信仰者なんだから、殺生はいけないんだよね。ベジタリアン(菜食主義者)として生きるのが正しいよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『真実への目覚め』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
人間よりレベルは下がるものの、動物にも魂は宿っていて、喜怒哀楽レベルの感情を持っています。
その意味では、「動物には魂が宿っていないから食べてもよい」という思想は、必ずしも正しいとは言えないのです。
では、ベジタリアンならよいのでしょうか。実は、植物にも、かわいいかたちではありますが、ささやかな魂は宿っているのです。
植物は、動物のように激しく動くことはできませんが、長時間、ビデオカメラで撮影し、それを高速で再生すると、植物も、ゆっくりとではありますが、やはり動いていることが分かります。彼らも生きているのです。
植物であっても、喜びを感じます。例えば、暑い日が続くときには、雨が降ると喜びますし、曇りの日が続くときには、太陽の光が射してくると、やはり喜んだりするのです。つまり、単純な意味での喜びや悲しみは植物にもあるわけです。
ただ、そういうことだけを言うと、人間は、そもそも動物も植物も食べられなくなって、生きていくことができません。そうであるならば、神がこの世に人間を創った意味がなくなってしまいます。
あとは岩石でも食べるしか方法がありません。ところが、実は鉱物も生きているのです。植物よりももっと緩やかですが、何千万年、何億年の月日をかけて、ゆっくりと結晶をつくっています。彼らも、実は、長い長い人生を生きています。
この世にあるものは、すべて命を持っているのです。(中略)
「あるものを、食べるか、食べないか」というようなことは、文化によって違いはあると思いますが、「ベジタリアンか、ベジタリアンでないか」というような区別だけでは駄目です。その考えだけでは十分ではないと私は思っています。
地球に住む生き物として、人間が最高レベルの魂を持っていることは、間違いありません。そして、人間は他の動物や植物を食べます。それは動物や植物にとっては気の毒なことではあります。しかし、別の目から見れば、彼らは人間の魂修行、人生の経験を助ける役割をしているわけです。人間に食べられることによって彼らは犠牲にはなりますが、それには、「人間の魂修行を助けている」という尊い修行をしている面があるのです。
したがって、人間のほうがなすべきことは、ベジタリアンであろうとなかろうと、食料を食べるとき、彼らに感謝の心を持つことです。
殺生の罪を感じるかもしれませんが、その分、感謝の心を十分に持ち、自分が、よい人生を生きること、よい仕事をすることによって、お返しをし、彼らの尊い命を、さらに活かしていかなくてはなりません。彼らの命を五倍十倍に活かしていく方向に使うことができれば、彼らも喜んでくれると思います。(中略)
人間が生きていく過程で、いろいろなものが犠牲になることはありますが、それを尊い犠牲としながら、よりよい社会をつくるために努力することによって、人間は、そうした罪を乗り越えていくことができると私は考えています。
(145~150ページ)
人間よりレベルは下がるものの、動物にも魂は宿っているし、植物にもささやかな魂は宿っている。
他の動物や植物を食べるのは気の毒なことではあるが、別の目から見れば、彼らは人間の魂修行を助けるという、尊い修行をしている面がある。
人間がなすべきことは、食料を食べるとき、彼らに感謝の心を持つこと。それを尊い犠牲としながら、よい人生を生き、よい仕事をすることによってお返しをすることで、人間は、殺生の罪を乗り越えていくことができる──。
以前、このテーマについてご紹介したこともありましたが、今日のお教えで、ベジタリアンならいいというような単純な話ではないことが、より深くわかった気がしています。
仏であられるからこそ、霊的観点から説かれるそのお教えの深さ。
ほんとうにありがたいことだと私は心から思っているのです。
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『真実への目覚め』
大川隆法著 |
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