↑ 仙台勝山館(しょうざんかん)チャペル[教会式結婚式場]
インターネットで、「愛によって歩む、聖なる者」の画像を探すと、上の写真がありました。筆者が結婚式の司式をしているチャペルです。
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
聖霊降臨節第18主日 2017年10月1日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 4(世にあるかぎりの)
交読詩編 121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) エフェソの信徒への手紙5章1~5節(p.357)
説 教 「愛によって歩む、聖なる者とは」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 522(キリストにはかえられません)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 10月8日(日) 午後5時~5時50分
聖書 テサロニケの信徒への手紙二、3章6~13節
説教 「労働の意味」
讃美歌(21)155 411 24 交読詩編90篇
本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章1~5節
1あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 3あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。 4卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。 5すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
本日の説教
5章1~5節は、教会への倫理的勧告の一部です。
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」(1節)
パウロは、4章17節から続く最後の4章32節で、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と勧めた後で、5章1節で、「それで、だから」(新共同訳は省略している<オウン>という接続詞)と、一つの区切りを示し、結びとして「神に倣う者となりなさい」と勧めています。そして5章1節は、5章3節以下の導入句ともなっています。
イエスは弟子たちに、「敵を愛しなさい」と教えられたあと、「あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5・45)と言われ、神の子にならうように命じられました。同様にパウロもわたしたちが愛の中に生きる時、神に最も似る者となるという意味で、<神に倣う>ことを勧めています。「神に倣う」とは、パウロは「キリストに倣う」意味で用いています。
「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(2節)
求められている愛は、キリストの見られるような犠牲的な愛です。自己をささげ尽くして歩まれたキリストをモデルにした愛の生き方が、旧約聖書の表現を借りて勧められています(詩篇40・7、出エジプト記29・18等)。「香りのよい備え物」はキリストの父なる神への服従の歩みを指し、「いけにえ」はキリストの贖罪(罪のあがない)の死を指すととれます。「キリストの死に至る愛が」、わたしたちの「愛のうちに歩む」根拠であり、原動力です。「神に倣う」ことは、基本的にはキリストによって示された愛に歩くことです、と説明され、言い換えられています。キリストの死は、一度限りの、あがないの行為ですが、同時に、キリストに従いならう愛の道を示す出来事でもあります。キリストに従い歩む者も「神に対するキリストのかおり」(コリント二、2・15)となります。
「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」(3節)
非常に具体的に倫理的勧めを記しています。<みだらなこと(ポルネイア)>を新改訳や口語訳聖書では<不品行>と訳し、塚本訳や文語訳では<淫行>と訳しています。英語では<sexual immorality 性的不道徳>という言葉で訳しています。<みだらなこと(ポルネイア)>は、「ポルノ(ポルノグラフィの略称―性的興奮を起こさせる肉感的な行為を表現したもの)」と同じ、「ポルネ(売春婦)」という語から出ており、人の道からはずれた性的不品行を指すことばなのです。神の民は<みだらなことや…汚れや、貪欲などを>口にすることさえしてはならないと注意しています。
「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。」(4節)
みだらな<卑わいな言葉>と<愚かな話>も同様に禁じています。「みだらなこと、汚れ、貪欲(むさぼり)、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」(5・3、4節)は、ことごとく不純な性欲や肉の欲望から発するものです。パウロはそのような行為から遠ざかることはもちろん、口にさえしてはならないと戒めています。<下品な冗談>とは、みだらな駄じゃれのことです。そのような会話は、<聖なる者>にふさわしくないからです。「悪い言葉」(4・29)は悪を助長してしまうからです。そしてそんな事よりはむしろ感謝をささげなさいというのです。感謝こそキリスト者の生活の出発であるはずです。感謝は、キリストの恵みを見出すことであり、主の恵みを教える言葉が基調になる生活です。感謝の調べは、キリスト者の生活を貫いて鳴りひびいているべきなのです。
「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」(5節)
次にパウロは、なぜ不品行であってはいけないかを告げます。コロサイの信徒への手紙(3・5)には、「貪欲(むさぼり)は偶像礼拝にほかならない」とあります。パウロは、不品行な人とともに貪欲な者を、<偶像礼拝者>としています。
物を得ようとする欲望は悪いことではないが、神よりも大事に思い、神を除外して、物質的な目的や人間的な目標を優先させるときに「貪欲」となり、自他ともに傷つくのです。むさぼりは十戒に禁止された罪です。イエスは弟子たちにどんな貪欲にも注意するようにと言われました(ルカ12・15)。
それゆえに、性的不道徳、貪欲、偶像礼拝が併記されているのです。「彼らは腹を神とし(彼らの神は彼らの欲望であり)、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(フィリピ3・19)といわれるのです。貪欲とは広義に解すれば富の礼拝であり、狭義の性的意味では肉欲の礼拝です。旧約聖書には、「高慢は偶像礼拝に等しい」(サムエル上15・23)とあります。
貪欲の反対は、自分のように隣人を愛することであり、神が与えてくださるものを感謝して受けることであり、聖霊の賜物を熱心に求めることであり、上にあるものに求めることです(コロサイ3・1)。
不品行は者は、「キリストと神との国を受け継ぐことはできません」。この警告をうけているのはキリスト者であって、一般の人に語られているのではありません。教会が異教社会にあって、その倫理的流れに抗して、キリストの恵みにふさわしく歩むことへの励ましです。
パウロはエフェソの信徒に、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」(4・17)、「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」(4・22)なさい。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」て、「正しく、清い生活を送るように」と、強く勧めています。
神に愛されている子供とされたわたしたちは、キリストに倣って「愛によって歩む」ことと、「聖なる者」にふさわしく清い生活を送るようにしなけばならないのです。それを可能にしてくださるのは、人間の力ではなく、神の力です。神がわたしたちに聖霊を遣わして可能としてくださるのです。
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