殺人事件を扱ったミステリもののドラマで、刑事が死体のことを、「ホトケさんは…」なんて言ってたりするけど、やっぱり「人は死んだら等しく仏になる」からなのかな。それって、正しい考え方なのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
人間の平等性というものを追究していくと、「どの人にも仏性があり如来蔵がある」という思想になっていき、これが納得性、説得性のある議論であることは事実なのです。
ところが、それでは、そのような可能性を持っているのなら、みんなが同じなのかという疑問点が出てきます。「もしみんなが同じだったら、修行というものはいらない。この世の努力精進というものはまったくいらないし、過去・現在・未来と転生輪廻していく過程はいったいどうなる。三世の因果はいったいどうなる」という疑問が出るわけです。これに答えられないのです。
これに答えるためには、やはり平等と公平の両方の観点がいります。平等の可能性を持っていながら、ずっと「因・縁・果」が続いてきて、その努力、修行の結果によって公平に処遇されているのです。
もし、人殺しをした人も、人を救った人も、同じく天国で暮らすだけだったら、これは天国自体が地獄になっていきます。そんな人殺しばかりするような人と菩薩が一緒に住んでいたら、そこは天国ではなくて地獄に変わるはずです。ですから、行く先が違ってくるのです。
平等と公平の問題を理解できなかった場合には、仏教の思想も、歴史的にはこのように流れてしまうということを、ここで見ておかなければいけないのです。
ここで、「仏性がある」ということが、すなわち「成仏できる」(仏性=成仏)ということではないということを、結論としてはっきりしなければいけないのです。
仏性はあっても、五割以上は地獄に堕ちているわけですから、それを救うのが宗教の使命です。もし、「仏性があるから、みな成仏できるのだ」と言ってしまったときには、宗教の使命はそこでなくなって、放棄したことになります。これは安易ですし、間違いを含んでいます。新興宗教のなかの間違った流れには、このようなものがものすごく多くあります。
(224~226ページ)
「仏性」(ぶっしょう)というのは、人間はもちろん生命あるものの中心に宿っている、神仏の光のエネルギーのこと。「如来蔵」(にょらいぞう)というのは、仏教学において仏性とほぼ同義語として使われる言葉。
人間が等しく仏性を持っているという意味では、人間は「平等」に扱われている。
でも、だからといって、長い転生の過程で仏神の御心に沿った修行をしてきた人とそうでない人が同じに扱われるのは、不公平である。
その努力の結果に応じて、たとえば菩薩になる人もいれば、地獄の悪魔になってしまう人もいる。その意味で、人間は「公平」に扱われている。
だから、「仏性がある」ということがすなわち「成仏できる」ことを意味しない──。
今日はちょっと難しいお教えでした。
でも、こんなふうに「平等」だけでなく、「公平」の観点もあわせて考えてみると、〝人間が死ぬことがすなわち成仏だ″などというのは、まったく間違った考え方であることがよく分かります。
今日は、仏教理論のひとつを、自分なりにしっかりと腑に落とすことができた気が私はしているのです。
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『悟りの挑戦(下)』
大川隆法著 |
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