富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「破局からの救いーパウロのローマへの船旅」 使徒言行録27章33-44節

2020-07-21 14:16:01 | キリスト教

   Ludolf Bakhuizen(オランダ人画家)「Paul’s Shipwreck(パウロの難破船)」ドイツの エムデン美術館所蔵

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

                    日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

               聖霊降臨節第九主日  2020年7月26日(日)      午後5時~5時50分

                                          礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 462(はてしも知れぬ)

交読詩編   18、1-20(主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)使徒言行録27章33-44節(新p.269)

説  教   「破局からの救いーパウロのローマへの船旅」

祈 祷                 辺見宗邦牧師                

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝 8月2(日)   午後5時~5時50分  

                  聖 書  ローマの信徒への手紙14章10-23節

                  説教題   「命の糧」

                  讃美歌(21) 56 402 27 交読詩篇 116

   本日の聖書 使徒言行録27章33-44節

  33夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。34だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」35こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。36そこで、一同も元気づいて食事をした。37船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。38十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。39朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。40そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。41ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。42兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、43百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、44残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

       本日の説教

 カイサリアの総督フェリクスの前で、大祭司と長老数名が連れてきた弁護士テルティロの告発を受けたパウロは、訴えられる理由も証拠も何もないことを弁明しました(使徒24:10-21)。総督フェリクスは、この告訴が政治問題ではなく、ユダヤ教内部の宗教問題であったことを知っていたので、判決を出さず、千人隊長が来るまで、裁判を延期することを宣言し、パウロの監禁については、寛大な処置を百人隊長に命じました。

二年後、フェリクスは総督を罷免され、フェストゥス総督が着任し、パウロを裁判いかけると、パウロはローマ皇帝の法廷で裁判を受けたいと上訴しました。パウロはアグリッパ王の前でも弁明しました(26:1-32)。

総督フェストゥスやヘロデ・アグリッパ二世の目には、パウロはまったくの無罪で、釈放に価すると思われましたが、パウロ自身が皇帝に上訴(控訴)したために、やむを得ずフェストゥスは、パウロを他の数名の囚人と共に裁判を受けさせるため、イタリアへ護送することにしたのです。もし、エルサレムでの裁判に送り返されれば、パウロはユダヤ教の祭司長たちによって途中で殺される運命にありました。

パウロの身柄は、百人隊長ユリウスに預けられ、カイサリアからアドラミティオン港所属の船で出航しました。ユリウスは、<皇帝直轄部隊>の百卒長とありますが、シリアの補助部隊・歩兵隊に所属していました。アドラミティオン港は、ミシア地方のトロアスの南東のアソスに近い海港都市(現在のトルコの西海岸にあるエドレミトのこと)の港です。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコ(と、この書を書いたギリシャ人ルカ)が、パウロの世話係として同行を許されました。パウロのロ-マ行きは船の旅でした。この旅は西暦58年頃の8月中旬~9月初旬頃秋と推定されています。

船は、翌日130キロ北のフェニキアの首都シドンに寄港しました。パウロは好意的な百人隊長の許可をもらい、弟子たち(21:3~6)のところへ行ってもてなしを受けました。船はシドンから船出しましたが、向かい風のため、キプロス島の北に出て、キリキア州とパンフィリア州の沿岸に沿って西に進み、リキア州のミラに着きました。

 ここで百人隊長はローマ行きのアレクサンドリアの船が停泊しているのを見つけて、一行をそれに乗り換えさせました。穀物運搬の貨客船であったと推察されます。276人乗船していたと記されているので(27:37)、かなり大きい帆船(およそ300~500トン)です。

ミラを出航したが、北西の風に悩まされ、数日後、小アジアの南端にある港町クニドスに近づいたが、風にはばまれ近づけなかった。船は、北東の風にあおられて南に流され、クレタ島の東端サルモネ岬(岬アクラ・シデロスのこと)を迂回し、島の南岸にあるラサヤという町の近くの<良き港(カロイ・リメネス)>(現在のカリリメネスか?)に着きました。

かなりの時がたち、10月の第一週の終わり頃の到着です。すでに<断食日(「贖罪日」のための断食、九月末~十月初め。レビ記23:26)を過ぎていました。九月中旬から翌年三月までは海が非常に荒れるので航海は危険でした。パウロはこの季節の航海を避けるように人々に説得しました。しかし、百人隊長は、船長や船主の方を信用し、<良き港>は冬を過ごすのに適していなかったので、クレタ島から80キロ西にあるフェニクス港(現在のルートロか?)で冬を過ごすことに決めました。

ときに南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進みました(27章13節)。しかし、間もなく、島のイーディ山(海抜2456m)から吹き降ろす「エウラキロン」という北東から吹く暴風に船は巻き込まれ、南西に流がされるままになりました。

やがて、フェニクスの南四十キロの<カウダ(現在のガウドス)>という島かげに入ったとき、彼らは小舟を引き上げ、綱で船を船首から船尾まで縛りあげ、シチリア島のシラクーサを目指したが、シルティス(リビアのシルト湾のこと)の浅瀬に乗り上がるのを恐れて、防流錨(いかり)を降ろしたまま流れにまかせました。船は激しい暴風のために地中海を漂流しました

翌日、人々は積み荷を海に捨て、三日目には船具も捨てました。幾日もの間、太陽も星も見えず、自分たちの位置も進路も確認できないまま、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていました。

人々は長い間、食事をとっていませんでした。パウロは、「皆さん、元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ』。ですから皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」。

 船は、クレタ島の「良い港」を出港してから、十四日目の夜になったとき、アドリア海(当時は、クレタ島からシチリア島までの領域をアドリア海と呼んでいたようです。現在は、長靴の形をしたイタリア半島の踵の部分の岬までをアドリア海といいます。その南は、シチリア島までがイオニア海です。それ以上南は地中海です。)を漂流していました(27:27)。真夜中ごろ船員たちは陸地が近いと推測し、水深を測ると、一度目は<二十オルギィア(36メートル)>、二度目は<十五オルギィア(27メートル)>でした。船が暗礁に乗り上がることを恐れて、船員たちは錨を船尾から四つ投げ込み、見えない岸にぶつからないようにしました。船員は夜明けを待って、船首から錨を降ろすふりをして、小舟を降ろし、船から逃亡しようとしました。パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言ったので、兵士たちは小舟をつないでいた綱を断ち切って、小舟を流し、船員たちの逃亡を阻止しました。

  ここから、今日の聖書の箇所に入ります。

夜が明けたころ、パウロは一同に食事をするように勧めました。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません(ルカ21:18)。」こう言って、パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をしました。

  船にいた<わたしたち>は、全部で二百七十六人でした(27:37)。<わたしたち>とは、パウロに同行し、旅を記録しているルカの言葉です。パウロはある程度の自由を与えられ、友人たちは彼の世話をしていました(24章23節参照)。<わたしたち>と言う表現は、21章1、17節、27章2節にも使われていました。

 十分に食べてから、座礁を防ぐため、穀物を海に投げ捨てて、船体を軽くしました。

 

         マルタ島の「聖パウロ遭難記念教会」にある遭難の天井画

翌朝、砂浜のある入り江を見つけました。しかし、砂浜にたどり着く前に座礁してしまい、泳いで陸地に向かい、このようにして、何とか全員が無事に上陸することが出来ました。

その陸地はマルタ島でした。マルタ島は、シチリア島の南端から95キロ離れたところにある、日本の淡路島の半分ほどの島です。クレタ島からマルタ島までおよそ870キロの距離をパウロたちは漂流したことになります。現在マルタ島の北西に聖パウロ湾があり、その入り口に聖パウロの島という小島があります。ここがパウロとその一行が漂着したところだと伝えられています。

    

 マルタ島の北東にあるセントポールズベイ     その湾内にある、パウロが漂着した    (聖パウロ湾)                  聖パウロの島                                    

                                            

                   聖パウロの島に立つパウロ像

おそらく10月下旬から11月初め頃にかけて到着したと思われます。カイサリアを出帆して2か月経過していました。その船旅で遭遇した14日間にも及ぶ漂流は想像を絶する苦難でした。

    

         右がパウロ、左がルカのモザイク画。

パウロ一行は冬の海が荒れる3カ月の間はマルタ島で過ごしました。そして、その間、パウロはマルタのあちこちに出向いて、イエス・キリストの教えを説きました。マルタにはパウロのために建てられた大聖堂が残っています。2月になってローマ行きのアレキサンドリア船で出帆しました。ローマには西暦59年頃の2月下旬~3月初旬に到着したと推定されます。カイサリアから出発してからおよそ6か月後になります。

私たちの人生にとっても、嵐が訪れるときがあります。それは、自然災害や、さまざまな人災によるものや、いろいろの事情による場合があります。そのような場合、不安が心を支配して、夜も眠れなくなってしまったり、食事も喉を通らない日を過ごします。これから先、どうしたら立ちふさがる問題を乗り越えて行くことが出来るのか分からず、悩まれた経験をされた方々や、現在もそのような状況に置かれている人々も多いと思います。

パウロは、苦難の嵐と漂流の中にあっても、「わたしはあなたと共にいる」という主の約束を信じました。パウロの平安の根拠は、神の約束を信じたときに与えられる聖霊の働きによるものでした。パウロは確信をもって大丈夫だと友を励ますことができたのです。私たちにとっても重要なのは、どのような状況の中に置かれても、「思い煩うのはやめて、求めているものを神に打ち明け」(フィリピ4:6)、祈ることです。主が共にいてくださり、必ず道を開いてくださることを信じ、状況に左右されない不動の信仰に立つことです。

 

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