「空(くう)」って、仏教の教えで聞くことがあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
霊的世界、霊界世界の存在というものを認めると、「空」の説明というのは、実に簡単なものになってしまいます。「要するに、この世的な物なるものは、本質的なるもの、実体のあるもの、かたちを決して変えないもの、常住なるもの、実在なるものではない。霊的世界、あの世の世界にあるものこそが実在であって、この世は仮の存在である」。(中略)
この世の人、たとえば宗教を知らない人にもわかる「空」の説明とは、次のようになります。
たとえば、「長良川という川は、本当に有るのか、無いのか」という議論を立ててみます。
まず、「長良川は有る。それは実在する」と言う人がいます。では、長良川なるものをとって見せてください。どれが長良川ですか。長良川の水を汲んでバケツに入れて、「この水は長良川です」と言っても、それは長良川だと言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。それは長良川の水ではあろうけれども、長良川そのものではありません。
また、長良川のこの砂利をとって「これが長良川だ」と言えるでしょうか。言えないはずです。
では、地図を見せて、「長良川というのはここから始まって、ここの海で消える、この長きのことだ」と言って、それで長良川というものの実体の本当の説明になっているでしょうか。そうではないはずです。
では、長良川とはいったい何なのでしょうか。
その川の流れを止めてしまったらどうなるでしょう。その上流で止め、下流で止めて、水を一滴も出さないようにしてしまって、その土と水をまるごと箱庭のようにドンと出して、「これが長良川です」と言えば、それを説明できたことになるかというと、どうでしょう。川の水を止めることができるでしょうか。止めたときに、それは川でしょうか。おそらく川ではないでしょう。そこにできてくるものは、おそらく池であり、湖であって、もはや川ではありません。
「すると、長良川なるものは、名前はあるけれども、実際に有るのか無いのか」という議論になってきます。そうしてみると、長良川なるものをとって説明することはできません。しかし、みんなが「それは長良川だ」という名で呼んで、有ると認識しているのです。
このように、この世の存在というものは、名があって、有るように見えますが、その実体を取り出してみせることができないのです。〝変化しないもの〟というものを取り出して見せることは決してできないのです。
人間ひとつをとってみてもそうです。毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が死んでいます。人間の身体に、生まれたときに持っていた細胞は何ひとつ残っていません。十年前のものも残っていないでしょう。骨だって同じものではありません。脳の細胞さえそうです。毎日毎日、消滅しています。
そうしてみると、「あなたという人間はいったい何者なのですか。これがあなただというものを取り出せますか」と問うても、それを出そうとする瞬間に、すでに変わっているものなのです。
そのように、この世においては、「これこそがカッチリとしたあなたである」「あなたの名前で呼ばれている人間はこれである」「長良川とはこれである」と出してみよ、というときに、出せるものは何ひとつないのです。
すべてのものは変化のなかにあります。すべてのものは変わっていっています。これを「すべてのものは無常である」といいます。この「無常」──変わりつつあること、常ならずということ、これを「空」という言葉で説明しているのです。
(44~48ページ)
うーん、私にも、この説明は、とてもよく分かる気がします。
ただ、大川隆法先生は、この説明に続いて、「ただ、この「空」の説明は、あくまでも、この世の人にわかるように言った三次元的な説明のなかでの「空」です。したがって、間違った方向にいくと唯物論的に流れていくことがあることも、充分警戒してください」とも述べておられます。
その他の仏教の中核理論を、本当はどう理解すればいいのかについても、大川隆法先生は論理的かつ合理的で、しかもとても分かりやすく教えておられます。
興味を持った方は、ぜひ本書をひもといてみられることを強くお勧めしたいと私は思うのです。
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『悟りの挑戦(下)』
大川隆法著 |
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