富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「救い主の来臨の預言」エレミヤ書33章14~16節

2022-11-22 23:09:21 | キリスト教

   (待降節) 希望 来たれ、来たれ、インマヌエル。神、われらと共にいます。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

待降節第1主日  2022年11月27日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編      25(主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  エレミヤ書33章14~16節(旧p.1241)

説  教      「救い主の来臨の預言」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                    

讃美歌(21) 235(久しく待ちにし)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

  に、申し込み下さい。

         次週礼拝 12月4日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書  イザヤ書55章1~11節

         説教題  「旧約における神の言」 

         讃美歌(21) 232 173 27 交読詩編 19

本日の聖書 エレミヤ書33章14~16節

33:14見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。15その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。 16その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

本日の説教

イザヤが活動した後、73年後に再びエルサレムに偉大な預言者が現れました。それがエレミヤです。エレミヤが召命を受けたのは、ユダ王国の名君と言われたヨシヤ王治世の13年です。エレミヤが預言活動を開始したのは紀元前627年の時です。30年後に、第一回バビロン捕囚があり、さらに11年後の第二回バビロン捕囚の時代まで、40年の間、預言活動を続けました。

エレミヤは、召命を受けたとき若者でした(エレミヤ書1章)。エレミヤの出身地はベニヤミン族の相続地の中にあるレビの町アナトトです。アナトトはエルサレムの北東4.5キロにある小村です。祭司ヒルキヤの子として生まれました。

  

エレミヤ書1章4節以下は、エレミヤの召命の記事です。神の言葉は圧倒的な権威に満ちてエレミヤに臨みました。神はエレミヤを母の胎内に造る前から知り、母の胎から生まれ出る以前に聖別し、「諸国民の預言者として立てた」と告げました。この神の呼びかけに対し、エレミヤは、わたしは語る言葉を知らず、若者に過ぎませんと言って抵抗しました。しかし、神は、若者にすぎないと言ってはならない。だれのところへでも行って、命じることをすべて語れと言われ ました。人々を恐れず、エレミヤを使命に向かわせたのは、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」という神の励ましの言葉でした。神はエレミヤの口に直接手を触れてみ言葉を授け、預言者として任命しました。

エレミヤが預言者として活動したのは、ユダ王国が衰退し、王国の滅亡とバビロン捕囚という破局に向かっていた時代です。エレミヤは2章、3章で、彼の時代のユダ王国が、信仰的に偶像崇拝が平然と行われ、道徳的にも堕落していたかを述べています。弱いもの、貧しいものは、さげすまれ、搾取の対象となりました。そのような、公平と正義の軽視と、神への裏切りこそが、国を滅亡に至らしめる原因であると語ったのです。

主はエレミヤに、「エルサレムの通りを巡り、広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」(5:1)と言われました。しかし、エレミヤの周囲には、身分の低い人々にも、身分の高い人々にも、祭司にも、預言者にも、ひとりも正義を求め、真実を求める人を見ることはできませんでした。

エレミヤは、数十年にわたって警告者、勧告者として同胞の民に、神の裁きがまじかに迫っていることを語り、悔い改めの呼びかけをしなければなりませんでした。ユダ王国はエジプトの支配を受け、王と民は政治的な不安の中にありましたが、エルサレム神殿があるかぎり大丈夫だという思いがありました。エレミヤはエルサレム神殿で、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(エレミヤ記7:4)ときびしく非難し、形ばかりの礼拝を続けているユダ王国は滅亡する。真の悔い改めによる信仰を目指すため、神殿破壊こそ神のみ心であるとの預言を行いました。また、バビロニアのネブカドネザル王を神がユダ王国を懲らしめるために遣わした存在と主張し、エジプトと手を結ぶことを非難し、バビロニアへの降服を神の審判として謙虚に受け取り、出直すことを預言したのです。

エレミヤは最初、全力をあげてヨシヤ王の宗教改革(前626年)を支えました(エレミヤ書11章1-5節)。しかし、ヨシヤ王が戦死したことによって改革は挫折し、ヨヤキム王の時代には、ふたたび宗教が自由化され、偶像礼拝がはびこるようになりました。エレミヤによれば、人間が真実を貫くということはむずかしいのです。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる(17:9)。それは、人間性の弱さ、もろさのためです。その弱さもろさは、根本的にどこからくるのか。それは、結局人間は、自分本位にしか物事を考えられない、エゴイズムによるのです。人間の真実は、エレミヤにおいては、神の側における真実に支えられ、助けられて、はじめて真実であり得るのです。

 エレミヤは孤独と悲哀の生涯を送った「涙の預言者」と言われています。それは彼が味わった苦悩と悲嘆の深さを表す表現です。エレミヤは自分の誕生を呪うまでに苦しみ、二度とふたたび主の言葉を語るまいと決意するのですが、彼の心の中に、神の言葉が「燃える火」となって、彼は語らざるを得ませんでした(20章)。エレミヤの苦しみは預言者として語らなければならない苦しみだけではなく、エルサレムの滅亡と背信の民の滅びを悲しむ苦しみでもありました。

エレミヤは、エルサレムからバビロンへ連れて行かれた長老、祭司長、預言者たち、及び民のすべて(3023人)に、手紙を送り、励ましました。バビロンで七十年過ごしたら、神は恵みの約束を果たし、エルサレムに連れ戻すという預言をしました。実際は五十九年でこの神の約束が実現しました。エレミヤはイスラエルの滅亡と捕囚とを、彼らの罪に対する神の審きと受けとめ、その罪が赦され、イスラエルとユダの回復する日が来ることを預言しました(30章)。

31章では、エレミヤは希望と慰めとを語っています。それは神がイスラエルの家とユダの家との間に新しい契約を結ばれる日であるというのです。イスラエルが神の愛と真実のゆえに解放され新しい出発をする時、神は新しい契約を立てると言うのです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31:31~33)というのです。神が民と結ぶ契約ではなく、神が個人と結ぶ契約です。個人が自分自身の責任において神と出会い、「心に記された律法」に従って生きるという預言です。このエレミヤの「新しい契約」の預言は、イエス・キリストによって実現するのです。

33章は、エルサレムの復興の預言です。主は、獄舎に拘留されていたエレミヤにエルサレムの復興を告げたのです。「お前たちが、ここは廃虚で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである」(33:10-11)と告げたのです。

しかし、ダビデの末から再び王が立てられる日が来るとの回復の約束をエレミヤは聞きます。それが今日のテキストです。

「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」と主は言われます。その日、その時、主は「ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」(33:14-16)と言われます。

イザヤは、「エッサイの子(ダビデ)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」とメシアの誕生を預言しました(イザヤ書11:1-2)。メシアは「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」(同11:5)方です。主はイザヤに語って預言を、エレミヤにも告げたのです。

「彼(メシア)は公平と正義をもってこの国を治める。」と主はエレミヤを通して、メシアは公平と正義をもってこの国を治める、と言われました。「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」(エレミヤ33:16)

メシアは、王の理想を実行し、神の意志を行うので、その日には、ユダ王国は救われ、エルサレムは平安に人が住める都となる。そのメシアの名は、「主は我らの救い」と呼ばれるであろう、と主なる神は言われます。主イエスは「我らの救い」として生まれた救い主であり、神の子です。

エレミヤは、人々が彼に期待したことを告げませんでした。彼は人々から治安を乱す者、敗北主義者とみられ、迫害されました。ユダ王国の最後の王となるゼデキヤ王に、ユダ王国がバビロンによって滅亡することを預言したため、王によって逮捕され、バビロンによってエルサレムが陥落する日まで、監視の庭に拘留されました(37-38章)。

ユダ王国の王ゼデキヤは、現実から目をそむけ、エジプトを頼ったため、エルサレムは陥落し、ゼデキヤは両眼をつぶされ、バビロンに連れて行かれ、ダビデ王家は断絶します(39:1-7)。エレミヤは、バビロン軍によって厚遇され、釈放されます。最後に、エレミヤはエジプトに連行されその地でも預言活動を行ったとされているが、最後については記されていません。

今日は御子キリストを待ち望む待降節の最初の主日です。「正義と公平をもって」、世を支配し、人々を罪より救われる主の御降誕の日を迎えることに感謝し、主の再臨を待ち望みたいと思います。

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