデ王の時代から、およそ一千年もの間イスラエルの民が待望してきた、イスラエルの民を救うメシアが、神の右に座し、世を支配する主となられたという知らせです。神がイスラエルの始祖アブラハムに誓われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束が実現したのです。実に、紀元前二千年も前の、全人類を救う神の御計画が実現したのです。

 今日も、人々が、神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代、聖霊の時代です。二千年前に弟子たちや初期教会を導いた聖霊が、同じように現代のわたしたちにも与えられるのです。聖霊は、キリストの現存の力と栄光のしるしです。主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と約束されています。聖霊は罪から清める力でもあり、愛の賜物でもある聖霊を祈り求めましょう。そして、神の偉大な救いを世に告げ知らせようではありませんか。

 

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