ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



キリスト教では、イエスさまが処女マリアから生まれたことや、死後の復活を認めないと、異端とかいって処刑されたりしたんだよね。それって、どうなのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 キリスト教においては、「処女マリアからイエスが生まれた」ということを信じなければ、だいたいにおいて異端とされると考えてよいと思います。時代によっては、迫害され処刑された方も数多くいます。
 一方、仏教においては、仏教を学ぶほどの人であるならば、釈尊がマーヤー夫人の右の脇の下から生まれたという伝説、あるいは、釈尊が兜率天から生まれ変わったという説話を、確かに知ってはいます。しかし、仏教の歴史においては、それを信ずるか否かによって正統か異端かを分け、信じない者に対し異端という烙印を押し、それを迫害して死に到らしめるということは、かつて一度もありませんでした。
 釈尊もイエスも、ともに聖なる者であり、その出誕にあたって神話ができるということは、宗教的真実として否定しがたいものではあります。しかし、その宗教的真実を、いかに解釈したかによって、このような二つの流れに分かれてきているように思います。
 ここに、仏教における深さ、寛容さを私は感じます。それは、そもそも仏教というものが、「ガンジス河の砂の数にも等しい、数限りない人びとの一人ひとりを、その機根に合わせて救いたい」という願いから出発しているからです。それぞれの人を救い、それぞれの人を幸福にするのに必要な教えを説くことが、仏陀の本心であったがゆえに、仏教においては、キリスト教のような異端論争が起きなかったのです。(中略)
 私自身は、イエスは父ヨセフと母マリアという正常な夫婦の子として生まれたと思っています。かつての歴史上の偉人、光の天使たちも、まったく同じ生まれ方をしています。聖霊がそのなかに宿ったということは事実ですが、「それが肉体上の親子関係を否定するようなものであってはならない。それは一種の迷信である」と言ってよいと思います。
 同じことがもう一つあります。それは、イエスの「死と復活」に関してです。『聖書』には、「十字架にかかって死んだイエスが、三日後に肉体をもって復活し、弟子たちの前に現われ、弟子たちとともに食事をした」というように書いてあります。『聖書』に書いてある以上、これを信ずるのが正統なクリスチャンであって、信じなければ異端というのが本則のはずです。
 しかしながら、今から二千年前、私は霊人として霊天上界からイエスを指導していましたが、当時、私の目に映じた事実は、「イエスの復活は、肉体をもっての復活ではなかった。それは魂としての復活であった」ということです。
 魂としての復活を遂げてこそ、イエスは救世主としての本来の使命を果たすことができたのです。それこそが、人びとを真に救いに到らせる思想であったはずです。肉体をもって生き返らなければ、イエスが救世主であることを証明することができないのならば、それは、キリスト教という宗教が唯物論に敗北したことを意味しています。
 かつての宗教において、肉体をもってしか復活できなかったような聖者はいません。魂をもって復活し、魂をもって霊天上界、高次元世界において多くの人びとを救うのが、救世主の第二段階の仕事であり、イエスの場合もまさしくそのとおりでした。
(19~23ページ)

ここでは、さりげなく、「今から二千年前、私は霊人として霊天上界からイエスを指導していました」と、重大な事実に触れられています。

そして、イエスさまは、父ヨセフと母マリアという夫婦の子として、普通に生まれた。また、イエスさまが死後復活したのは、霊として、魂としての復活であった──。

イエスさまのような聖者の出誕や死にあたって、後世、神話ができていくことは、宗教的真実として否定しがたいにしても、その解釈によって、異端として迫害したり、しまいには処刑までしてしまうようなことは、仏陀の御心ではなかったし、当然、大川隆法先生の御心でもないということ、なんですよね! 



『信仰告白の時代』

大川隆法著



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