大川隆法先生って、救世主なんだってね。でも、キリスト教では、アンチキリストに気をつけるように教えられてるんだと思うんだ。幸福の科学の教えは正しいんじゃないかと思ってるんだけど、キリスト教の教えと、大川隆法先生が救世主だってこと、どう考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『真実への目覚め』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
「アンチキリスト」について、考え方は、いろいろあるでしょうが、キリスト教の教会の二千年の歴史を振り返ってみると、「自分たちの考え方に合わない意見が出てきたときには、アンチキリストという考え方を使うと非常に便利である」という面はあったのではないかと思います。
その意味で、「最初の教えを維持する」ということにおいては、その考え方には有効な面もあるかもしれません。
ただ、時代が変わっていくときには、当然ながら、人を救う方法も変わっていかなくてはならない面があります。イエス以後も、新しい宗教が次々と出てきていますが、それらがすべてキリストの考え方に反するとは私は思っていません。
例えば、キリスト教では、いろいろな霊界思想が出てきたのですが、それらは、ことごとく、異端思想として排除されていきました。
しかし、生前のイエスは霊的な話もかなりしています。それは、今遺っている『聖書』のなかにも、いろいろなところに出ています。例えば、イエスが悪霊を追い出したりする記述は数多く出てきています。また、イエスは、「自分の前に、エリヤは、すでに来たのだ」とも言っています。これは、「バプテスマのヨハネが、ユダヤの預言者エリヤの生まれ変わりのような立場で出た」ということを言っているのです。
『聖書』に遺っているイエスの言葉から見ても、霊的な能力や、「あの世から、この世に生まれてくる」という思想は窺えるのですが、教会が『聖書』を編集していく過程において、かなり整理をしたものと思われます。
キリスト教の歴史には確かに異端のものもあったとは思いますが、他の世界宗教のなかには、それと共通する思想を持つものも数多くあるので、玉石混交というか、正しいものも間違ったものもあったであろうと考えられるのです。(中略)
「その教えが正しいか間違っているか」ということを判断する基準は、イエス自身が言った言葉そのもののなかにあると私は思います。それは、「よい木かどうかは、どのような果実を結ぶかによって判断する以外にない」ということです。それで判断すればよいのです。
その教えを信じる人たちが、おかしくなっていくなら、その教えを説く人はアンチキリストかもしれませんし、その教えを信じることによって、人々が、正しい道に入り、正しい信仰に入り、繁栄への道に入っていくならば、その果実は、よいものだと考えることができると思います。
これは宗教だけに限ることではなく、一般の企業でも同じですが、やはり、より多くの人に支持されなければ、よいものとして認められることはありません。
最終的な判断基準としては、それ以外にないと私は考えています。
(140~144ページ)
キリスト教会が、自分たちの考え方に合わない意見に対して、アンチキリストという考え方を使うと非常に便利だという面があった。
しかし、時代が変わっていくときには、人を救う方法も変わっていかなくてはならない面がある。
教えが正しいか間違っているかを判断する基準は、「よい木かどうかは、どのような果実を結ぶかによって判断する以外にない」というイエスの言葉で判断すればよい──。
大川隆法先生の教えで、ほんとうに私も私の家族も幸福になることができたと思っています。
また数えきれないほど多くの人が幸福になっているのを、実際にたくさん見聞きします。
この幸福の科学の教えというのは、その「果実」を見てもらいさえすれば、正しい教えであるのは間違いないことを確信しています。
一人でも多くの方が、この教えに触れて、幸福を手にされますようにと、心から私は願っているのです。
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『真実への目覚め』
大川隆法著 |
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