キリスト教で教えられる「処女懐胎」って、ほんとなのかな。イエスさまは救世主だったのに、なんで十字架にかけられてしまったの。キリスト教の本を読んでも、どうしても納得できないんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
『聖書』には、「処女マリアが懐妊してイエスを産んだ」ということが、奇跡として語られていますが、これについて考えてみましょう。
現代でも、結婚式のとき、すでに妊娠していて、おなかの大きい花嫁さんはよくいます。おなかが大きいために、新婚旅行に行けないという人もいます。
結論的に言えば、おそらく、二千年前にそういうことが起きたのだと考えてよいでしょう。結婚前に身ごもったのだろうと思います。それだけのことです。
しかし、宗教としては、それを「処女懐胎」と称し、二千年間、押し通しています。ずっと押し通すと、それなりに論理が通ってきて、むしろ、それが神秘的な部分になってくるのです。
そうすると、単なる男女の問題ではなくなり、「人間というのは、肉体としてのみ生まれるのではなく、聖霊が宿って生まれるのだ。魂が宿るのだ」という、神秘的なものになってきます。そして、「聖霊が宿って、イエスが生まれたのだ」ということを重視する思想になります。確かに、「聖霊が宿る。魂が宿る」というのはほんとうのことです。
さらに、「イエスは罪なくして生まれたのである。穢(けが)れなくして生まれたのである」ということを象徴的に表すことになります。この世的には、強引にこじつけた話でしょうが、象徴的には、そういうことになるのです。
では、イエス自身についてはどうでしょうか。
イエスは教えを説き、彼には十二人の主要な弟子がいました。また、彼に従う群衆が何百何千といました。ところが、三年あまり伝道をすると、彼は罪人と一緒に十字架にかかって死んでしまいました。
弟子たちは、「十字架にかかっても、天使が来て救うのではないか。最後に奇跡が起きるのではないか」と思って見ていたのですが、イエスはそのまま死んでしまったのです。奇跡はまったく起きず、だれも助けに来ることはなく、いばらの冠をかぶせられたイエスは、ほんとうに死んでしまいました。これは大変な驚きでした。
弟子たちはショックを受け、いったん離散して、いなくなってしまいました。
しかし、やがて、弟子たちは、この罪人として死んだ人のことを、「救世主である」と主張しはじめ、「イエスは復活した」と言い出します。そういう信仰を立てて、押し通すのです。そうすると、しだいにそれが通っていきます。
イエスの復活は、魂においては、そのとおりです。肉体は死んでも、魂は死んでいません。この世では罪人として死んでも、天上界では、偉大な魂として、よみがえっています。復活は、そのことを象徴しているのです。
ところが、『聖書』を読むかぎりでは、ゾンビのように肉体的によみがえったとしか読めません。そのように書いてあります。かなり強引であり、それは事実ではないのです。
しかし、そのような復活の思想を打ち出し、救世主信仰を立てています。この世的な見方からすると、まったく正反対であり、百八十度違う話ですが、そういう信仰を立てて、押し通すわけです。
押し通しているうちに、それが、しだいに真実になっていきます。不思議ですが、これが宗教の世界なのです。(中略)
宗教には非常に不合理なところがあります。「不合理なればこそ、我、信ず」「不合理であるからこそ信じる」という部分が、宗教にはどうしても残るのです。(中略)
その不合理ななかに、実は象徴的なものがあります。肉体的、物質的なもの、この世的なものを超えた、象徴的な真実があります。その象徴的な真実を誰もが信じはじめたときに、それは不滅のものになるのです。
(131~137ページ)
キリスト教の方にとっては、ここで説かれている教えは、にわかに納得しがたいかもしれません。
けれども、いくら二千年前の話だからといって、象徴的になんとなく読むのではなくて、自分の頭でその意味をしっかりと考えてみるのも、大切なことなんじゃないでしょうか。
二千年前にイスラエルの地で何が本当に起きたのかは、現代日本に生きている私たちにも十分に理解できます。
その一助となる大川隆法先生の教えの一部を、今日はご紹介してみました!
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『大悟の法』
大川隆法著 |
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