いろんな霊系団があの世にはあって、いろんな宗教を作って地上の人びとを指導してるって話なんだけど、なんでそんなことしてるの。一つの宗教だけで指導してくれれば、宗教戦争が起きたりしなくって、いいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
「仏の光がプリズムにかかったように分かれてきて、それぞれ特色を持った教えが説かれているのだ。それぞれの如来が『仏(神)とはこういうものだと思う』と説いてきたのが、それぞれの宗教になったのだ」という話をしました。
では、なぜそうした区別をする必要があるのでしょうか。「これこそ仏の教えだというものが、一つだけあればいいではないか。それをもとに、すべての宗教家が同じことを説けばいいではないか。そうすれば混乱も宗教戦争もないだろうし、人びとも迷わなくてすむだろう」――このように考える人もいると思います。
しかしながら、(中略)「お仕着せのような一律の教えでもって、ほんとうに人間は満足するのであろうか」ということです。
たとえば、車で道路を走るときでさえ、さまざまな車に乗っているではありませんか。異なるメーカーの車が走っていますし、色にしても、白、赤、黄色、青など、いろいろな色の車が走っています。また、大型車、中型車、小型車といった違いもあれば、燃費がいいか悪いか、値段が高いか安いかといった区別もあります。しかも、新車もあれば中古車もあるのです。(中略)
さらには、男性が好んで運転する車、女性が好んで運転する車といった違いがあります。それから、「車は速ければいいというものではない。レーサーが乗るような車ばかりではなく、遅い車もあっていい」という人もいます。また、「ツードアがいい」という人もいれば、「フォードアがいい」「ファイブドアがいい」という人もいて、いろいろです。
したがって、「どの車がいちばんいいか」と問われても、一概には答えが出てこないでしょう。
現在、「さまざまな宗教が乱立している」と言われています。しかし、「どの宗教がいちばん正しいのか」ということは、「どの車がいちばんいい車か」ということと同じなのです。
もちろん、「値段がより高い車がいい車だ」ということは一般的に言えますし、「この車よりもあの車のほうが高級車だ」ということはあります。
だからといって、「すべての人が絶対にこの車でなければならない」というところまでいくかといえば、そうではありません。人によって好みの違いがあっていいのです。
仏教には、小乗、大乗という言葉があります。「乗」とは、乗り物の意味です。つまり、小乗、大乗は、小さな乗り物、大きな乗り物ということです。
小乗はいわば小型車であり、自分一人しか乗れません。ところが、大乗は言ってみれば大型車ですから、大勢の人が乗れます。
このように、宗教のなかには小型車と大型車が存在しているのです。その違いは、どれだけの数の人たちを運ぶことができるかという、その運び方によるわけです。(中略)宗教の教えにも、それぞれの好みや風土、土地柄に合ったものがあるということなのです。
(261~266ページ)
お仕着せのような一律の教えでは、人間はほんとうには満足できない。
たとえば、車であっても、色や大きさ、燃費、値段、新車か中古車か、ドアの数など、さまざまな好みがあって、どの車がいちばんいいかの答えなど、一概には出てこないのと同じである。
宗教の教えにも、それぞれの好みや風土、土地柄に合ったものがあると考えればよい──。
さまざまな考えがあって、好みもある中で、人間はこの世での魂修行をして行くのがよいと天上界は考えておられる。
神さまは、本当に慈愛のまなざしで、私たち人間を見守って下さっているのだと私は思っているのです。
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『永遠の法』
大川隆法著 |
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色々な宗教は日本では特に多いように感じます。
何故なんでしょうね…
多分それは日本人が持つ独特の意識が影響していると思います。例えば日本ではクリスマスが普通にあります。そして次の月には普通に神社に行きますよね。でもこれって、違う教えのはずですよね。12月にはキリストさま。1月は仏さまって…。。どうしてこうなるんでしょうか…?
わたしが身に染みて思うのは日本って信仰の文化がないからなんじゃないでしょうか。何故?だって本当に日本人が仏教国としての信仰を持っているのならばクリスマスなんてするはずがないからです。これって本当の所は信仰という物が何もないという事なんじゃないか…って。
つまりご都合主義的な歴史を日本は歩んできたという事を言いたいんですよね。なので、大川さんの言っている車~云々の例えのお話はとても日本人的な物です。皆のそれぞれの好みで勝手に宗教を作っていってしまう…神様ってそういう物なのでしょうか…?
疑問です大いに。
何でも良いでしょう的な所がエスカレートしていった結果が今日の子供の犯罪や大人の分別のなさ等、沢山の問題に重なります。
確かに沢山の信仰を認めつつ、一つにまとめて行く努力をして、やがてユートピアが…というのは凄く魅力的に感じます。でもどうなんでしょうね!?何でも独裁的な物を嫌い、信仰の文化がなく自分達に都合のよい物だけを取り入れてきた日本人に 信仰の統一なんて無理のような気がしてなりません…もし、出来るとしたら見せかけや言葉ではなく、本物の愛だけによる気がします。
果たして大川先生にそれだけの愛があるのでしょうか?わたしは幸福の科学の信者ではないけれど、一方的に嫌ってもいません。ただ興味と同時に大いに疑問も感じます。なので、第三者の意見として言います。
わたしにはどうしても愛のある人には見えません…ごめんなさい。
理由は色々ですが、裁判の事や学校のいじめの事など…その他色々です
ゆーぱ様嫌な事ばかり書いてごめんなさい…
日本が本当に良くなって欲しい気持ちでいっぱいです本物の神様って何処にいるのでしょうね…。
今回も長文のコメント、ありがとうございます。
そこで、私にも、日本の宗教事情について、ちょっとうんちくを傾けさせてください。
あんまり学校では教えられてない話かもしれませんが、日本では、太平洋戦争の敗戦まで、「日本神道」(またはそれを発展させて明治時代に創設された「国家神道」)という宗教が、実質的な国教でした。その最高神官の立場にあるはずの天皇が、日本国憲法で国の象徴とされているのは、その名のこりなんだって話は、ご存じでしたか?
なつきさんが指摘される点は、儀式だけあって教義がないのが特徴である、日本の民族宗教「日本神道」の問題点なんだと思えます。
この日本神道の国に、聖徳太子の時代あたり(6世紀ころ)を中心に、外国の高等宗教である仏教が伝来してきて、不足していた教義の部分を埋めたことで、「神仏習合」という現象が起きて、また明治時代に「廃仏毀釈」で分離されて、またそれが・・・、というような長い歴史が、日本の宗教界にはあるわけです。単に否定的にみるのではなく、日本人には、キリスト教も仏教も神道にも、そこに共通する神の教えを抵抗なく受け止めて問題ない、という基本的な感覚があるのだと考えると、日本人の行動パターンが、よりよく理解できるのではと私は思っています。
戦前までの日本人は、誰もがはっきり信仰を持ってたんだと思います。なつきさんが指摘される「何でも独裁的な物を嫌い、信仰の文化がなく自分達に都合のよい物だけを取り入れてきた」という日本人は、二千年以上に及ぶと言われる日本人の長い歴史の中で、戦後のここわずか60年やそこらのことでしかありません。ですから、日本人は目を覚ましさえすれば、もっと本来の長所を出して世界をリードすることができる民族だし、日本という国は必ずもっともっとよくなるはずだと、私は思います。
・・・そこで、です。残念なことに、なつきさんが、大川隆法先生を愛ある人には見えないなどと悲しいことを言われる理由が、「裁判」とか「いじめ問題」にあるのだとすれば、それは情報不足か、あるいはネットに流されてる曲がった情報が原因ではないでしょうか? まずは、次のサイトを一度のぞいてみて、裁判について正確な情報を得られることをお勧めさせてください(幸福の科学の公式HPからもリンクされているサイトです)。
幸福の科学法務室ホームページ
http://www.justice-irh.jp/
もちろん、なつきさんが言っておられる意味での本物の神さまは、幸福の科学におられるのだと、私は確信しています。
どうしてそう考えるのかは、この1年半余りでちょうど600個の記事を書くことができましたので、その中で、たとえば以下のような過去の記事を参照していただくと、少しは分かっていただける部分もあるのかなあと思うのですが、いかがでしょうか?
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/7dc8264e9c64b8fd6d93184eaed0a1d6
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/ff2b633b5d4660cb7e90d7fc91bc5073
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/72eca60673b82edd062eebffa4a8c6fa
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/fcc94adb2e4a19d9e8f233915745704b
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/2f1087a0ad2bc3f09553cefae8b4e997
うーん、これだけ書いたんですが、なかなかすっと分かっていただきにくいのかなあ。力不足で申し訳なく思います。
いずれにしても、またときどき遊びに来てくださいね!
反省…
わたしは色々調べたり、相談出来る大人の人に聞いたりして幸福の科学の事を、あくまでも一般の人から聞いていました。
わたしには神様は一人しかいないように感じます。
毎日朝日を見るとそう思うんです。こんな素晴らしい世界を作るのはやはり神様しかいないって…。
1日1日がちゃんと毎日くるんですよ。
それがどの神様なのかは、まだ私には分かりません。変な文章でごめんなさい。ゆーぱ様へ なつき
昨日のは、ちょっと怒濤のように書きすぎてますね。すみません。
ただ、私は、なつきさんがおっしゃってることは、幸福の科学で教えられていることと、別に矛盾してないと思うんですよ。毎日毎日、朝日が昇って、一日がやってくる。太陽があって、空気があって、食べ物があって、素晴らしい世界で生きていける。そこに私たち人間が生きている。それが単なる偶然の産物なんて考える方が普通じゃないんであって、やはりそこに、この世界を作った神さま(造物主)の存在があるって、なつきさんのように感じるのが、当然なんじゃないかと思うんです。
ただ、そこで問題なのは、造物主=神さまで、それ以外にも神さまはいないと考えるのか。それとも、造物主の神さまがいて(当然一人というか、一体です)、それを支えるために聖なる仕事をしている高度に進化した人々もいて、その人たちまで「神さま」と呼ぶかどうか。それだけの違いなんじゃないかって考えてみたら、どうでしょう? 幸福の科学では、そういうふうに考えられてます。
というか、もっと正確に言うと、人間は3次元に生きてる存在、そして造物主=根本仏とは20次元以上の存在なんだけど、普通に宗教の世界で神さまと呼ばれるような高度な霊存在は、最高度でも9次元の存在で、この地球には10体存在する。そこまで行かなくても、キリスト教で「大天使」や「天使」と呼ばれたり、仏教では「菩薩」と呼ばれる存在は、8次元存在、7次元存在、そして6次元上段階の存在とおられて、この方々も神さまと呼ばれることがある。一神教の宗教は、そのうちの一人だけを神さまと呼ぶだけなんだけど、日本に神さまが多いと言われるのは(八百万神、やおよろずのかみ)、6次元上段階の存在まですべて神さまと呼ぶから、というのですが・・・。
こんな話なら、いくらでもしてしまうんですけど、おっと、今日も書きすぎですよね。
でも、こういう世界の話も、ちょっとだけでも聞いて(読んでみて)いただければと思うんですよ。
いずれにしても、また遊びに来てくださいね!
何故なら、1つしかないからこそ本当の神様だからです…って言葉にするとうまく言えませんが
やっぱり上手く言葉では表せません。ごめんなさい。それに20次元って他に聞かない言葉です…。それを信じるか否かは自由でしょうね…。でもわたしは神様がいてみんなを愛してくれてる。その事が本当にみんなに伝われば後は要らない気がするの…
ゆーぱ様上手く言えませんが、私が勉強不足なのかもしれません。お休みなさい
うーん、おっしゃってる意味は、私にもよく分かると思うんです。でも…、っていう話なんですよ、やっぱり。
あ、そうそう、「20次元」というのは、幸福の科学の最も大切な書籍のひとつである『太陽の法』に説かれている話です。
力不足で、文字のやり取りだけでは、人生観の根本に関わるこんな重大な話、なかなかうまく伝えきれないんですけど、でも私は、不十分ではあっても、このブログで淡々と、少しでも、断片であっても、なつきさんにも、お伝えすることができたらって思ってます。
また気が向いたら、コメント、くださいね!