あの世なんて、ほんとにあるの。神仏が、あの世があることを知らせようとして宗教を起こすなんて話も聞いたけど、そんなことするくらいなら、最初から分かるようにしておけばいいじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『死んでから困らない生き方』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。
私は、一九八一年三月に悟りを得る以前から、あの世の存在を信じてはいたのですが、霊的世界を実体験する前と後とでは、やはり、その差は大きいものがありました。概念的にというか、頭のなかで信じているのと、実体験するのとでは全然違うのです。
霊的存在が現実にいて、私に何かを伝えようと話しかけてきたり、あるいは、私が心のなかで何かを発信すると、それに答えようとしたりするわけです。
霊人たちは、この世で生きている私たちの生活を見守っていて、何らかの感想を持ち、意見を言ったり、アドバイスをしたりしたがっているのです。
別の視点からいうと、「私たちは、四六時中、霊人たちから見られている」ということです。これに耐えられる人というのは、ほとんど、いないでしょう。
そのため、一般的には、霊が見えないように、あるいは、霊界のことが実生活にあまり入らないように、仕組みとしては出来上がっています。
例えば、家でご飯を食べていて、「あっ、亡くなったお祖父さんが、そこに座っている!」などと言いながら気楽に過ごせる人は、世の中に、それほど多くはいません。
亡くなったお祖父さんが横にいたら、「うわ!」と驚いて、「何か悪いことをしたでしょうか。お墓にお詫びに行かなければいけないでしょうか」などと思うのが普通でしょう。(中略)
普通の人は、「あの世があるかどうか分からない。霊の姿は見えないし、霊の声も聞こえない」と言うわけですが、だからこそ、世の中はうまく回っているのです。
「神や仏が、あの世があることを知らせようとして、宗教を起こすくらいなら、最初から分かるようにしておけばよいではないか」という考えもあるでしょうが、実際に、ずばり分かってしまうと、この世での魂修行にかなりの支障が出るのです。
それだけではなく、あの世の霊人にとっても、支障が出てきます。すなわち、この世に直接的な干渉ができるようになると、ある意味で、この世に対する執着ができてくるのです。
そして、亀を棒で突くように、あの世の霊人が「ああしろ、こうしろ」と言ってあまりに干渉するようになると、この世の人は、責任ある主体的判断ができなくなってしまいます。
そういう理由から、あの世の霊人は、間接的なインスピレーションを与えることはできるけれども、地上の人間が、あくまでも、自分の考え方と行動に責任が取れるように、あまり干渉できなくなっているのです。(中略)
あえていうと、自動車教習所で、教官が横に座り、教習生の運転している様子をじっと見ているようなものです。危ないときには、パッと手を出してハンドルを取ったり、急ブレーキを踏んだりしますが、それ以外は本人に運転させています。
それと同じように、あの世の霊人も、ある程度、地上の人間の実力に任せていて、「万一のときに、危険防止だけはする」というぐらいのところで、干渉を止めているわけです。
(14~19ページ)
四六時中、霊人たちから見られていることに耐えられる人は、ほとんどいない。
また、実際にそれがずばり分かってしまうと、この世での魂修行にかなり支障が出てくる。
あの世の霊人にとっても、この世に直接的な干渉ができるようになると、この世に対する執着がでてきて、支障が出てくる──。
あの世があることが分からないことは、一見不合理ではあります。
でも、よくよく考えてみると、霊の姿は見えないし、その声も聞こえないからこそ、あの世もこの世も、うまく回っている。
こんなふうに具体的に教えていただくことで、あの世とこの世の真実が、改めてよく理解できる気がします。
そして、そんな仕組みとなっているこの世で私たちが魂修行できるのは、ほんとうに仏の慈悲でもあるのだと私は思っているのです。
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『死んでから困らない生き方』
大川隆法著 |
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