富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「新しい人間」 エフェソの信徒への手紙5章11~20節

2016-08-20 21:11:26 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

   週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第15主日   2016年8月21日(日)   午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 220(日かげしずかに)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 エフェソの信徒への手紙5章11~20節(新p.358)

説  教   「新しい人間」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                    次週礼拝 8月28日(日) 午後5時~5時50分

                    聖書  ヨハネ第一の手紙5章10~21節

                    説教   「神に属する者」

                    讃美歌(21)214 521 24 交読詩編 65篇

   本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章11~20節

11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

   本日の説教

 この手紙は紀元80年代に編纂されました。著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

    内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神のキリストを中心とする偉大なる救いの御計画(1・3~14)と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会(1・23等)の意義が示されています。救いがただ恩寵のみによること(2・5等)、「この世で希望もなく神もなかった」(2・12)救われる前の<古い人>と、救われた後の<新しい人>との対比、人間の敵意という「隔ての中垣」(2・14)がただキリストの十字架のみによって取り除かれるということ等が説かれています。

 これらの基本的事実の確認を土台として、それに対する一般的なキリスト教の倫理が展開されています。4章以下がその実践的な教えです。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。

 ① 初めに4章17~24節で、バプテスマとの関連で、キリスト者の倫理生活の基礎づけを行っています。パウロは、「以前のような生き方、滅びに向かっていた古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」と4章22,23節で勧めました。それは、<古き人>を脱ぎ捨てて「新しい人を着るべきである」の一言に要約されます。

 ② 4章25~32節では、その基礎づけを聖霊の面から行っています。「御霊に導かれた生活」について語ります。

 ③ そして次に,5章1~14節では、それを父なる神に愛されている者、すなわち神の子らの生活として、規定しています。

 ④  5章15~21節は、各論に入る前に、総論的に、キリスト者の生活を「互いに仕え合う」生活として簡潔に要約しています。その次に各論に入ります。

 ⑤  夫と妻(5・22~31)

 ⑥  親と子(6・1~4)

 ⑦  奴隷と主人(6・5~9)

 ⑧  信仰の戦いとその栄光に満ちた勝利について述べ、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励まし(6・10~20)、全体を結んでいます。

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   今日の聖書の箇所は、5章6節の光の子として生きるようにとの勧めに続いています。

  実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。(5・11、12)

  <やみのわざに加わる>とは仲間にならないことを意味します。そのために必要なことは、や  みのわざを指摘し、それを明るみにだすことです。キリスト者の存在はキリストにあって光であり、やみの世界に影響力をもつ者となっているのです。神のことばは人間と世界の醜い状態を暴露し、いっさいをさらけ出すことの中で悔い改めに人を導きます。

  14節の眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

 これは罪と死との異教の眠りからさめるように、との呼びかけであり、キリストが彼の真実の救いの光を、回心者の上に照らすであろうという約束を伴っています。キリストの光が死と暗黒の中にいるものを新しいいのちの中によみがえらせるのです。

  5章15~21節は、リスト者の生活についての勧めです。 

  愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。(5・15)

 賢さとは神から与えられた知恵をもって生きることです。彼は正しく判断する能力をもち状況を観察し、決して自己の主観的感情に溺れません。彼はすでに「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意」を捨て、新しい人を着たのです。ヤコブ(ヤコブの手紙3・13~17)も「上からの知恵」と「地上の知恵」とを分けています。上からの知恵は、<柔和、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません>。地上の知恵は、<ねたみや利己心、自慢や混乱、あらゆる悪い行い>です。

  時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(5・16)

  <時をよく用いる>とは、キリスト者は自分の<おわり>と向きあいつつ、残されたあらゆる機会を生かして用い、主の御心を実践することです。

  無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(5・17)

 <分別のある者>とは、主のみ旨を悟っている者のことです。主の支配に完全に復するときに、主のみ旨は与えられます。私たちはキリストに服従しそこに生まれる信仰により自分を治めるのです。

   酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。(5・18)

 キリストへの服従は生活に歓喜をもたらし、判断と決断をより賢明にさせます。それは酒に酔う以上のすぐれた喜びを与えます。パウロは飲酒を禁ずるために酒に酔うなと言ったのではありません。御霊による喜びと陶酔を排除し、喜びの提供を手近なところに求める心根のいやしさを戒めたのです。 

  むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(5・19)

 「霊に満たされる」とは、私たちの霊と体が、全く御霊の支配のもとに置かれ、しかも常にそのような状態にあることです。教会で<詩編と賛歌と霊的な歌>があふれるだけでなく、日々昼も夜も、主に向かって心から歌い、賛美する生活を送ることが大切です。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。」(詩編147・1)とあります。<語り合い>とは、共同の告白のもとに生きる教会の姿です。

  そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(5・20)

 このような生活には、父なる神に対する感謝が絶えることはありません。神が私たちに与えてくださるすべてのことについて、神に感謝しなければなりません。私たちは神に願い事の祈りを捧げることが多いのではないでしょうか。しかし、それ以上に常に神を第一に考え、神に感謝し、神を賛美することが大切ではないでしょうか。

  「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5・17)」

  滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人間」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように福音を伝えていこうではありませんか。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることにあると思わせられます。

 

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