富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

『種を蒔く人のたとえ』 のメッセージは?

2015-02-08 01:28:40 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403   日本キリスト教 富谷教会 週報

   降誕節第7主日  2015年2月8日(日)     5時~5時50分 

    礼   拝    

前 奏              奏楽      辺見トモ子姉

 讃美歌(21)  202(よろこびと栄にみつ)

交読詩編     126(主がシオンの捕らわれ人を)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書8章1~15節       

説 教   「種を蒔く人のたとえ」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

聖餐式(21)  78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

                    次週礼拝 2月15日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                     聖 書  ルカによる福音書9章10~17節

                     説 教   「奇蹟を行うイエス」

本日の聖書 ルカによる福音書8章1~15節

1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 2悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

4大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 5「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 6ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 7ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 8また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

9弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』
ようになるためである。」

 11「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 12道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 13石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 14そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 15良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

    本日の説教 

 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。」(8:1)

   すぐその後>とは、特定の出来事の直後の出来事を指すのではなく、イエスのガリラヤ伝道の継続を指し、「その後も」とか「引き続き」ということです。イエスはガリラヤ地方の町や村を巡って旅を続けられながら、<神の国>の宣教をなさいました。<12人の弟子>も一緒でした。12人の弟子は、<神の国>の宣教の証人となり、彼ら自身が将来担う宣教の準備となります。弟子たちの中から12人の弟子を選び、使徒とした話は、6章12節~16節に記されています。

  多くの婦人たち>も、自分の持ち物を提供して、経済的援助を行い、イエスの一行に奉仕しました。宣教は12使徒だけでなく、彼女たちによっても担われたのです。イエスの巡回伝道の活動に女性が含まれていたことは、当時の宗教的運動では特異なことでした。イエスは男女の差別や偏見を排除したのです。

   七つの悪霊を追い出していただいた<マグダラのマリア>を始めとする三人の婦人の名が記されています。彼女たちは イエスに出会うまでは、心と体のさまざまな疾患で苦しんでいました。それが、イエスの内に働く神の霊の力によっていやされ、正常な心身に復帰したとき、イエスに対する献身的な愛となり、自分の資産を投げうって、イエスに仕えるようになったのです。

  大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになりました。<譬(たとえ)>は、物事を説明するとき、相手の良く知っている物事を用いて伝えます。イエスの教えのうち、三分の一以上は、たとえであり、その数は40にも及びます。イエスは神の国の福音を<種を蒔く人のたとえ>で語りました。(平行記事マタイ13章、マルコ4章)

  「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので、枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。(8:5~8a)

   当時のパレスチナの農夫は、十一月中旬から一月の始めにかけて、まず大麦、次に小麦を蒔きました。私たちが知っている種蒔きは、前もってよく耕された畑に丁寧に種を蒔きます。けれども、彼らは畑一面に手で種を巻き散らし、その後で耕して種に土をかぶせました。ですから、道端や石地や茨の中に落ちて無駄になる種も多かったわけです。農夫は、失われる種が多いことは知っていても、よい地に落ちた種は多くの実を結び、蒔かれた種の何十倍の収穫をもたらことを信じて、種を散布しました。この忍耐強い農夫こそ、イエスご自身を現す比喩(ひゆ)(=たとえ)です。

          

               ミレーの『種まく人』1850年 ボストン美術館                                    ミレーは、種を撒くイエスをイメージして、この画を画いたと言われています。

   イエスは、ご自身と共に到来している「神の国」を宣べ伝えますが、それは周囲の不信の中に埋もれて実を結ばないように見えます。今は不信と圧迫の中で失われたかのように見えるイエスの「神の国」告知の働きも、最後には必ず圧倒的な成果をともなって出現することを、このたとえは伝えているのです。神の支配が実現することを信じて、イエスは神の国を宣べ伝えているのです。そこには終末への期待があります。

  イエスはこの<種を蒔く人のたとえ>を語られた後、<聞く耳のある者は聞きなさい>と大声で言われました。これは「聞きつづけなさい」ということです。イエスの言葉を聞くことの重要性が強調されているのです。そうするなら、必ず、イエスが言わんとするたとえの真意を悟ることができるようになるからです。

  「弟子たちは、このたとえはどんな意味か」と尋ねました。(8:9)ここで言われている<弟子たち>は、12弟子のみならず、他の弟子たちやイエスに従った女性も含まれると考えることができます。マルコによる福音書では「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」(4:10)とあります。弟子たちはイエスの語るたとえ話を理解することができなかったので、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねたのです。<尋ねた>という動詞は、繰り返して尋ねた、という意味を含む語であり、弟子たちがイエスに向かって、そのたとえの真意を、納得するまで問い続けることを意味します。

  イエスは言われました。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(8:10)

  神の国の秘密>とは、イエスの言葉と行いによって現実に到来している神の支配は、人知の及ばぬ神の隠れた秘密である、ということです。それを悟ることが、弟子たちに許されている、とイエスは言われたのです。神の国の秘密は人間自然の理性によって知ることが不可能であり、聖霊によってのみ解き明かされます。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとっては、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(コリント一、2:14)

  神の国の秘密を悟るのは神の恵みであり、イエスに従わない外の人たちには許されていません。イエスの言葉は、彼らには比喩(謎)として残るのです。そして、そのように謎のまま残ることは、イザヤも預言している、としてイザヤ書6章9~10節を引用します。イザヤは預言者として神の言葉を語るように召されましたが、イスラエルは<見ても見えず、聞いても理解できない>状態に放置されました。

  弟子たちの質問に答えて、イエスは「種を蒔く人」のたとえを説明します。しかし、この説明は明らかに初期教会の解釈です。説明部分では終末へに期待は薄れ、イエスのたとえを寓話(ぐうわ)的に解釈して、一つの教訓的・勧告的説教にしています。

   「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。(8:11~15)

   ここに語られている説明は、イエスが語られた比喩の物語の中の一つひとつの語句に具体的な内容を指示させて、全体として一つの象徴的物語にしています。ここでは、<>は<神の言葉>であり、イエス復活後の宣教用語です。

   <道端に落ちた種>とは、心がかたくなり、悪魔に扇動されて信じない人です。悪魔は神の「道」を曲げて「神の言葉を聞かせまいとして、人を信仰から遠ざける者」(使徒言行録13:7~10)です。つまりみ言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのです。

  石地に落ちた種)>とは、御言葉を信じて、受け入れても、<試練の時>、特に迫害の時に、根なし草は脱落する。信仰も、根が浅いと、試練に打ち勝つことができないのです。

   茨の中に落ちた種>とは、御言葉を聞くが、財産への思い煩いや富や所有による快楽に妨げられて、実が熟するに至らない人です。

  良い土地に落ちた種>とは、行いも人格も立派で美しい人です。御言葉を聞き、御言葉をよく守り忍耐して保つ人です。御言葉を聞いて、行う人たちは、神様のみ言葉が百倍の実を結んでいくのです。

   使徒たちは、福音を告げ知らせる働きの中で、イエスから聞いていた「種を蒔く人」のたとえが、見事に福音を聴く人たちの対応の仕方を象徴的に描いていることを見出したのです。

  これが「種を蒔く人のたとえ」の内容です。私たちはこのたとえ話を読む時、自分はこの四種類の人たちのどれだろうかと考えてしまいがちです。さらには、自分はこの四つのどれかなのではない、この全部が自分のことだ、と思うこともあるでしょう。人は出しも、自分のなかに四種の土地を持っています。私たちの生涯のある時期で、同じ人間が、道端(畑の中の道端)であったり、石地であったり、茨の道であったり、良い地であったりします。私達が良い地とされるのは、農夫である神が土地を手入れしてくださるからです。

  このたとえ話は、御言葉の聞く者の受容の仕方の違いを示し、御言葉を正しく聞き従うことを強調しているのです。

  弟子たちや信仰者たちの中に、道端や石地や茨の土地のような人がおり、たまに「良い地」であるような人がいる、ということではありません。このたとえ話は、弟子たちや主イエスを信じて従って来ている信仰者たちに、あなたがたは「良い地」とされている、道端や石地や茨の土地のように、み言葉の種が実を結ぶことのない「他の人々」とは違い、み言葉の種はあなたがたの中で百倍の実を結ぶのだ、と語りかけているのです。

  種を蒔く人は主イエス・キリストです。またキリストに遣わされたの弟子たちです。神のみ言葉の種を蒔いてくださるのは、主イエスです。実を結ぶ<良い土地>になるには、み言葉をしっかり聞くことです。そしてそれをよく守ることです。聞いたみ言葉を手放さずしっかりと持ち続け、神の言葉である種が実を結ぶ時を忍耐して待つことです。

   主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、(わたしの父は農夫である)、あなたたちはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人とつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:1)と言われました。「わたしの愛にとどまりなさい」と言われたイエスにとどまり続けることが実を結ぶ人です。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方(神)が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(コリント一,2:10)と使徒パウロは語っています。良い業を始めてくださったのも、その業を完成させてくださるのも、神ご自身です。                    

  私たちの歩みにはいろいろな試練が襲ってきます。人生の思い煩いに苦しむことも、富や快楽に心を奪われることもあります。しかし、私たちを、それらに打ち勝って、実を結ぶ人としてくださるのは主イエスのお働きによるのであり、この勝利を信じて歩むことを主イエスは求めておられるのです。それによって私たちは良い地となり、み言葉の種は私たちの内で百倍の実を結び、私たちはそれを喜びの歌と共に刈り入れることができるのです。

コメント
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