ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



お釈迦さまって、他の思想家から形而上学的な論争を挑まれたけど、何も答えられなかったんだって? これが「無記(むき)」だって聞いたことがあるんだけど、なんでなの。哲学的論争はできない方だったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マールンキャ・プッタという人が、釈迦に「人間の死後の生命はどうなるのか。生存はどうなるのか」「宇宙は有限か無限か」というような形而上学的な質問をしましたが、それに対して釈迦は答えなかったという話が『箭喩(せんゆ)経』のなかに出ています。これを「無記(むき)」といいます。そして語ったのが、有名な「毒矢の譬え(たとえ)」です。これは知っている方も多いでしょう。
 どこからともなく飛んできた毒矢が身体に当たって、死にそうな人がいました。そこで、矢を抜いて治療しようとしたら、その人が言うのです。
 「待ってくれ。矢を抜かないでくれ。この矢が、誰が射たもので、どの方角から飛んできたもので、いかなる種類の毒を塗っているのか、その説明を聞かないかぎり、治療してもらっては困る」
 そこで、治療しようとした人は、
 「しかし、そのようなことを言っていたら、その間に毒がまわって死んでしまう。いま必要なことは、そういうことではなくて、まず矢を抜いて、その毒がまわらないようにきつく縛り、血を抜いて、治療することである。矢は誰が射たか、どの方角から飛んできたか、矢は何の材質でできているか、何のためにその人を射たのか、そんなことを考えるのはそれから後でもよいだろう。まず治療することが大事だ」
 と、応えるわけです。
 すなわち、「人生の向上に少しも役立たない形而上学的な議論、この世的な具体性のない抽象的な議論ばかり重ねても、人はよくなることも救われることもないのだ。そういう議論に立ち入ることを避けて、まず、あなた方は自分の人生を正しくせよ。まず、正しき心の探究をしなさい。八正道を究めなさい。そうすれば、あなた方は、その苦しみから逃れて幸福な道に入れるのだ。まず、それを実践しなさい。『霊魂が死後どうなるか』とか、『宇宙は有限か無限か』とか、そんな話をしたところで何になるか」ということを言っているのです。
 これが「毒矢の誓え」で語った話なのですが、弟子たちはその真意がわからないため、「では、死後の世界はないのだ。宇宙はないのだ。この世だけなのだ。この世だけきちんと生きればよいのだ」という説明になっていくのです。(中略)
 これは対機説法です。
 ただ、その人に合わせた話をしているのに、すぐ一般化するワンパターン人間がいます。一般化するときに、知力が弱いと杓子定規になっていくわけです。
(156~159ページ)

問いに対して、あえて答えないことも、その人に対する愛だってことも、実はある。

そして、その説法を単純に一般化してしまうと、仏の真意は間違って伝えられていく。

仏の教えは、対機説法であって、ある時、ある場所で、ある人に対して、その機根に合わせて縦横無尽に説かれるもの。

だからこそ、法を受けとめ、これを後世に伝えていく弟子たちにも十分な知恵が必要であると私は思っているのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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千日回峯(せんにちかいほう)で、阿闇梨(あじゃり)になったお坊さんっているよね。やっぱり悟りを得るためには、山での厳しい修行が必要だってことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、二千五百年前のお釈迦さまの悟りを解説して、こう説いておられます。

 二十九歳までのカビラ城のなかでの優雅な生活、物質的に恵まれ、快楽に恵まれた生活のなかでは、人生の本当の意味、疑問に答えてくれるものはなかった。快楽のなかにあるものは、人間としての堕落だった。(中略)ゆえに、極端な快楽のなかに生きることは、人間を真に幸福へと導く道ではない。少なくとも悟りという名を冠したところの幸福に導く道ではない。
 一方、六年に及ぶ難行苦行の道も、結局、それは肉体をいじめぬき、最後は地上の生命を断つという論理的帰結になるだけであって、もし、この世に生まれてきた人間が、みずからの生命を断つことが修行であるならば、生まれてこなかったほうがよいということになる。論理的に考えてもそのようになる。何のために生まれてきたのか、その意味がない。生まれてきた意味、人生の意味という疑問に対する答えとはならず、それからの逃避となっている──。(中略)
 考えてみれば、たとえ針のむしろの上に坐ったところで、たとえ一本足で立ちつづけたところで、たとえ水のなかに魚のように潜ったところで、人間としての魂の向上、認識力の向上、知性や理性に沿った発展ということは、到底考えられないのです。
 仏教の思想においては、両極端を去って中道に入ろうとしたということ、その発祥における行動の原型というものが、仏教思想の大きなバックボーンになっているということを、まず知らなければいけません。
 ゆえに、実践論的観点からの中道とは、快楽主義あるいは苦行主義といった両極端を否定して、中(なか)なる道に入るということです。これは、ほどほどの道に入るという意味では決してなく、極端を否定したところに現われる境地なのです。「結局、その両極端には答えがない」ということを、はっきりと知った後に得られた境地であり、ほどほどの、いいかげんな生き方をすれば得られるという境地ではありません。それをまず知っておいてください。
 これが実践論的観点からの中道です。これは、現代においても、悟りを求めていく際に参考とされる考え方の一つではないかと思えるのです。
 現代でも、難行苦行をしている人はまだたくさんいます。インドにもいます。日本にもいます。山のなかで千日回峯をして阿闇梨(あじゃり)になったというような方もいます。もちろん、身体は健康になるでしょう。あるいは精神力も鍛えられるかもしれません。ただ、これは悟りとは無縁の行為です。それ以外のいかなるスーパーマン的な修行方法も、実は悟りとは無縁のものです。
 一方において、堕落した生活──みずからを甘やかし、みずからの欲情のままに生きるような生活のなかで悟りが得られるわけではないのも、もちろん当然のことです。
 ゆえに、「みずからを律し、中道に入って修行する態度をとってこそ、修行者は悟りを得る道に入るのだ」という実践論的な観点を知らなくてはなりません。
(22~26ページ)

「実践論的観点からの中道」という難しい言葉が出てきています。

要は、抽象的な思想としてではなく、修行論として実践的に「中道(ちゅうどう)」という言葉を考える、とでも理解すればいいんでしょうね。

こうしてお釈迦さまは、快楽主義を否定し、苦行主義もまた否定した、中(なか)なる道、つまりは日々の生活の中でみずからを律し、心の修行を地道に推し進めていくことこそが、悟りへ向かう「王道」であることをつかまれた──。

・・・うーん、今日はちょっと難しかったでしょうか。

この「悟り」の問題については、大川隆法先生は本当にさまざまな角度から説いておられます。

また別の機会に、そのお教えをご紹介するなかで、この悟りの意味をもっと深めてみたいと私は思っているのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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キリスト教で教えられる「処女懐胎」って、ほんとなのかな。イエスさまは救世主だったのに、なんで十字架にかけられてしまったの。キリスト教の本を読んでも、どうしても納得できないんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 『聖書』には、「処女マリアが懐妊してイエスを産んだ」ということが、奇跡として語られていますが、これについて考えてみましょう。
 現代でも、結婚式のとき、すでに妊娠していて、おなかの大きい花嫁さんはよくいます。おなかが大きいために、新婚旅行に行けないという人もいます。
 結論的に言えば、おそらく、二千年前にそういうことが起きたのだと考えてよいでしょう。結婚前に身ごもったのだろうと思います。それだけのことです。
 しかし、宗教としては、それを「処女懐胎」と称し、二千年間、押し通しています。ずっと押し通すと、それなりに論理が通ってきて、むしろ、それが神秘的な部分になってくるのです。
 そうすると、単なる男女の問題ではなくなり、「人間というのは、肉体としてのみ生まれるのではなく、聖霊が宿って生まれるのだ。魂が宿るのだ」という、神秘的なものになってきます。そして、「聖霊が宿って、イエスが生まれたのだ」ということを重視する思想になります。確かに、「聖霊が宿る。魂が宿る」というのはほんとうのことです。
 さらに、「イエスは罪なくして生まれたのである。穢(けが)れなくして生まれたのである」ということを象徴的に表すことになります。この世的には、強引にこじつけた話でしょうが、象徴的には、そういうことになるのです。
 では、イエス自身についてはどうでしょうか。
 イエスは教えを説き、彼には十二人の主要な弟子がいました。また、彼に従う群衆が何百何千といました。ところが、三年あまり伝道をすると、彼は罪人と一緒に十字架にかかって死んでしまいました。
 弟子たちは、「十字架にかかっても、天使が来て救うのではないか。最後に奇跡が起きるのではないか」と思って見ていたのですが、イエスはそのまま死んでしまったのです。奇跡はまったく起きず、だれも助けに来ることはなく、いばらの冠をかぶせられたイエスは、ほんとうに死んでしまいました。これは大変な驚きでした。
 弟子たちはショックを受け、いったん離散して、いなくなってしまいました。
 しかし、やがて、弟子たちは、この罪人として死んだ人のことを、「救世主である」と主張しはじめ、「イエスは復活した」と言い出します。そういう信仰を立てて、押し通すのです。そうすると、しだいにそれが通っていきます。
 イエスの復活は、魂においては、そのとおりです。肉体は死んでも、魂は死んでいません。この世では罪人として死んでも、天上界では、偉大な魂として、よみがえっています。復活は、そのことを象徴しているのです。
 ところが、『聖書』を読むかぎりでは、ゾンビのように肉体的によみがえったとしか読めません。そのように書いてあります。かなり強引であり、それは事実ではないのです。
 しかし、そのような復活の思想を打ち出し、救世主信仰を立てています。この世的な見方からすると、まったく正反対であり、百八十度違う話ですが、そういう信仰を立てて、押し通すわけです。
 押し通しているうちに、それが、しだいに真実になっていきます。不思議ですが、これが宗教の世界なのです。(中略)
 宗教には非常に不合理なところがあります。「不合理なればこそ、我、信ず」「不合理であるからこそ信じる」という部分が、宗教にはどうしても残るのです。(中略)
 その不合理ななかに、実は象徴的なものがあります。肉体的、物質的なもの、この世的なものを超えた、象徴的な真実があります。その象徴的な真実を誰もが信じはじめたときに、それは不滅のものになるのです。
(131~137ページ)

キリスト教の方にとっては、ここで説かれている教えは、にわかに納得しがたいかもしれません。

けれども、いくら二千年前の話だからといって、象徴的になんとなく読むのではなくて、自分の頭でその意味をしっかりと考えてみるのも、大切なことなんじゃないでしょうか。

二千年前にイスラエルの地で何が本当に起きたのかは、現代日本に生きている私たちにも十分に理解できます。

その一助となる大川隆法先生の教えの一部を、今日はご紹介してみました! 


『大悟の法』

大川隆法著

 

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 仏教の教えで、「空(くう)」ってあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、やっぱりいませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「唯神(ゆいしん)実相哲学」という言葉がありますが、これは「唯光(ゆいこう)実相哲学」と言い換えてもよいものです。
 「三次元、四次元、五次元などという世界があると言われているが、ほんとうは、そうしたさまざまな世界があるわけではない。ただ光のみがある。その光が実相をつくっている。光のみ実相である。その光が変化した姿が、さまざまな世界のありさまをつくっている。霊の世界における仏の光が、いろいろなかたちで霊体をつくり、また、霊体のなかにある光子体をつくっているのだ。
 地上に現われるときには、それが霊子という核をつくり、霊子がもとになって、現代物理学でいう素粒子が誕生する。そして、素粒子がさらに大きな物質を構成していくのである」
 こうした世界観があるのです。これは現代物理学の最先端とも一致しています。最先端の物理学によると、「素粒子というものは、粒子でもあり、波動でもある」と言われています。素粒子は、粒子としての性質を持ちながら、同時に、波としての性質も持っているのです。いま述べた世界観からは、素粒子が粒子の性質と波の性質の両方を持っているのは当然と言えるでしょう。
 仏の光という霊的エネルギーが物質をつくり、その物質が分解されると、霊的エネルギーに還元されるのです。このように、「エネルギーと物質が循環している」という思想も、「空」の思想と言うことができます。
 「色即是空、空即是色」は、この観点から説明することもできます。現代の優れた科学観をもってすれば、こうした領域まで「空」の思想は発展していくことになるのです。
(163~165ページ)

仏教の中核理論の一つである「空」について、大川隆法先生は、さまざまな角度から分かりやすく、しかも論理的かつ合理的に教えておられます。

前回に続いて、今回も、さわりのところだけアタックしてみました! 

 

『釈迦の本心』

大川隆法著

 


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「転生輪廻」って、人があの世からこの世に何度も生まれ変わるってことでしょ。幸福の科学では初歩的な霊的真実として教えられてるけど、キリスト教は認めないじゃない。なんでそんなことになるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 イエス在世当時には、イエスの教えのなかには、転生輪廻の教えもかなり入っていたのです。(中略)たとえば、転生輪廻の思想をイエス自身が知っていた、あるいは教えていた証拠として、弟子との問答のなかで、「人々は私のことを何と言っているか」とイエスが問うと、弟子が「ある者は『エリヤの再来だ』と言っています」という言葉で答えているところがあります。そのように、かつての有名な預言者が生まれ変わって出て来るものだということを、当時の人たちは思想として持っていたのです。ですから、転生輪廻を知らないはずはないのです。
 そういうものも数多く入っていたのですが、それは、キリスト教がローマの国教化していく過程で、削除されていきました。エジプトその他の地域の宗教では、そういう転生輪廻の思想はかなり明確に出ていますから、それとの違いを強調するために削っていったのだろうと思います。
 しかし、そのために、現代のクリスチャンたちは、転生輪廻をなかなか認めません。仏教と相対時するときに、「あの転生輪廻という思想が、どうもいただけない。あれだけは悪魔の教えではないのか」と思ったりするようになります。(中略)
 それを修正するために、十九世紀後半あたりから、スピリチュアリズム(心霊主義)という運動で、天上界からいろいろな霊的指導を行なって、あの世のことをいろいろ教えたりしました。また、エドガー・ケイシーのような人を出して、リーディング(霊査)によって、転生輪廻があるということを教えたりしました。このように、キリスト教徒の啓蒙のために、いろいろと努力しています。
 しかし、この千数百年のあいだに改変されてきたギャップを埋めるのは、非常に難しいことだと感じています。
(211~214ページ)

確立してしまった教えを奉じるクリスチャンにお伝えするのは、簡単ではない。

けれども、やっぱり天上界はあって、そこから人間は、魂修行のために生まれて来る。

そして、百年にも満たない短い人生を終えたら、その世界に還って行き、また違う時代に別の名前で生まれてきて──。

イエスさまも実は認めていた、この「転生輪廻」こそが、真実の世界観なのであること。

一人でも多くの人に、この真実を知ってほしいと私は強く願っているのです。 

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 


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「無我」って、よく聞くんだけど、何のことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたが、あなた自身だと思っているものは、実は皮袋にしかすぎないのです。皮袋なのです。それをあなたは、あなただと思っているのです。
 永遠に尽きることのない、永久の、悠久の大河である神仏のエネルギー、そのなかに生きているものがあなた自身です。その悠久の大河に、羊の皮袋でもって水をすくい、それをくるんだものを、あなたは自己だと思っている。この皮袋のなかに入った水たまりが自分だと思っている。しかし、それはほんとうのあなたではない。それは皮袋の感覚にしかすぎない。
 眼・耳・鼻・舌・身・意というものを否定した、真実の自己というものを見つめなさい。まず、その眼の感覚によって見えるもの、それがほんとうの姿であるかどうかを、もう一度、深く深く考えてみなさい。
 たとえば、夏の虫で蛾(が)というものがあります。この蛾は、光を見れば飛んでいきます。それが熱を持っていない灯(あかり)なのか、それとも自分の身を焦がすような炎なのか、その区別さえつきません。彼らは、灯を見ては飛んでいきます。
 それが小さな生き物だから、そのように見ることができますが、人間もまた、そのようなものだということを知らなくてはならないのです。あなた方も実は、その灯を求めて飛んでいく蛾のような、愚かな生き方をしているのです。
 なぜそうなるのか──。そう、無明(むみょう)だからです。自分自身が灯のない状態だからです。そして、灯と思うものを求めて飛んでいくのだけれども、それが実は、真実の灯ではなく、身を焦がす蝋燭(ろうそく)の炎であることがよくあるのです。
 蛾においては、それは眼の錯覚ですが、人間においても同じことがあります。眼を通しての錯覚、鼻を通しての錯覚、耳を通しての錯覚もあります。あるいは舌を通しての錯覚、指先、手を通してなどの肉体の感覚、こうしたものの錯覚が、ほんとうはあるのです。それによって、善悪美醜というものを感じとっているのです。しかし、それらの感覚は、ほんとうは魂から見た善悪美醜とは違ったものに価値を感じていることがあることを、あなた方は知らなければなりません。
 肉体を持ってこの世の生活をしていても、そのなかに霊的なる意味合いのあることも、もちろん数多くあります。それを見抜いていくことこそ、ほんとうの智慧ですが、そうではなく、この世的な価値観に付属した、肉体感覚的な自己像や他人像に狂わされると、蛾のように身を滅ぼしていくことになるということを、繰り返し繰り返し、私はお話ししているのです。
(31~33ページ)

だからこそ、この肉体感覚から来る、にせものの我(われ)を否定しなさい、と。

これが、2500年前にインドの地で、釈尊(お釈迦様)が説かれた、「無我」の思想だった──.

これを大川隆法先生は、現代日本の言葉で、さまざまな角度から分かりやすく説いておられるわけです。

今日は、仏教思想のなかでも最重要の言葉のひとつ、「無我」のお教えをご紹介してみました!

 

『沈黙の仏陀』

 大川隆法著

 

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「中道(ちゅうどう)」って言葉を聞くことがあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

私は、あなたがたに、よくよく言っておきたいと思う。
人は、ともすれば成功とともに階段を上ってゆくが、
その時に、同時に自分は失敗への階段を下りているということも、
忘れてはならない。
成功への道と、失敗への道は、
その傾斜が急であればあるほど、
また明らかに、くっきりと、
表裏一体のごとく現われてくるものであるのだ。
成功することのない人は、失敗をすることも少ないであろう。
しかし、多く成功する者は、多く失敗することもあるであろう。
人生は、このように、
常に、右と左、上と下とが、
あざなえる縄のごとく、現われてくるのだ。(中略)

しかし、私はその時にあなたがたに言っておきたい。
自らの心に誠実になり、常に中道を旨とせよと。(中略)
人生の王道がここにあるということを知りなさい。
すなわち、成功の時には、得意の時には、また上げ潮時には、
常に、自らを戒め、謙虚に生きるように心がけなさい。
謙虚であると同時に、
他の人びとや仏に対する感謝を忘れてはならない。
成功の時に、順調の時に、謙虚さと感謝を忘れない人間であるならば、
さらに、その成功は大きく続いてゆくであろう。
その成功がいくら大きくなったところで、
それを中道から外れたとは言わないのだ。
中道から外れない成功とは、
謙虚さと感謝をともなうものなのだ。
謙虚さと感謝をともなう成功は、
これは常に中道のなかにある。
それは、すべてのものを生かしてゆく道であるからだ。
自らが成功することが、
他の者の失敗を呼びこむようであってはならない。
自らの成功が、他の者を傷つけることであってはならない。
自らの成功が、他の者を不幸にすることであってはならない。
成功への道は、万人を生かす道でなくてはならない。
(63~67頁)

中道とは、人生の王道。

成功のときには、謙虚さと感謝を忘れないこと。

そうすれば、自分の成功は、他のすべてのものを生かしていく成功となっていく──。

「中道」の理論には、いろんな説明の仕方があるように思います。

今日ご紹介したのは、これを大川隆法先生が「再誕の仏陀」として説かれた一節です。

ここに込められた言魂をしっかりと味わい、心に刻んでおきたいと私は思っているのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著

 

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「空(くう)」って、仏教の教えで聞くことがあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的世界、霊界世界の存在というものを認めると、「空」の説明というのは、実に簡単なものになってしまいます。「要するに、この世的な物なるものは、本質的なるもの、実体のあるもの、かたちを決して変えないもの、常住なるもの、実在なるものではない。霊的世界、あの世の世界にあるものこそが実在であって、この世は仮の存在である」。(中略)
 この世の人、たとえば宗教を知らない人にもわかる「空」の説明とは、次のようになります。
 たとえば、「長良川という川は、本当に有るのか、無いのか」という議論を立ててみます。
 まず、「長良川は有る。それは実在する」と言う人がいます。では、長良川なるものをとって見せてください。どれが長良川ですか。長良川の水を汲んでバケツに入れて、「この水は長良川です」と言っても、それは長良川だと言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。それは長良川の水ではあろうけれども、長良川そのものではありません。
 また、長良川のこの砂利をとって「これが長良川だ」と言えるでしょうか。言えないはずです。
 では、地図を見せて、「長良川というのはここから始まって、ここの海で消える、この長きのことだ」と言って、それで長良川というものの実体の本当の説明になっているでしょうか。そうではないはずです。
 では、長良川とはいったい何なのでしょうか。
 その川の流れを止めてしまったらどうなるでしょう。その上流で止め、下流で止めて、水を一滴も出さないようにしてしまって、その土と水をまるごと箱庭のようにドンと出して、「これが長良川です」と言えば、それを説明できたことになるかというと、どうでしょう。川の水を止めることができるでしょうか。止めたときに、それは川でしょうか。おそらく川ではないでしょう。そこにできてくるものは、おそらく池であり、湖であって、もはや川ではありません。
 「すると、長良川なるものは、名前はあるけれども、実際に有るのか無いのか」という議論になってきます。そうしてみると、長良川なるものをとって説明することはできません。しかし、みんなが「それは長良川だ」という名で呼んで、有ると認識しているのです。
 このように、この世の存在というものは、名があって、有るように見えますが、その実体を取り出してみせることができないのです。〝変化しないもの〟というものを取り出して見せることは決してできないのです。
 人間ひとつをとってみてもそうです。毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が死んでいます。人間の身体に、生まれたときに持っていた細胞は何ひとつ残っていません。十年前のものも残っていないでしょう。骨だって同じものではありません。脳の細胞さえそうです。毎日毎日、消滅しています。
 そうしてみると、「あなたという人間はいったい何者なのですか。これがあなただというものを取り出せますか」と問うても、それを出そうとする瞬間に、すでに変わっているものなのです。
 そのように、この世においては、「これこそがカッチリとしたあなたである」「あなたの名前で呼ばれている人間はこれである」「長良川とはこれである」と出してみよ、というときに、出せるものは何ひとつないのです。
 すべてのものは変化のなかにあります。すべてのものは変わっていっています。これを「すべてのものは無常である」といいます。この「無常」──変わりつつあること、常ならずということ、これを「空」という言葉で説明しているのです。
(44~48ページ)

うーん、私にも、この説明は、とてもよく分かる気がします。

ただ、大川隆法先生は、この説明に続いて、「ただ、この「空」の説明は、あくまでも、この世の人にわかるように言った三次元的な説明のなかでの「空」です。したがって、間違った方向にいくと唯物論的に流れていくことがあることも、充分警戒してください」とも述べておられます。

その他の仏教の中核理論を、本当はどう理解すればいいのかについても、大川隆法先生は論理的かつ合理的で、しかもとても分かりやすく教えておられます。

興味を持った方は、ぜひ本書をひもといてみられることを強くお勧めしたいと私は思うのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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「涅槃(ねはん)」って言葉、ちょっと気になってるんだけど。「涅槃で待つ」なんて遺書を残して死んだ俳優が、昔いたんだよね。この「涅槃」って何なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結局、「涅槃」とは、この世的なる肉体を中心とした迷いを吹き消した状態に到ることです。これは実に、阿羅漢(あらかん)の境地と同一であることがおわかりかと思います。修行者として阿羅漢の境地に到ることが、すなわち涅槃の境地を得るということなのです。
 そこで、涅槃の境地を比喩的に述べると、次のような感じになります。
 山のほとりに、静かできれいな湖があります。その湖は人ひとりいないし、音もしないような静寂な湖です。この湖は、透明度が非常に高いので、湖の底まで透き通って見えます。そこで、舟に乗って、その湖面から湖底を見下ろしてみると、白い貝殻や玉砂利などが透けて見えてきます──。
 この貝殻や石が、実はこの世の苦しみを表わしています。みなさんが人間として生きているときに、いろいろな苦しみを得て、たいていの方はその苦しみのまっただなかで、もがいているわけですが、涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻を、透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地なのです。
 この世で生きておりながら、苦しみと七転八倒して格闘するのではなく、透明な湖の底の貝殻を見るように、「ああ、私はこういうところで苦しんでいたのだな。これは肉体的なこういう迷いによって起きたことなのだな。これをいま離れなければいけない。霊的な見地から見たら、その苦しみとはこういうふうに見えるものだ」と、達観した感じで見下ろすのです。それが透き通って見えるのです。要するに、実在界の眼で、この世の自分のあり方、苦しみの在処を見ること、それが「涅槃寂静」の境地なのです。
 ですから、人生の途上で、さまざまな苦しみや悩みが出てきますが、生きながらにして涅槃の境地を得た人は、いま述べたように、実在界から見下ろすようなかたちで、自分の悩みや苦しみを見つめることができます。そして、それに囚われません。それを取り出してみることができます。阿羅漢になれば、このような境地に達することができるのです。
(103~105ページ)

この「涅槃」というのも悟りの言葉であるわけで、世にある仏教書をいくらひもといてみても、なんだかわけが分からない感じしか残りません。

でも、大川隆法先生のお教えは、さすが「再誕の仏陀」(お釈迦さまの生まれ変わった方)であればこそ。それこそ驚くほど端的で、スパッとわかる解説ではないでしょうか。

でも、「阿羅漢」ってのは、やっぱりそう簡単に到達できる境地なんかじゃないこと。

心の修行の世界は、ほんとに奥が深いんだなあと改めて私は感じているのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著


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「縁起の理法」というのがあると言うけれど、素晴らしい人が報われずに早死にしてしまったり、悪いことしてるのに大手を振って繁栄してる人がいるのはなぜなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

よい原因をつくったにもかかわらず、
悪い結果が出ているように見えたり、
悪い原因をつくったにもかかわらず、
よい結果が現われているように見えたりすることを
「異熟(いじゅく)」といい、
その結果を「異熟果(いじゅくか)」といいます。
世の中の人には、
それはまことに奇怪なことのように思えるかもしれません。

しかし、よくよく観察していただきたいのです。
この世的には成功しているように見える人であっても、
その成功の原動力がその人の持つ欲望である場合、
その人は欲望の炎をさらに燃え立たせて、
大きな欲望へと変えています。
傍目には成功しているように見えても、
よくよく目を凝らしてみると、その人は燃えています。
眼も、鼻も、口も、からだも、心も、
炎に包まれ、燃えています。
煩悩の炎に包まれ、平安なる心を失って、
欲望のなかに、猜疑心や嫉妬心、恐怖心のなかに生きています。
したがって、結果を外面的な成功だけに求めてはなりません。
外面的な成功だけを求めた人は、
その姿をよくよく見るならば、苦しんでいるはずです。

一方、清く生きたにもかかわらず、
この世的には恵まれない最期を迎えた人もいることでしょう。
しかしながら、この世において努力したことは、
それが成就しなくとも、
その人の魂の糧として確実に残っているのです。

すなわち、「この世を去った世界が厳然としてある」ということが、
仏の、そして神の、公平な世界があるということの証明なのです。
仏神の心、その教えに則って生きた人が、
死後に苦しみを得ることはありません。
また、仏神の教えに反した人が、
死後、安らぎの世界に入ることもありません。
正しい心を持ち、正しく生きた人には、
正しい結果が必ず現われるのです。
それが仏の創った世界です。
それは実に単純明快な世界です。
報いられないということは、まったくありえない世界なのです。
みなさんはその世界を信じるべきです。

この世、すなわち現象世界においては、
原因と結果が必ずしも整合していないように見えます。
しかし、そうした論理的矛盾があるからこそ、
「世界はこの世だけではない」ということが明確に分かるのです。
この世以外の世界があってはじめて、論理が完結するのです。
これが原因・結果の法則、時間縁起といわれるものです。
(148~152ページ)

大宇宙を貫く「原因・結果の法則」(「縁起の理法」または「時間縁起」とも呼ばれる)は、この世では必ずしも成り立っていないように見える。

しかし、あの世があってはじめて、この法則は論理が完結することがわかる。

だからこそ、あの世は本当にあるのだ──。

論理的にものを考える人であればあるほど、これはとても合理的に理解できる話です。

純粋に神仏の教えを信じ切ることができるのは、とても尊いことです。

でも、ストレートに信じ切るのが難しい方もおいででしょう。

そんな方は、こういうちょっと違った切り口で、神仏がいかに公平な方なのかとか、「縁起の理法」の意味などを考えてみられたら、いかがでしょう。

それも「信仰」に入っていくための道の一つでもあるのだろうと私は思うのです。

 

『幸福の革命』

大川隆法著

 

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宗教の修行って、やっぱ座禅だよね。でも、あれって、どういう意味があるの。足が痛そうだしさ、坐るだけで、なんで悟れるのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 禅を修行している人は、無我というものを求めているわけですが、「ただ坐れ」という「只管打坐(しかんたざ)」を唱えた道元禅師(どうげんぜんじ)であっても、やはり過去世・現世・来世という三世(さんぜ)をしっかりと認めていた、ということを忘れてはなりません。それを「三時業(さんじごう)」といいます。三つの時の業ということで、「過去・現在・未来という三つの世界、その時間を人間は生き渡っていく存在である。その間の因果の理法というのは昧(くら)ますことができない。これが仏法の中心的考えである」ということを、道元は明確に語っていました。それを知ったうえでの禅定なのです。それを知ったうえでの只管打坐なのです(中略)。
 では、なぜ坐るか。坐禅して、いったい何があるのか。過去・現在・未来と流れていく時間の流れのなかに、そして諸法無我のなかに、いま忽然としてある自分を見つめることによって、その時間と空間の壁を突き破って、本来の自己に目覚めようとする、大宇宙と一体、神仏の心と一体の自己に目覚めようとする、その悟りを求めたものが禅定(ぜんじょう)なのです。もし、そのような世界がまったく存在しないならば、それは単に脚の訓練以外の何ものでもありません。(中略)
 仏陀は、それと訣別することによって悟りを得たのですが、肉体を苦しめることによって悟りが得られるという考えを持つ人も、いまだにいます。それは、逆説的なる意味において、また肉体に囚われているのです。この肉体なるものは悪なるもの、罪をつくるものと見て、これを滅却すれば悟れると思っています。しかし、単なる否定においては、悟りは現われないのです。
 いま肉体を持って生きているのであるならば、肉体を持っているなかにおいて、悟りを求めるべきです。悟りとは、それを否定して得られるものではありません。肉体のなかにおりながら、肉体感覚を超越した、超脱した自己というものを知らなくてはならないのです。それが悟りなのです。
(38~41ページ)

ちょっと漢字が多くて難しかったかなあ。

でも、座禅(禅定)の極意ともいうべき重要な教えが、この書籍では展開されています。

「過去・現在・未来と流れていく時間の流れ」(「諸行無常」)と、空間的観点から考えても、一切のものは実在でないこの世界のなかで(「諸法無我」)、大宇宙、神仏の心と一体である本来の自己に目覚めようとすること。これが、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の悟りなのだ・・・。

うーん。頭のなかで考えてるだけでは、わかるはずもありません。

そこで、ここで説かれた世界を実修し実感して、自分のものにするために、幸福の科学では、「精舎(しょうじゃ)」という修行施設がつくられ、そこで研修が行なわれているのだと私は思うのです。

 

『沈黙の仏陀』

大川隆法著

 

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キリスト教では、イエスさまが処女マリアから生まれたことや、死後の復活を認めないと、異端とかいって処刑されたりしたんだよね。それって、どうなのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 キリスト教においては、「処女マリアからイエスが生まれた」ということを信じなければ、だいたいにおいて異端とされると考えてよいと思います。時代によっては、迫害され処刑された方も数多くいます。
 一方、仏教においては、仏教を学ぶほどの人であるならば、釈尊がマーヤー夫人の右の脇の下から生まれたという伝説、あるいは、釈尊が兜率天から生まれ変わったという説話を、確かに知ってはいます。しかし、仏教の歴史においては、それを信ずるか否かによって正統か異端かを分け、信じない者に対し異端という烙印を押し、それを迫害して死に到らしめるということは、かつて一度もありませんでした。
 釈尊もイエスも、ともに聖なる者であり、その出誕にあたって神話ができるということは、宗教的真実として否定しがたいものではあります。しかし、その宗教的真実を、いかに解釈したかによって、このような二つの流れに分かれてきているように思います。
 ここに、仏教における深さ、寛容さを私は感じます。それは、そもそも仏教というものが、「ガンジス河の砂の数にも等しい、数限りない人びとの一人ひとりを、その機根に合わせて救いたい」という願いから出発しているからです。それぞれの人を救い、それぞれの人を幸福にするのに必要な教えを説くことが、仏陀の本心であったがゆえに、仏教においては、キリスト教のような異端論争が起きなかったのです。(中略)
 私自身は、イエスは父ヨセフと母マリアという正常な夫婦の子として生まれたと思っています。かつての歴史上の偉人、光の天使たちも、まったく同じ生まれ方をしています。聖霊がそのなかに宿ったということは事実ですが、「それが肉体上の親子関係を否定するようなものであってはならない。それは一種の迷信である」と言ってよいと思います。
 同じことがもう一つあります。それは、イエスの「死と復活」に関してです。『聖書』には、「十字架にかかって死んだイエスが、三日後に肉体をもって復活し、弟子たちの前に現われ、弟子たちとともに食事をした」というように書いてあります。『聖書』に書いてある以上、これを信ずるのが正統なクリスチャンであって、信じなければ異端というのが本則のはずです。
 しかしながら、今から二千年前、私は霊人として霊天上界からイエスを指導していましたが、当時、私の目に映じた事実は、「イエスの復活は、肉体をもっての復活ではなかった。それは魂としての復活であった」ということです。
 魂としての復活を遂げてこそ、イエスは救世主としての本来の使命を果たすことができたのです。それこそが、人びとを真に救いに到らせる思想であったはずです。肉体をもって生き返らなければ、イエスが救世主であることを証明することができないのならば、それは、キリスト教という宗教が唯物論に敗北したことを意味しています。
 かつての宗教において、肉体をもってしか復活できなかったような聖者はいません。魂をもって復活し、魂をもって霊天上界、高次元世界において多くの人びとを救うのが、救世主の第二段階の仕事であり、イエスの場合もまさしくそのとおりでした。
(19~23ページ)

ここでは、さりげなく、「今から二千年前、私は霊人として霊天上界からイエスを指導していました」と、重大な事実に触れられています。

そして、イエスさまは、父ヨセフと母マリアという夫婦の子として、普通に生まれた。また、イエスさまが死後復活したのは、霊として、魂としての復活であった──。

イエスさまのような聖者の出誕や死にあたって、後世、神話ができていくことは、宗教的真実として否定しがたいにしても、その解釈によって、異端として迫害したり、しまいには処刑までしてしまうようなことは、仏陀の御心ではなかったし、当然、大川隆法先生の御心でもないということ、なんですよね! 



『信仰告白の時代』

大川隆法著



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