霊能力を開発しよう

2007年10月03日 04時17分23秒 | Weblog
 「すべての女性は魔女。でも男性の場合、全員が魔法使いではない。」イギリスを代表する霊能者、カサンドラ・イーソンさんはそんな見解を持っています。

 彼女は男性よりも女性のほうが勘がいいと信じています。女性の勘の鋭さは母と子の深い絆から派生するというのが彼女の考えです。

 しかし、性別にかかわらず、私たちはみな霊能力を内に秘めています。カサンドラさんは次のように語ります。「霊能力を活用しないで生きることは、二つのシリンダーしか使わないで4気筒エンジンの車を運転するようなものです。」

 カサンドラさんによると、霊能力体験の多くは家庭内で起こるそうです。20年前、彼女は自分自身の家庭で最初のシンクロニシティーを体験しました。彼女の息子、ジャックさんが次のように言ったのだそうです。「たった今お父さんがオートバイから落ちた。でも大丈夫だよ。」ジャックの勘は的中しました。事故が起こった正にその瞬間、父親はオートバイから落ちたのです。

 カサンドラさんは次のように語ります。「その昔、霊能力は奇妙なことでもなければ、不気味なことでもありませんでした。ひいおばあちゃんは古い茶色のポットに残ったお茶の葉を見て占いをしたものです。昨今、この種の話題を信じる人々はどんどん少なくなっています。それなのに私たちは『人は死後どうなるのか』といった基本的な疑問にさえ答えることができません。だからこそ霊能力体験が重要なのです。私たちは自分の中に眠っている霊能力をもっと意識しなければなりません。なぜなら、それは霊的な世界への鍵だからです。」

 あなたの霊能力をテストし、開発しましょう。

 「オーラ」は人や動物を取り囲む、色のついた霊エネルギーの輪のことです。オーラを見る方法は次のとおりです。人をじっと見つめたあと、目を閉じて、すぐに目を開けてください。そこでまばたきをしたら、主な色を見られるはずです。その色は人の気分を表します。

 赤:情熱または怒り
 オレンジ:幸福感
 黄:人が真実を求めているとき、この色が現れる。ただし、くすんだ黄は嫉妬を表す。
 緑:愛と連帯感
 青:両方の立場から状況を見ること
 紫:ロマンス
 茶:日曜大工など現実的なこと
 ピンク:安らかな心
 グレー:秘密が守られていることを表す

 オーラを見る能力を高めたかったら、誰かと一緒に一日を過ごしてください。一時間ごとにお互いのオーラを見て、結果を記録してください。
http://www.cainer.com/japan/iyashi.htm

ジョギング

2007年10月03日 04時02分23秒 | 日記
平成19年9月23日 9.6キロ 54:25
じゃっかん、右膝が痛くなる。

平成19年10月1日 9.6キロ 55:36
かなり右膝が痛くなり、最後の10分は競歩気味で走る。

1週間強ジョギングをさぼったら、1分も違う~
筋トレはやっていたのに、、、、
やっぱり走り込まないといかん。

明日もなんとか頑張ろう

この国はどこへ行こうとしているのか 小野田寛郎さん

2007年10月03日 03時39分13秒 | Weblog
 <おちおち死んではいられない>

 ◇大きな顔しちゃいけない--元日本兵・85歳、小野田寛郎さん

 ◇親は子どものかがみ 子がおかしくなるのは、きっと親に責任がある

 約束した時刻まで、約1時間あった。東京・佃島の護岸で雨に煙る隅田川を見つめながら考えた。4冊の著書を読んだが、分からないことずくめだった。なぜ30年間もジャングルで戦ったのか。帰国後、すぐにブラジルに移住したのはどうしてか。そして、再び祖国へ舞い戻ってきたのは、何のために……。

 10分前、小野田寛郎さん(85)が現れた。紺のスーツをきっちりと着こなし、妻町枝さん(70)を伴って。33年前、フィリピンのルバング島で説得を聞き入れ、軍服姿で投降した時と同じように、背筋はどこまでも、ピンとしていた。

 「主人は耳が悪いので、話が通じないこともあって、お気を付けくださいね」と町枝さんに言われ、補聴器の入った小野田さんの耳に見入った。ルバング島の山中で、アリに両耳の鼓膜を食い破られたことが帰還後、話題になった。私の失礼な視線に気付いたのだろう。「アリにやられましてね」と、照れ笑いしながら雨空を見上げた。

       ■

 帰還した74年の小野田さんは、眉間(みけん)にしわを寄せ、鋭利な刃物のような雰囲気を漂わせていた。しかし、現在の本人は、柔和な笑みをたたえた姿勢のいいおじいちゃんだ。

 「もう10年以上、1年のうち日本で9カ月、ブラジルで3カ月、という生活です。日本に戻るたびに思います。人間個人は幸せになったかもしれないけど、国家という単位でみると、ずいぶん落ちぶれたように思いますね。国益というものをどう考えているのか。戦争に一度負けたぐらいで、腰が引けてちゃだめです。外交は国益のぶつかり合いだもの」

 陸軍の情報学校である陸軍中野学校二俣分校を出た。「敵の言うことを信用するな」。ルバング島での30年間、軍の教えをかたくなに守り、戦い続けた。戦後、日本からの捜索隊や現地警察からの投降の呼びかけを信用しなかったのも、そのせいだ。

 元上官の「作戦任務解除命令」を受けてやっと投降し、帰国したのもつかの間、1年少しでブラジルへ渡り、牧場主になった。

 「ルバング島から帰国する際、フィリピン政府から無罪放免となった。山中で行動している時に敵と遭遇したら、命のやりとり(殺し合い)をしましたけれど、すべて不問となった。『敵ながらあっぱれ』ということで投降後に栄誉礼も受けました。でも、そのために『あいつは女のヒモになって生きてきた』『カッコつけて出てきやがって』と、マスコミにたたかれました。冗談じゃない」

       ■

 帰国後の小野田さんの言動に対する世間の目もあった。「亡き戦友への供養に」と、政府からの見舞金(100万円)を靖国神社に奉納したことで「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」という非難にさらされた。日本人の「金銭感覚」に幻滅した。

 自著「たった一人の30年戦争」(東京新聞出版局)でも、こう語っている。「嫌なうわさを耳にした。私がお金を靖国神社に寄付したのは、政府から多額な補償金を内緒で受け取ったからだ、というのである。何でもカネ、カネの戦後日本人に絶望感を覚えた。これでは到底、日本に住めないと思った」

 「結局、招かれざる帰還だったんです。国民の年金保険料をネコババする政府なんか、そもそも私は信用していない。兄が先に移住していた影響もあったけど、みんなの見ている前で、裸一貫で生きていける能力を見せつけようと思って、牧場をやることにした。自分の力で生きていけることを証明したかった」

 移住したというより、祖国で暮らすことに我慢できなかった、という方が近いようだ。

 「日本国はともかく、ぼくは戦争に負けていない。投降したけれど、武装解除されたわけではない」。間違いない。小野田さんは、祖国への複雑な思いを抱えたまま、まだ何かと戦っている。

       ■

 ブラジルに渡った小野田さんは10年間かけて約1200ヘクタールの原野を切り開き、1800頭の肉牛を飼育するまでに成功を収めた。経営がまだ軌道に乗る前の80年11月、現地の邦字紙を読んで大きな衝撃を受けた。川崎市の少年が金属バットで両親を撲殺する事件の記事だった。小野田さんは、祖国の未来を担う子どもたちとかかわることに決めた。「小野田自然塾」の設立(84年7月)である。

 「日本に頼ろうという気持ちがまったくなくなったら、この国を冷静に見られるようになった」という小野田さんは、福島県塙町の山中でキャンプ生活をしながら、子どもたちにルバング島での体験を踏まえ、自然の中で生き延びるすべを教えてきた。これまでの23年間で「教え子」は2万人にのぼる。

 「荒れている子どもの家は決まって、幸福な家庭ではない。家庭で親が子どもをしっかりと抱きしめてあげなきゃ。安心感があれば、子どもだって落ち着いた人間になるんですよ。昔は、親を殺すような無軌道なことはなかったのに。親と子の連帯感が喪失してるんでしょう」

 自然塾発足当初の小中学生はもう、親の世代。小野田さんは自然塾で若い親たちを集めたキャンプを開催しようと計画中だ。「親は子どものかがみ、子どもがおかしくなるのは、きっと親にも責任がある。親たちに何か、伝えなければと思って」

 自然塾に集まった子どもたちには、ルバング島での「事実」を教えつつ、「だから、戦争にならんようにしなければいけない。戦争にならんようにするには、どうしたらいいか、大人になったら考えろよ」と繰り返し訴えている。子どもたちは、山の中で何を聞き、何を教わり、何をつかんで帰ってゆくのだろうか。

 取材の翌日、安倍晋三首相が辞任表明した。感想を尋ねると、手書きのファクスで「健康上の理由ならば、万やむなしと考えます。昔のように『男なら』『日本人なら』という考え方は、現下の日本では『酷』というものでせう」。ルバング島で孤軍奮闘した小野田さんだからこそ、安倍さんに大喝するかと思ったら、思いやりにあふれた文面だった。読み返しながら、別れ際のひと言を思い出した。

 「キャンプファイアの木は、燃やされるために生えてきたんじゃない。大きな木になるために生えてきた。人間の人生はせいぜい100年ぐらい、大木はその数倍にもなる。だから、人間は大きな顔をしちゃいけないんですよね」【野島康祐】

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 ■人物略歴

 ◇おのだ・ひろお

 1922年、和歌山県生まれ。44年11月、陸軍少尉でルバング島に派遣され、ゲリラ戦を指揮。74年3月に投降、帰国。75年4月、ブラジル中西部の南マットグロッソ州に渡り、牧場経営を始める。84年7月、小野田自然塾発足。04年12月、同州の名誉州民に選出。

毎日新聞 2007年9月28日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20070928dde012040013000c.html