ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



タイム・マシンって、ほんとにこれから作られることがあるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 H・G・ウェルズが、未来小説のなかで、タイム・マシンの出現を予言していますが、このタイム・マシンは三十世紀に新アトランティス文明において開発されます。タイム・マシンの原理は、光速度を超える速度を持った乗りものを発明すれば、過去と未来の間にはさまれた現在の時間の壁を乗り越えられるということです。
 このタイム・マシンは、実は、二九〇〇年代初頭に開発されるのですが、乗組員が過去や未来の時代に行ったままで戻って来られなくなってしまうために、大混乱が生じることになるでしょう。そこで、この第一陣のタイム・トラベラー(時間旅行者)を連れ帰るために、第二陣、第三陣と送り込まれるのですが、いずれも帰って来られなくて、大変な社会問題となるはずです。彼らが、いつの時代のどの地域に出現しているかが分からず、探そうにも探しようがないのです。ただし、この時代の大霊能者たちが、天上界の緒霊の協力を得て、タイム・トラベラーたちの時代と地域を特定するため、一部の人の救出には成功するでしょう。
 時間旅行者たちが、過去の地上に現われた例としては、日本では、七世紀頃、鞍馬山に天狗が出たという話として遺っております。古代エジプトのピラミッドの壁画にも、未来人の姿が記されています。古代インカのナスカ高原にも出現して、宇宙船と混同されて神々と間違われたことも、記録として遺っております。また、旧約の預言者エゼキエルが見た四つ足の乗りもの(飛行船)は、宇宙人の円盤ではなく、実は、三十世紀人のタイム・マシンのようです。
 ともあれ、タイム・マシンによって時間旅行をする人は、三十名で打ち切りとなり、それ以降は社会不安をなくすため、ときの政府の意向により、タイム・トラベルは法例で禁止されることになるでしょう。ウェルズは、その頃、予言者のひとりと言われるようになるはずです。
(372~374ページ)

タイム・マシンは、今から900年後、30世紀に発明される。

大西洋上にこれから出現する新アトランティス大陸においてである。

そのタイムマシンが過去に地上に現われた痕跡は、実は歴史上いくつか見つけることができる──。

2003年に公開された映画『黄金の法』にはタイムマシンが登場しましたが、この予言部分がコンセプトになっていたのだと改めて私は気がついたりしているのです。

 

『黄金の法』

 大川隆法著

 

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大好きだったおじいちゃんは、私が幸福の科学を知る前に亡くなって、もう何年にもなるんだけど。仏法真理をお伝えしようとしてたのに、うまく伝えることができないまで亡くなってしまったの。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の生命の世界』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あの世に還った先祖への供養は、この世において救いきれなかった場合の事後的な問題です。
 子孫としては、先祖が生きているあいだに救ってあげるのが最もよいのですが、救いきれずに亡くなってしまう場合があります。あるいは、幸福の科学の出現にまにあわずに亡くなってしまった人もいるでしょう。「こういう人たちを救うことは、もはやできないのか」ということが問題になります。
 これは、キリスト教においても、いまだに大問題なのです。
 キリスト教では、「キリスト教に入信しないと、天国には行けない」という言い方をよくしますし、「キリスト教に入らなければ、地獄に堕ちる」という極端な言い方をする人もいます。そうすると、イエスの生誕以前の人類は救われないことになります。「イエス生誕までは無明の歴史が続いていたのであリ、イエス以前の人々に対する救済はありえない」ということになるのです。
 一方、仏教には、先祖供養という考え方があります。これは、「仏教には、過去に生きた人を救済する理論が存在する」ということを意味しています。
 もっとも、「千年も二千年も前に死んで、いまだに迷っている」という人は少ないので、死んでから数十年ぐらいの範囲の人が対象になるでしょうが、生きているあいだに仏教に出会えなかった人を救う方法として、先祖供養があるということです。
 キリスト教と違って、「過去にまで救いの手を伸ばそう」という考え方が、仏教にはあるのです(カトリックにも、類似の思想として、「とりなしの祈り」がある)。(中略)
 通常の人の場合は、地上に生きていたときに悪事を重ねたとしても、死後に改心すれば、その時点から、悪い考えや行動がなくなるので、悪事の量は増えません。あとは、徳を積めば、その人にとって、少しずつ闇が減って光が増えてきます。そして、光の量が闇の量を超えたときに、地獄から天上界に上がれるようになっています。
 こういう救いのきっかけとして、先祖供養というものがあるのです。
(172~175ページ)

先祖供養は、過去に生きた人を救済する方法である。

ひとつの救いのきっかけである──。

幸福の科学では、年に2回行なわれる、支部での「幸福供養大祭」、総本山・正心館での「総本山・先祖供養大祭」。

また、総本山・那須精舎と聖地・四国正心館にはそれぞれ「来世幸福園」があって、納骨や供養をお願いすることもできます。

このように、仏教だけでなく、いやそれ以上に明確な宗教理論に基づく方法論で、幸福の科学でも先祖供養ができること。

多くの方に、その素晴らしさを知っていただけたらと私は思っているのです。 

 

『永遠の生命の世界』

 大川隆法著

 

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もう適齢期をすぎかけてるのにな。大事な仕事もあって、なかなか結婚に縁がないの。これだけ縁がないってのは、もしかしたら、今回の人生では結婚しないことになってるんじゃないのかな。でも、家庭生活が大事なんでしょ、無理にでも結婚しないといけないの? なーんて深刻な悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の幸福には、一時的、刹那的な幸福もあるでしょうが、そうしたものが真なる幸福なのではありません。長く続けていける幸福、そして、あの世にも持っていける幸福こそ大事であるという観点を、いつも忘れないようにすべきなのです。
 家庭のことについて述べましたが、もちろん離婚や再婚をする人も数多くいます。あるいは、独身で一生を送る人も一定の割合で存在します。
 そうした人たちのなかには、魂修行において必要があるために、そうなっている人もいます。その場合には、人と違う人生を生きているということを考えすぎ、悩みすぎるのは、よくないことだと思います。
 「私の人生において、天が普通の家庭生活を許してくださらないのならば、いま与えられている環境のなかで、私はベストの生き方をしよう」という考え方を持つことが、非常に大事なのです。
 この世には、独身の人によって支えられている職業、そうした人がいなくなると成り立たない職業が数多くあります。そうした使命を持った人もいるのです。
 また、何度か離婚や再婚をしても、そのなかで尊い魂修行をしている人もいるので、それが悪いというわけではありません。新しい縁ができたのならば、その新しい縁のなかで、またユートピアを築いていこうと努力することが大事なのです。
(46~48ページ)

大川隆法先生は、全人類を見据えたときに、その大部分の方にあてはまる教えとして、まず、結婚し家庭生活を営むことの大切さを説いておられます。

けれども、一定割合で独身で仕事をしていく人がいることもまた、認めておられます。

そして、離婚、再婚をせざるを得なくなった方の人生も、認めておられるんですよね。

要は、その与えられた環境の中で、ベストの生き方をしようと決意し努力していくことが、とても大切なんだと、改めて納得できた気が私はしているのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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オレって、学歴がないんだよね。やっぱ、なんだかんだ言ったって、学歴社会だよね。出世するとかムリだよね。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ダイナマイト思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 劣等感との闘いも大きなものです。しかし、劣等感との闘いはそう長く続くものではありません。心のなかに明るい光を入れることによって、悪いものは消えていきます。明るい種子を播くことによって、そしてそれが成長し、花開くことによって、暗いものは心のなかから駆逐されていくものなのです。
 みなさんは、決して過去の事実だけで自分を規定してはなりません。学歴一つとってもそうです。いい学校を出たかどうかという基準は、世間では通用していますし、それにもいくぶんかの合理性があることは私も認めます。けれども、幸福の科学の会員を見てごらんなさい。たとえどのような学歴の人であっても、一生懸命勉強しているうちに次々と頭が良くなるという奇蹟が、現われてきているではありませんか。(中略)仏法真理の書を十冊、二十冊、五十冊、百冊と読み続け、講演のテープを聴いて学んでいるうちに、頭脳は活き活きとし、目は輝きを放ち、そして、どこから見ても見事な教養人の姿が現われてきているではありませんか。これは素晴らしいことです。(中略)
 実社会に出てから真なる学問に目覚め、学ぶことのよろこびを得、知ることのよろこびを得た。そして、ものごとを深く理解することがいかに大切なことであるかを理解した。その事実は、学校教育では決して補いえないものであると私は思います。今、真に賢い人たちが、群れとなって、集団となって、幸福の科学に現われているのです。
 また、賢いだけではありません。人びとの考えは積極的になってきました。ユートピア建設に向けて、「さあ、やるぞ。バリバリやるぞ。勢いをつけてがんぼるぞ」という人が、ここにも、かしこにも現われています。素晴らしいことです。やる気のある人が、積極的で建設的な人が大勢出てきています。そういう人があふれてきた社会が素晴らしくなるのは、もはや時間の問題なのです。
 その出発点が何であったかというと、心のなかに理想の種を播いたということです。素晴らしいユートピアを創ろうと決意したということです。自分もそれに参画していこうと思ったということです。これが始まりだったのです。
 そう思わなかったならどうでしょう。「ユートピアなんて、いつまでたっても来るものではない。そんなものは机上の空論だ。過去にもなかったし、今後もあるわけはない。暗い時代ばかりが続くのだ」、こうした皮肉屋のような考え方でシニカルに生きている人で満ちたら、世の中は少しもよくならないでしょう。
 しかし、「ユートピア? うーん、できるんじゃない? 少なくとも、私が働けば私一人分だけユートピアが近づくし、私の友達が働けば、またそれだけユートピアが近づいてくる。みんなでやれば実現するのではないかな」、こうした考え方を持つ人がいたらどうでしょう。その人の光は間違いなくロウソク一本分以上の輝きを持っていることでしょう。おそらくは、小さな小さな花火であったとしても、打ちあげられて夜空をきれいに飾る花の一輪になることでしょう。
(116~119ページ)

心のなかに明るい種子を播き、それが成長し花開くことによって、暗いものは心のなかから駆逐されていく。

どんな学歴かにかかわらず、一生懸命勉強しているうちに頭が良くなっていく人々が、幸福の科学に群れとなって現われている。

心のなかに理想の種を播き、素晴らしいユートピアを創ろうと決意すれば、その光は間違いなく、打ちあげられて夜空を飾る花の一輪になっていく──。

まずは、心のなかに理想の種を播くこと。

たとえば、素晴らしいユートピアを創ろう、自分もそれに参画していこうと決意すること。

心のなかに理想の種を播いて、成長させ、花開かせることによって、劣等感なんかいつのまにか追い出してしまえる。

人生で成功し勝利していく大事な大事な秘訣を、今日はわかりやすく教えていただいたのだと私は思っているのです。

『ダイナマイト思考』

 大川隆法著

 

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いろんな霊系団があの世にはあって、いろんな宗教を作って地上の人びとを指導してるって話なんだけど、なんでそんなことしてるの。一つの宗教だけで指導してくれれば、宗教戦争が起きたりしなくって、いいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「仏の光がプリズムにかかったように分かれてきて、それぞれ特色を持った教えが説かれているのだ。それぞれの如来が『仏(神)とはこういうものだと思う』と説いてきたのが、それぞれの宗教になったのだ」という話をしました。
 では、なぜそうした区別をする必要があるのでしょうか。「これこそ仏の教えだというものが、一つだけあればいいではないか。それをもとに、すべての宗教家が同じことを説けばいいではないか。そうすれば混乱も宗教戦争もないだろうし、人びとも迷わなくてすむだろう」――このように考える人もいると思います。
 しかしながら、(中略)「お仕着せのような一律の教えでもって、ほんとうに人間は満足するのであろうか」ということです。
 たとえば、車で道路を走るときでさえ、さまざまな車に乗っているではありませんか。異なるメーカーの車が走っていますし、色にしても、白、赤、黄色、青など、いろいろな色の車が走っています。また、大型車、中型車、小型車といった違いもあれば、燃費がいいか悪いか、値段が高いか安いかといった区別もあります。しかも、新車もあれば中古車もあるのです。(中略)
 さらには、男性が好んで運転する車、女性が好んで運転する車といった違いがあります。それから、「車は速ければいいというものではない。レーサーが乗るような車ばかりではなく、遅い車もあっていい」という人もいます。また、「ツードアがいい」という人もいれば、「フォードアがいい」「ファイブドアがいい」という人もいて、いろいろです。
 したがって、「どの車がいちばんいいか」と問われても、一概には答えが出てこないでしょう。
 現在、「さまざまな宗教が乱立している」と言われています。しかし、「どの宗教がいちばん正しいのか」ということは、「どの車がいちばんいい車か」ということと同じなのです。
 もちろん、「値段がより高い車がいい車だ」ということは一般的に言えますし、「この車よりもあの車のほうが高級車だ」ということはあります。
 だからといって、「すべての人が絶対にこの車でなければならない」というところまでいくかといえば、そうではありません。人によって好みの違いがあっていいのです。
 仏教には、小乗、大乗という言葉があります。「乗」とは、乗り物の意味です。つまり、小乗、大乗は、小さな乗り物、大きな乗り物ということです。
 小乗はいわば小型車であり、自分一人しか乗れません。ところが、大乗は言ってみれば大型車ですから、大勢の人が乗れます。
 このように、宗教のなかには小型車と大型車が存在しているのです。その違いは、どれだけの数の人たちを運ぶことができるかという、その運び方によるわけです。(中略)宗教の教えにも、それぞれの好みや風土、土地柄に合ったものがあるということなのです。
(261~266ページ)

お仕着せのような一律の教えでは、人間はほんとうには満足できない。

たとえば、車であっても、色や大きさ、燃費、値段、新車か中古車か、ドアの数など、さまざまな好みがあって、どの車がいちばんいいかの答えなど、一概には出てこないのと同じである。

宗教の教えにも、それぞれの好みや風土、土地柄に合ったものがあると考えればよい──。

さまざまな考えがあって、好みもある中で、人間はこの世での魂修行をして行くのがよいと天上界は考えておられる。

神さまは、本当に慈愛のまなざしで、私たち人間を見守って下さっているのだと私は思っているのです。

 

 

『永遠の法』

大川隆法著

 

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人生って、どこでどの家で、こんな肉体で生まれたってことは、もう変えようもないんだから、大きな時代の流れの中で、流されていくのも人生なんじゃないのかなあ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 海辺では一日じゅう波が寄せたり引いたりしています。それとリズムを合わせて、海辺の小石も寄せたり引いたりしています。こうした小石に心があるならば、彼らは一日をどのように感じているでしょうか。一年をどのように感じているでしょうか。一生をどのように感じているでしょうか。
 小石には、自分が波の動きとともに動いているという事実をもって、自分は大自然を形づくっている一部であるという自覚があるかもしれません。しかし、その自覚はそれ以上のものにはなりえません。
 なぜならば、小石は自分自身の力によっては何ひとつなすことができないからです。小石は波の力によって、あるときは押され、あるときは引かれます。そして、他の石とぶつかってすり減ることもあれば、他の石を打ち砕くこともあるでしょうが、あくまでも自然現象の一部としてとどまっています。
 そうした波間に漂う小石のような人生であるとしたならば、可能性という意味では、きわめて小さなものしかないでしょう。やがて砕かれ、美しい砂浜の小さな砂になっていくということ以外には、可能性を見いだすのは難しいと言っても過言ではないかもしれません。
 このような小石との対比で人間の人生を考えてみたとき、いちばんありがたいことは何でしょうか。それは「人間には心というものがあり、心の領域のなかには意志という強いものがある。そして、方向を定め、その方向に向かってあらゆる能力を総動員して、人生を切り開こうとすることが、人間の努力なのである」と考えられる点です。
 すなわち、小石とは違って、力強い心、意志によって道が開ける──ここに人間のすばらしい点があるのだと思います。可能性というものを考えたとき、この意志の力というものなくしては、道が開けることはまずないのです。
 ところで、おもしろいことに、この意志の力というものは、必ずしも生得のもの、生まれつきのものではないのです。もちろん、生まれつき頑固な子供もいるでしょうし、生まれつき気の強い子供もいるでしょう。しかし、そうした性格の違いは多少あるとしても、それだけでは語れないものがあります。なぜならば、意志というものは鍛えていけるものだからです。(中略)
 心強くあると、その人の念いは、一種の筋肉のように、障害物を力強くはね上げ、はね飛ばし、すべてのものを押しのけて突き進むことができるようになってくるのです。
 したがって、何事かをなさんとするならば、そして、その何事かが人間の幸福にかかわるものであるならば、しかも、その幸福が、そのなかで最も関心のある自分自身の幸福に関するものであるならば、まず意志を強くしなければなりません。
(193~197ページ)

人間は、海辺の小石とは違うものだ。

人間には「心」「意志」という貴重なものがあるのだ。

この意志は、鍛えれば強くすることができるのだ──。

とてもありがたく、ほんとうに希望がわき上がってくるお教えであると改めて私は感じているのです。

 

『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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宗教に入れば、「解脱(げだつ)」できるんでしょ。で、神秘体験できるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 解脱とは「心の自由を手にすること」と説明しましたが、真実の宗教の立場からみて、それでは「心の自由を得る」とはいったいどういうことなのか、その内容を吟味してみたいと思います。
 まず最初に挙げるべきものとして、「信解脱(しんげだつ)」というものがあります。これは「信仰心による解脱」ということです。この信解脱は、「疑」の克服がその中心であると一般的に言われています。
 疑とは何であるかというと、正しい神理、仏法、あるいは法を説く仏陀、如来に対する疑いです。そういう三次元的な、この世的な疑問や疑いを解くこと、疑いを否定して、そして信じること、これが疑の克服に当たるわけです。
 そうしてみると、ここではまず、次のようなことが言えると思うのです。
 正しい宗教を信じない人、真実の仏陀の教えを信じない人にも二種類あって、一つは宗教心のまったくない人です。宗教心がまったくなく、宗教そのものを信じない。そういう教えなるものがあるということを信じない。あるいは、あの世とか、神仏とか、霊とかをまったく信じない方です。かなり頑迷ですし、魂的にみれば、そうとう曇りがかかっており、また発展が遅れている方であることは間違いありません。こうした無神論的あるいは唯物論的な考えを持っている人に、その疑問を解いてもらうということもありましょう。
 もう一つは、神仏を信じ、宗教を信じているにもかかわらず、間違った宗教にどっぷり浸かっている人、要するに〝悪霊型宗教〟に染まっている人です。「邪見」といって、間違った教えを信奉していたり、「戒禁取見(かいごんじゅけん)」といって、間違った修行方法や戒律などを守っている人が、地上にはまだ数多くいます。
 こういう人たちが、自分たちの間違いに気がついて、真実の仏陀の教えに帰依し、この教えについていこう、そして自分自身を高めていこうという境地が固まったときに、これを「信解脱」といいます。要するに、信仰心による解脱です。
 つまり、この世的な疑いや、間違った宗教による悪しき見解を振り払うことができ、そして神仏に向かってまっすぐに進んでいく道に入ったということです。これを、「預流(よる)」ともいいますが、悟りの段階としては第一段階です。正しい信仰の流れのなかに入ったというのが、この信解脱です。
 この際に、「では、単に信じればよいのか」というような考えもあるかと思いますが、ただ信じるというだけでは、やはり弱いかもしれません。というのは、宗教ではどこも「信じなさい」ということを言うので、宗教心のある人でも、他人に勧められて、「これはいい」と思って信じたけれども、しばらくすると他の宗教が出てきて目移りをするということは、いくらでもあるからです。ですから、この信解脱においても、ある程度の智慧、知識的な理解が必要になると思います。要するに、正しい教えであると自分が納得できる程度の、最低限の神理の理解は必要なのではないかと思います。(中略)
 これは、第2章「戒律とは何か」の説明で言えば、どちらかというと「三帰五戒」の段階が中心ではないかと思います。戒律を守って生きていこうとする、あるいは幸福の科学のルールを守って生きていこうとする決心ができた段階です。この段階で、悪魔とか悪霊などの誘惑から、かなり脱することが可能となっています。
(204~208ページ)

「解脱」にも段階がある。

神秘体験うんぬんではなくって、最初の解脱とは、「信解脱」。

これは、「疑」を克服した信仰心による解脱である──。

幸福の科学では、まずは主エル・カンターレを信じることができる方が「入会」できます。

その先には、仏・法・僧の三宝を信じることを誓願する「三帰誓願式」というものがあります。

ただ入会しただけで解脱するわけではなく、教団の中で勉強したり伝道したりと一定の修行をするうちに、この三帰誓願をしようと決意できる段階あたりが、この「信解脱」に該当するのだろうと、私は理解しています。

では、その先にある解脱の段階とは何かですが、これについてはやはり、本書の続きの部分を、ぜひ手にとって読んでみていただければと私は思っているのです。


『沈黙の仏陀』

 大川隆法著

 

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古代エジプトにはトートの神って、鳥の頭の神さまがいたと思うんだけど、ヘルメスと関係あるって話があるんだって? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 エジプトの人たちは、「ギリシャ人であるヘルメスは、はるかなる昔、エジプトの始まりにおいて、智慧の神と言われた、トートの神でもある」ということを、固く信じていました。
 トートの神は、まさしく、エジプトの文明が始まるころの神です。その姿はエジプトの遺跡にも描かれています。
 幸福の科学の研究によれば、このトートの神は、すでに地上から姿を消しているアトランティス大陸に生まれた、トスという人であることが分かっています。そのアトランティス大陸から逃れてきてエジプトに住み着いた人たちが最初に信仰していた神が、トート、トス神なのです。
 エジプトの人々は、「エジプトを指導した、智慧の神であるトート神が、のちに、ギリシャにヘルメスとして生まれた。その後、ヘルメスとトートが協力し、霊界において一体となり、エジプトの二千年以上の繁栄をつくった。特に宗教的な指導をなした」と考えていました。
 これに関しては、神話的なものではなく歴史的事実として、「ヘルメス文書」という記録がはっきりと遣(のこ)っています。エジプト人たちは、トート神を、「霊界において秤によって判定された、人間の魂の善と悪を記録する神」として認識し、「トート神が、『その人の生前の人生において、善なることが多かったか、悪なることが多かったか』を記録し、その人の死後の行き先を決めている」と考えていました。その意味で、トート神は、エジプト人にとって非常に怖い神でもあったわけです。
 このトス(トート)とヘルメスに共通しているものは、「霊界から、この世を指導する」という強い意識です。(中略)
 このトスとヘルメスの思想は、エジプトの宗教において、「復活の思想」として遣っています。それは、要するに、「死んだ人が、この世に生まれ変わる。死んだ人が生き返る」という思想です。
 ただ、この世の人間は、この思想を誤解して、「ミイラをつくり、死んだ人間の肉体を灰にしないで遺しておけば、魂が戻ってきて、よみがえる」と考えていました。「王のミイラに魂が戻ってくる」などというかたちで、ミイラによる「復活の思想」を考えていました。
 実は、このエジプトの「復活の思想」が、キリスト教における「イエスの復活」という思想につながっているのです。
(188~191ページ)

「ヘルメス文書(もんじょ)」については、一度、ご紹介したことがありました。

そのときにも紹介しましたが、多神教だった古代エジプトでも最も尊敬されていたこの神が、実はアトランティス時代のトス神であり、しかも、古代エジプトの人びとは、このトス神を、古代ギリシャのヘルメス神と一体だと理解していた。

そこに生まれた「復活の思想」は、キリスト教のイエスの復活の思想へと流れ込んでいる──。

このトス神とヘルメス神は、どちらも幸福の科学の御本尊である主エル・カンターレの魂のご兄弟です。

そしてそれは、大川隆法先生の過去世の姿でもあると学んでいることを、改めてお伝えしなければならないと私は思っているのです。

 

『信仰のすすめ』

 大川隆法著



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以前、「成功のための考え方」の記事があって、「考え方」こそが最重要なキーのひとつだけど、でもそれだけではないってことでしたよね。じゃ、その先は? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、その続きとして、こう教えておられます。

 成功するためには、「正しいビジョン」と同時に 「粘りつづける心」も持たなくてはなりません。すなわち、努力の持続、最後まで粘り抜くことが大事なのです。「成功するまでやりつづけよう」と思い、最終目的地に到達するまで根気よく粘ることです。(中略)
 最終目的地へ向かう途中においては、とにかく考えに考えを重ねて、いろいろなことを発想する必要があります。商売の繁盛においても企業の発展においても、豊かなアイデアが大事であり、いろいろなことを次から次へと思いつかなければいけません。
 大きな目標を定め、いったん決めたことは断固やり抜くという姿勢を持っていたとしても、目標に至る過程では、うまくいかないようなことが次々と起こります。したがって、そのつど、新しい考え方を出していくことが必要です。
 新しい困難に対しては、新しい考え方で戦わなければいけません。病原菌などに対して肉体は常に戦っていますが、それと同じように、苦難や困難、挫折の原因がやってきたならば、それと戦うことが大切です。「新しい考え方を発明し、戦って勝たなければいけない」と思ってください。(中略)
 「新しい困難には、新しい発想、新しいアイデアで戦う」──これが根本です。
 反省の習慣のある人は、毎日、夜寝る前などに、「きょう一日、自分は正しいことを考えたか」などと反省しているでしょう。あるいは、週末に反省する人もいれば、幸福の科学の精舎や支部で反省を行なう人もいることでしょう。
 ただ、苦しみや悲しみ、挫折や困難に遭遇したときには、過ちを反省するだけでなく、もう少し積極的に、「自分は新しいアイデアで戦ったか。新しい発想を出したか」ということも考えていただきたいのです。
 一日が終わるときに、「きょうは何か新しいことを思いついたか。新しいアイデア、新しい企画を出したか。新しい発見があったか。新しい〝武器〟を製造したか」と考えていけば、しだいに積極的になっていきます。(中略)
 物事を後ろ向きに考えるよりは、「困難と戦うための、新しいアイデアを出したか。何か判断をしたか。新しいものを人生に付け加えたか」ということを考えたほうがよいのです。
 物を発明することだけが発明ではないのです。人生の生き方も発明しなければなりません。だれもが自分自身のオリジナルな人生を生きているのですから、他の人の発明がそのまま自分の人生に使えるとは限りません。オリジナルな人生のなかで、各人がどのような新しい発明をするかが大事なのです。
 新しい「考え方」、新しい「心構え」、新しい「発想」、新しい「行動」を発明しなくてはなりません。「何によって人生に勝ち、成功の道に入るか」ということを常に考える必要があるのです。
(174~178ページ)

粘りつづける心。

そして、新しい困難には新しい発想、新しいアイデアで戦うこと。

そのために、何によって人生に勝ち成功の道に入るかを、常に考えていくこと──。

今日は、成功するためには必要な大切なことについて、前回に引き続いて、とっても示唆にとんだお教えをいただいたのだと思います。

繰り返し読み込んで、このお教えを自分のものにしていきたいと私は改めて思っているのです。

 

『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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