富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「王として統治されるキリスト」 ミカ書2章12~13節

2016-11-20 12:20:22 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を現す人になろう。』

聖句「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 降誕前第7主日  2016年11月20日(日) 午後5時~5時50分

         礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 235(久しく待ちにし)

交読詩編   47(すべての民よ、手を打ち鳴らせ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)ミカ書2章12~13節(旧p.1450)

説  教    「王として統治されるキリスト」     辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 358(小羊をばほめたたえよ)

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

            次週礼拝 11月27日(日) 午後5時~5時50分

            聖書   イザヤ書2章1~5節

            説教   「主の来臨の希望」

            讃美歌(21)268 240 24 交読詩編24篇1~10節

新来会者の紹介  ラオス共和国のグェン ティ ゴック姉妹が、先の礼拝に来られたハイさん、ヒィェンさんと礼拝に来られました。 

  本日の聖書 ミカ書2章12~13節

 12ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集めイスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。13打ち破る者が、彼らに先立って上ると他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み主がその先頭に立たれる。

    本日の説教

 ミカ書は、旧約聖書の最後の方にあるホセア書から始まる12小預言書のうちの6番目の書です。最後の書・マラキ書の方から数えると7番目に当たります。ミカ書は7章からなる短い預言書です。「ミカ」は女性の名ではなく、男性の名です。ミカヤまたはミカヤフ(だれが主のようであり得ようの意)の短縮形です。

  ミカ書の1章1節は、次のような「ミカ」ついての説明で始まります。

  「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである。」(1章1節)

 ミカが預言者として活動した時代は、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していた時代です。南のユダ王国の11代ヨタムから13代のヒゼキヤ王の治世中に、彼は預言活動をしました。

 ミカは、預言者イザヤや、北イスラエル王国出身で、ユダ王国で活動した預言者ホセアとほぼ同時代の人です。ミカの出身地はエルサレムの南西約35キロにある<モレシェト>です。

 ミカの時代、ユダ王国もイスラエル王国もアッシリヤ帝国の侵略により脅威にさらされ、滅亡の危機に直面していました。当時、両国とも社会は腐敗し、不正が満ち、貧富の格差が増大していました。その堕落と退廃はカナンの異教宗教の偶像礼拝の罪に陥ったためであり、社会からは公正さが失われ、人々は物欲に支配されていました。

 ミカは、イスラエルの民であるユダの人々が神との特別な契約の民であることを思い起こさせ、サマリアが偶像礼拝の罪のゆえに神の裁きによって滅びること、またエルサレムも不正義のゆえに神の審判を逃れられないことを予言しました。ついに主都サマリアが陥落し、紀元前721年に北のイスラエル王国は滅亡しました。南のユダ王国は、アッシリヤの属国となり、かろうじて存続しました。

 ミカの活動は、サマリアの陥落の前の紀元前735年頃から、25年間と予想されます。ミカ書の最終的な編集は、ミカ自身から数世代を経た捕囚期ないしそれ以後と考えられています。

 ミカ書の構造は四つに区分することができます。①1~3章はサマリアとエルサレムに対する裁きの預言、②4~5章は救いの約束、③6~7章7節は再び裁きの預言、④7章8節~20節は救いの約束の預言です。ミカ書では、来るべき破滅の日の預言とその後の希望の日の預言が交互に並べられています。

  1章2節~7節は、サマリアとエルサレムの罪に対する審判が告げられます。

 主はまず、諸国の民に耳を傾けるように命じます。世界の支配者である主は、全世界の民を裁く審判者(証人)として地上に降りてこられます。5節は、神の恐るべき出現と裁きが「ヤコブの罪」として、すなわち北イスラエル王国に向けられ、宣言されます。北王国の主都であるサマリアをその偶像崇拝のゆえに撃ち、そこを廃墟とすると宣言します。

  南ユダ王国の罪についても指摘されます「ユダの聖なる高台とは何か。エルサレムではないか。」「聖なる高台」とは、ユダ王国の首都エルサレムにある異教の神々を礼拝する高台です。ユダ王国の民も主なる神との契約を破って罪に堕ちていることを指摘され、責められています。

  主の裁きは北イスラエル王国にとどまりません。南ユダ王国とその都エルサレムも、罪のゆえに同罪です。サマリヤの滅亡は神にとって深い痛みあり、悲しみでしたサマリアを襲った破壊は、ユダをも巻き込みエルサレムにまで達しようとしたのです。

  「このため、わたしは悲しみの声をあげ、泣き叫び、裸、はだしで歩き回り、山犬のように悲しみの声をあげ、駝鳥のように嘆く。まことに、痛手はいやし難くユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。」(1章8、9節)

  悲しんでいるのは神です。ミカも神と共に悲しみます。神がイスラエルの民を深く愛しておられるからこその嘆き、悲しみです。神の厳しい裁きの背後には、民を愛してやまない神の深い嘆きがあるのです。神の裁きの預言は、ユダの民が神に立ち返ることを求めているのです。

 10節からは、神の裁きを受けるユダの町々の名が語られます。これらの町が、今のどの町々に相当するのかわかりませんが、おおよそミカの町であるモレシェトから半径14キロの円を描く形で点在している町々と予想されます。

 2章1節~5節は、支配階級の間に行われている不正を指摘し、審判を宣言します。特に、富裕な支配者階級が貧しい者たちを圧迫していることを、ミカは糾弾しています。

 ユダ王国に悪がはびこり、貪欲が国を支配しています(1、2節)。それを神が裁かれます(3節)。彼らが不正に手に入れた土地、畑は取り上げられて他者のものになり、嘆きの歌を歌う羽目になります(4節)。

 2章6節~11節は、ミカが厳粛な神の裁きを語るのに対して、ユダ王国のミカに逆らう者たちは神の憐れみを強調し、神が常にイスラエルの味方であるから滅亡には至らないとの楽観的な選民思想に基づく主張をします。

 ミカの預言を、権力者、裕福な者たちは「たわごと」と決めつけ、「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言って、真剣に耳を傾けようとはしません(6、7節)。

 預言者の言葉を「たわごと」というのは、神に向かってたわごとを語っていると言うことになります。だから、彼らはその報いを受けなければなりません。

 ミカを通して神は言われます。お前たちの略奪行為にひとしい不当な搾取によって、女や幼児たちが生活基盤を奪われている。お前たちは、わが民に対して敵となっている。神は彼らに、「立って、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」(10節) と言われました。神の都と言われ、神殿のおかれたエルサレムが安住の地ではなくなり、汚れのゆえに滅びるというのです。

  2章11節は、さらに敵に対するミカの反論です。ミカは痛烈な風刺をこめて言います。彼らは裁きを語らずに、もっぱら恵みのみを語ります。そのような預言者が人々から歓迎され、その者は、この民にとっての説教者・預言者とされます。しかしそれでは真理は語られません。

  今日の聖書の箇所、2章12~13節は、主なる神が語る力強い復興の預言です。「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。」(12節)

  イスラエルの民は神の裁きによって大国に踏みにじられて滅ぼされます。民は民族国家としての存在を失い、捕囚の民となり、諸国民の中に散在します。「残りの民」とは、神の憐れみによってかろうじて残される少数者を指します。主の憐れみによって裁きを越えて、そのかなたに救いの希望がが与えられている者たちです。民の残りの者を集めるという救いのイメージは、民が散らされている捕囚以後の時代の状況を反映しています。ですから、「ヤコブよ」と呼びかける神の声は、ユダヤの民に対する語りかけです。

 神は羊飼いが羊を集めるようにイスラエルを囲いに集める、と語ります。「彼らは人々と共にざわめく」とは、おそらく人々の数が増し加わることを意味するようです。エレミヤ書31章10節にも、「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」と記されています。イスラエルを治める者の統治のさまを、羊飼いが群れを牧するイメージで描いています。神は、「わたしはお前たちをすべて集め」、「わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする」と言われています。

 ち破る者が、彼らに先立って上ると他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進、主がその先頭に立たれる。」(13節)

 捕らわれている者たちが、閉じ込められている場所から解放されることが預言されています。その解放は彼らの王が彼らに先立っ進み、主なる神がその先頭に立って城門を打ち破り、民を外に導く、と語っています。第二イザヤが語るバビロンからの解放、エルサレムへの帰還のイメージに重なります(イザヤ48:20、52:11)。

 イスラエルの残りの者たちを閉じ込めている城門を打ち破るのは主なる神であり、主なる神が王となって彼らの先頭に立たれるのです。ミカ書3章では、イスラエルの指導者たちの罪が告発されます。国政をつかさどる指導者である王や祭司や預言者たちが職務を果たしていない責任を問い、非難しています。このような指導者たちの職務は終わりの日には廃止され、かわって主なる神が直接統治する時が来るのです。人ではなく、実に神が立てた王、キリストによって、完全な解放が実現し、平和が与えられるのです。それは政治的解放にととまらず、罪と死の支配からも解放し、自由を与え、神の国の住民としてくださるのです。

 「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(4章3節)

  人間同志の武力で決着をつける必要がなくなり、武器は廃棄されて平和な道具につくかえられます。ニューヨークの国連本部のロビーの高い壁に刻まれている平和への願いの英文の文字になっています。イザヤ書2章4節のことばとして刻まれています。

  ミカ書5章1節では、ベツレヘムからメシアである、イエス・キリストが生れるという預言がなされています。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」  次の主日から、主の御降誕を祝う準備の期間のアドベント(待降節)に入ります。

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