富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の来臨の希望」 イザヤ書2章1~5節

2016-11-27 00:25:41 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本キリスト教 富 谷 教 会

             週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を現す人になろう。』

聖句「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 待降節(アドベント)第一主日  2016年11月27日(日) 午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 268(朝日は昇りて)

交読詩編   24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)イザヤ書2章1~5節(旧 p.1063)

説  教   「主の来臨の希望」   辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 240(「イエスは近い」と)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

           次週礼拝 12月4日(日) 午後5時~5時50分

           聖書   イザヤ書59章12~20節

           説教 「旧約における神の言(ことば)」辺見宗邦牧師

           讃美歌(21)175 229 24 交読詩編96篇

   

   本日の聖書 イザヤ書2章1~5節

1アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

2終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、

3多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。

4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

5ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

     本日の説教

 イザヤ書について、1章1節で次のように説明しています。

「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」

アモツの子と言われているイザヤは、エルサレムの貴族階級に属する祭司であったと思われています。イザヤ(第一イザヤとも呼ばれています。)は、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。1章から39章までが、イザヤの予言です。

 イザヤが預言者として神から召命を受けたのは、ウジヤ王の死んだ年のことです(6章1節)。紀元前739年のこの年、アッシリア帝国の侵攻があり、ユダ王国に重大な危機が迫りつつある時代でした。召命とは神に呼び出されて使命を与えられることを言います。

 イザヤが預言者として召されたのは、ユダ王国の滅亡に至るという神の審判を告知することにありました(6章9~11)。

イザヤの預言活動は、ウジヤ王の死んだ年から、ヨタム王(治世6年)、アハズ王(治世7年)、ヒゼキヤ王(治世29年)の晩年まで、約40年続きました。ヒゼキヤ王の時代に、北のイスラエル王国の首都サマリアがアッシリ帝国によって陥落し、イスラエル王国は滅亡(前721年)しました。

【イスラエル王国とユダ王国の歴代諸王の治世年については、記事一覧の2014-10-18年のイスラエル王国とユダ王国の歴代諸王を参照ください。】

 イザヤはエルサレムとその住民、そして特にエルサレムとユダ王国の政治に責任を負う王と支配階級に対して、悔い改めるべきこと、神の意志を行うべきこと、そして何よりも神の約束に対して確固たる信頼を寄せることを求めました。

イザヤの場合、エルサレムとユダの人々の不信仰のゆえに、彼らは徹底的に神の裁きを受けなければならないが、しかしそれにもかかわらず、神のエルサレムとその王に対する約束は変わらないという信仰が一貫として堅持されていることです。

 イザヤ書1章2節以下のユダの荒廃に関する預言は、紀元前701年にユダとエルサレムが、アッシリアのセンナケリブ王に攻撃され、ユダの町々は占領され、エルサレムは大軍で囲まれた時のことです。

 神は子であるイスラエルを育てたが、イスラエルは背いたと非難します。そして、牛やろばですら、飼い主に忠実であるのに、イスラエルは自分を育てた神の恩恵をわきまえないと言い、エルサレムの民の不信仰に対し、絶望的な怒りを抱きながらも、「あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教えに耳を傾けよ」(1章10節)と呼びかけたのです。神が求めたのは、悪をやめ、善を行い、搾取する者をこらしめて、孤児や寡婦の権利を守ることでした。しかし彼らは神の教えに聞こうとはしませんでした。

 今日の聖書の箇所に入ります。

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。」(2章1節)

2章1節は、2章から12章までの予言集についての説明です。2章2節から5節にかけての預言は、ついにヒゼキヤ王の時代に、エルサレムはアッシリアの攻撃を受け、ヒゼキヤは降伏した後の預言です。当時エルサレムの状態はイザヤ書1章4節~9節に記されているような状態でした。

「災いだ、罪を犯す国、咎の重い民、悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。何故、お前たちは背きを重ね、なおも打たれようとするのか。頭は病み、心臓は衰えているのに。頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷はぬぐわれず、包まれず、油で和らげてもらえない。お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している。そして、娘シオンが残った、包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の見張り小屋のように。もし、万軍の主がわたしたちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう。

 奇跡的にヒゼキヤとエルサレムの支配者たちは捕囚を免れ、かろうじて名ばかりの独立を維持することができました。エルサレムはかろうじて生き延びたが、支配者たちのモラルは絶望的な状態でした。しかしイザヤの抱いたエルサレムに対する神の約束は変わりませんでした。アッシリアはエルサレムからあらゆる金銀を奪っていったが、神の約束は変わりません。そして終わりの日は次のことが起こります。終末の平和の預言です。この預言はイザヤの最後期の預言です。

 「おわりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」(2章2~3節)

 「終わりの日に」という語は、預言における終末的未来です。終末的未来とは、必ずしも歴史の流れの遥かかなたではなく、「切迫している未来」です。イエス様がこの世に来られたことによって、神の国、平和の王国、終末が始まっています。「主の神殿の山・シオンの山が他の山々の上に立つ」(2節)と記されています。シオンとは、エルサレムの東側に突き出ている山のことです。後にシオンはエルサレムと同義語として使われるようになりました。そのシオンが、神の栄光と恵みの故に、周りの山々(人々)に抜きん出て輝くというのです。

 諸国の民が、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(イザヤ書2:3)と言ってやって来るのは、そこで主の道が示されるからです。諸国の民がシオンのやってくるのは、主が世界の主であることを認めているからです。主は、世界の王、支配者、主権者として、その教えを示されるお方です。シオンには、主の教え、啓示された主の言葉が満ち、「国々はこぞって大河のように」やってきましたが、「御言葉はエルサレムから」、「大河のように流れ」、その恵みは、あふれ出ます。

 アッシリア帝国が強力な軍事力によって当時の世界の全面的支配を確立したとき、イザヤはアッシリアの従属国となったユダ王国の都エルサレムこそが世界の中心として高くそびえ、そこから語られる、主の教えと言葉を求めて、世界中の諸国、諸民族が巡礼の旅をして流れのように集まってくるというのです。どのようにして主は、そこに集う者に喜びを与えるというのでしょう。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(2章4節)

 神が争いの根が断ち切られる、というのがこのメッセージです。従って、戦いのための武器は必要がなくなるのです。これが主の与える喜び、慰めです。主の裁き、戒めは、争いに用いる武器である剣を打ち直して鋤として、「国は国に向かって剣を上げない」平和な時代をもたらせられるというのです。このイザヤ書2章4節は、ニューヨークの国連本部の正面入り口から入った目の前の大きな壁に英文で刻まれています。

 アッシリアに蹂躙され、平和の尊さが身にしみてわかる人に向けられた慰め、励ましがここに語られています。シオンから、エルサレムから語られる御言葉に聞く者が、「もはや戦うことを学ばない」者となることによって実現する平和です。

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(2章5節)

 主に一度捨てられた民に向かって、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」と預言者は呼びかけています。「主の光に歩む」とは、神のみことばに従って生きるということです。イスラエルは神のみことばを聞くよりも、世の中のことを優先し、異邦人のように、人が造った物を拝んでいました。その罪を悔い改めて、主の道に歩もうではないか、と言うのです。

 主の教えが語られるヤコブの家とは、御言葉が語られ、御言葉が聞かれる礼拝が守られる場所です。主を礼拝し、主の御言葉を聞く生活、これこそ「主の光の中を歩む」生活です。そうするなら、わたしたちは終末に生きる民として、その使命を果たすことができるのです。今日から、待降節アドベントが始まります。平和の君、イエス様を心からお迎えいたしましょう。

 

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