富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「イエスの荒れ野の誘惑」

2015-02-22 21:37:04 | 聖書

            ↑ イエスの洗礼の場所と誘惑の山

 〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

            日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 受難節第1主日     2015年2月22日(日)    5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  284(荒れ野の中で)

交読詩編      31(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書4章1~13節       

説 教    「イエスの荒れ野の誘惑」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 218(日暮れてやみはせまり)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                  次週礼拝 3月1日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                  聖 書  ルカによる福音書11章14~26節

                  説 教    「悪と戦うキリスト」

本日の聖書 ルカによる福音書4章1~13節

1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』書いてある。」

9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』

 11また、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

     本日の説教 

   先週の水曜日、2月18日の日から、4月5日のイースター(復活日)の前日までの、6回の日曜日を除く、40日間の受難節(四旬節とも言う)に入りました。日曜日を除くのは、日曜日はイエスの復活を記念する日だからです。受難節(レント)は「イエス・キリストが苦難を受けたことを思い起して礼拝を守る期節」です。40日という期間は、イエスが40日間、昼も夜も荒れ野で過ごされ、誘惑と戦ったことが大きな背景となっています。受難節の間は、自らをかえりみ、悔い改めと断食と祈りの時としてこれを守り、イースターに備えることが教会のならわしとなっています。

  イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されていますが、本日はルカの福音書から神のみことばを与えられたいと思います。

  「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(ルカ4・1,2)

  主イエスはヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満ちて荒れ野に導かれました。四十日間、霊によって荒れ野の中を引き回され、悪魔から誘惑を受けられました。イエスは洗礼のあと、聖霊を受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれたのです。なぜ伝道の始める前に悪魔の誘惑にあわれたのでしょう。人間を救うためには、人間に罪を犯すように誘った悪魔の誘惑に勝たねばならなったためと思われます。人類を救うための祝福の源となるように神によって選ばれたイスラエルも、神との契約である、神のみを礼拝し、神のみに仕えることに失敗しました。イエスはイスラエルが荒れ野で失敗した三つの試みに、先ず勝たなければならなかったのです。

  このように、イエスの誘惑は、旧約聖書の先例との関連があります。その先例とは、モーセが山で食糧もなく四十日間放浪したこと(出エジプト記34・28、申命記9・9)、エリヤが神の山へと四十日間逃れたこと(列王記上19・4-8)、そして特に、イスラエルが荒れ野で四十年間の旅を続けたこと(申命記8・2-6)です。荒れ野でのイスラエルの試練、それも申命記八章で述べられているようなものが、ルカ4章1-13節の直接の背景となっていることは明らかです。

  誘惑の個所では、申命記の言葉がイエスによって三回引用されています(申命記8・3、6・13、6・16)。そして一般的な背景となっているのは、エデンの園(創世記3・1~7)です。三つのイエスが受けた試みは、イスラエルが直面した試みを反映しています。神に「子」と呼びかけられたイスラエルが(ホセア書11・1、申命記8・5を見よ)、それぞれの試みにおいて失敗してしまったのに対して、イエスは、父なる神との確固とした信頼感をもって試みに応答することで、自らが神の子として救い主となることを示されました。

  「そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。」(ルカ4・3,4)

悪魔の第一の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるうに命じたらどうだ」という誘いでした。空腹を覚えているイエスに、目の前の一つの石をパンに変えて食べたらよいではないか、というさそいです。旧約聖書の先行記事は、荒野でのイスラエルの民の空腹です(出エジプト記16・1-4)。この試みの意義は、申命記8・2-3に次のように記述されています。「この四十年間あなたの神、主が導かれた荒れ野の旅のすべてを思い起しなさい。それは主があなたを卑しめて試し、御自分の戒めを守ることがあなたの心にあるかどうかを知るためであった。主はあなたを飢えで苦しめ、それからマナを食べさせられた。……それは人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに教えるためであった」と。マナを民に与えておられる神のみわざののなかで語られた言葉です。しかし、神の子たるイスラエルは、すべてを与えたもう神を信頼せず、出エジプト記16・3にあるように、つぶやいて、不信仰を表わしました。

 それと対照的に、イエスは天からのパンを信頼をもって待ち続けたのです。聖霊の力を活用し、奇蹟によって石をパンに変えて、自らに提供することは神への不信でした。神の子イエスは申命記8・3の、人はパンだけで生きるものではないというみ言葉によって、この試みを拒否したのです。人間は、パンを消費するために命を所有しているのではない、彼らが生きるのは、それが神の意志だからです。こうしてイエスは、自らが完全に神に依存していることを示したのです。この誘惑への勝利は、神意に無関係な奇蹟の力を発揮することを拒否したこによります。イエスは神の心にかなう愛する子(ルカ3・22)として、どこまでも神に従順でした。神の祝福なしには、パンもパンによって支えられる生命も空しいということです。

  誘惑の山

  「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカ4・5~8)

  ここにはイエスの内面的な霊的戦いが描かれています。悪魔はイエスを高く引き上げ、マタイには非常に高い山に連れて行きとあります。一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。当時のローマ帝国の世界と思われます。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」というルカ10・22に類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものです。わたしたちが人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、「天において」、すなわち神との関わりにおいて、または霊の次元において、価値あるものでなければならないというのです。何よりもまず、神の国と神の義を求めることが大切です。ひたすら自分の能力を隣人に仕えるために用いることで「宝を天に積む」ならば、心はいのちの源である神に結びつけられて、地上の変遷を超えて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと希望に生きるようになります。

  この第二の誘惑は神の子の権威を悪魔がわがものにして自分への礼拝を要求しています。第二の誘惑には詩編2・8の神の子への権威の約束が暗示されています。<求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする>と。悪魔はここで自らを神として、神の子イエスへ礼拝を要求したのです。悪魔は、「私を拝んで」、この地上のすべての栄耀栄華を手に入れて、思うようにやったらいいではないか、という誘いです。悪魔に、全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。しかし、悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとするのです。ここに人をだます悪魔の真の姿があります。悪魔にとっては、人間に神を拝まないようにすることが、その最大の目的です。その時、主は、何をなさったでしょうか。主は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(申命記6・13)と言って、悪魔を退けました。この言葉は、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」とあります。

  「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。《神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。》また、《あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。》』イエスは、『《あなたの神である主を試してはならない》と言われている』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4・9~12)

  そこで悪魔は<イエスをエルサエムへ連れて行き>、神殿の屋根の端から飛び降りてみなさい、と誘ったのです。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する、その場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、とそう信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。そして悪魔はイエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。悪魔は詩編91・11~12の引用によって試みます。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」。この詩編は神への全き信頼を示す祈りです。悪魔はイエスに、神への信頼心をおのれの利益のために悪用させようとしたのです。イエスはこの奇蹟を要求する偽りの信頼への誘いに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけたのです。イエスが言われた言葉は、「あなたがたがマサでしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とある申命記6・16の言葉を引用したのです。これは旧約聖書の出エジプト記17・1-7に語られている出来事を背景にしています。イスラエルの民の飲み水がなかったときの出来事です。「彼(モーセ)は、その場所をマサおよびメリバと名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(出エジプト記17・7)とあります。イエスはイスラエルが犯したあやまちを犯すようなことはありませんでした。神を試みる時、もっとも単純なことは、必要もないことをしてみて、神の誠実さを試そうとすることです。神殿の屋根から身を投げるということは、まったく不必要なことです。イエスにとっては、自分がメシアであると確信することが、必要でした。その確証を与えられたいということが、いつも最大の誘惑でした。悪魔の誘惑は、それをついたのでした。イエスが悪魔の誘いを拒否したのは、神の権能への信頼に欠けていたかではありません。神を信頼することとは、神の意志に従うことであり、神を試みることを含むあらゆる種類の人間的な手立てを用いないということです。この神の子は後に、実際に十字架の死のあと、黄泉の深淵へと(跳躍して)下ることになるのですが、彼がそうするのは、そのことがまさに神の意志であることを確信しておられたからこそなのです。

 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4・13)

 悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。<時が来るまで離れた>とは、次にイエスが悪霊と対立する時までと意味です。主イエスはこの後も悪魔と戦うことになります。そして受難を迎えます(22・3)。

 主イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、人間となってこの世を歩んで下さり、そして悪魔のこの誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくのです。そのことによって、私たちも神の子とされます。

  「この大祭司(主イエス)は、わたしたちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただきために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4・15,16)

 

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