富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「霊に従う生活」 ローマの信徒への手紙7章1節~6節

2016-08-14 16:24:26 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380                  FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第14主日   2016年8月14日(日)    午後5時~5時50分

  礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙7章1節~6節(新p282)

説  教   「霊に従う生活」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                                   次週礼拝 8月21日(日) 午後5時~5時50分

                                                     聖書  エフェソの信徒への手紙5章11~20節

                                                     説教   「新しい人間」

                                                     讃美歌(21)220 461 24 交読詩編 96篇

本日の聖書 ローマの信徒への手紙7章1節~6節

1それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

本日の説教

   パウロは6章で、罪の支配の問題と罪からの開放と自由について語りました。更に7章では、律法から解放されるときに救いがあることを語ります。

   今日の聖書の箇所は、信仰によって義とされた者が律法とその働きの下にはなく、聖霊の支配の下にあることを結婚関係の譬えを通して語っています。

  <律法を知っている人々>は通常ユダヤ人を指すが、この手紙の最初の読者の多くがユダヤ人でなかったことを考え合わせると、この<律法>は、ユダヤ教の律法に限定されず、より広く「法律で定められている秩序を指す」と考えられます。当時の婚姻法によれば、妻は夫の生存中はこれにしばられているので、他の男性と関係を持てば姦淫罪となるが、夫が死ねばそういう束縛から解放されるというわけです。

   律法そのものは聖であるので、律法そのものが、罪ではありません。律法は人間を不自由にするために、人間を規則にがんじがらめにする目的ではなく、突き詰めれば、神の愛のあらわれです。逆に不自由さや、規則からの解放を願っているのです。律法が罪を引き起こすのは、私たちの律法に対するかかわり方であり、それが「律法主義」だからです。「律法主義」は、法律、戒律さえ守っていれば良いとし、神から罰を受ける事はないとし、見せ掛けだけの行いに終始する生き方です。問題なのは、そのような律法主義的な私たちの生き方でです。私を死へ導く「律法主義」、そして、その様な生き方を引き起こす「律法そのもの」の死について、どうしても語らければならないのです。そのために、パウロはここでは「律法の死」を夫の死になぞらえて語ったのです。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」のです(10・4)。

 律法主義に対する私たち日本人の問題は、完全無欠な行為が出来ないことは分かっているが、より完全な人間になろうとする努力を、神は望んでおられるのではないかと考える人が多いことです。そうした努力さえしない人間を神が救ってくださるはずがない、と考えるのです。自分のつつましい努力を、救いの権利の資格として捉えることになり、結局は自分の行為によって義を得ようとする、神の前に自分を誇ろうとする罪がそこに潜むことになるのです。行いの実行に頼る人は、だれも神の前で義とされないことは明らかです。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記27・26)と書いてあるからです。なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラテヤ3・11)。私たちが救われるのは、不信心な者を義としてくださる神を信じて救われるのです。ただ、一方的な神の恵みを信じて救われるのです。

   7章4節からは、視点を変えて、律法の死ではなく、律法的な生き方をしていた「私」の死について語ります。信仰者は<キリストの体>を通して起こったこと、つまり十字架において起こり、洗礼において実現する「からだの死」を通して律法に死んだのだから、もはや律法にはしばられない、という主張です。私たちは律法に対して死んでいるから、律法は私に何の権利もない、ということです。律法に対して死んだ私たちは、死者の中から復活した主イエスのものとなり、神に対して実を結ぶようにされたのです。

   5節に「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」とあります。この<肉に従って生きている間>というのを、ほとんど人は直感的に肉体的欲望とか肉欲とかというふうに解釈してしまいます。パウロが「肉にある」というとき、それは「古き世にある」ということと同じで、律法の支配の下にあることを言い、律法によって生きようとする所、そこに罪が猛威を振うのだということを語っているのです。<罪へ誘う欲情>とは、私たちの自尊心をくすぐる様にして、駆り立てる空しい自分の義の追及のことです。問題は神に対して心を開かないで、いつも自分を中心にして、自分の求める義を求め、自分の義を立ててしまう生き方です。それは死のために実を結ばせることでしかないのです。

「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

  6節は、この肉の生に対比される形で霊の生が語られます。本来律法は神の律法です。その律法を通して、その文字を通して、神の語りかける声を聞かなくてはならないはずです。「殺すな」という文字を通して、「兄弟に対して怒ってはならない」と言う、神の声を聞かなくてはならないはずなのです。しかし、自分の義を求める人間は、そうした他者の声を聞かず、律法を表面的な文字に限定し、固定化してしまい、生ける神に仕えることはしないのです。

   従って、律法から解放されるのは、<律法の文字に従う古い生き方>から解放されることなのです。聖霊に従って生きる時、「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて」(コリント二、4・16)いきます。霊によって生きる場合には、もはや今までの自分とらわれず、絶えず自分を捨てていくことができます。自分を捨てていくことが容易になる時、私たちは新しい生き方で神に仕えるようになるのです。このように、キリストの十字架によって私たちが律法から解放される所に、真の生命と力が働くのです。キリストが支配する生の結果として出てくるものを<霊の実>として、ガラテヤ書5章19節以下に肉と霊を対照させています。

 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

 

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