ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



無我ってさ、ようするに自分が存在しなくなるみたいな話になっちゃって、やっぱりヘンなんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 無我とは、簡単にいうと、「『我なるものはない』と思いなさい」という教えです。(中略)
 修行を勧めている釈迦が、「あなたは存在しない」「私は存在しない」というようなことを、くり返し説いたわけではなかったのです。そうであれば、修行も要りません。努力も要りません。精進も要りません。また、釈迦が地上を去るときに、「一切のものは無常である」「執われることなく、怠ることなく、精進に努めなさい」と言った、不放逸の勧めの趣旨にも反すると思うのです。(中略)
 そして、「私が死んだあとは、自灯明・法灯明という教えに則って生きていきなさい」ということを言っています。(中略)
 そうしてみると、やはり釈迦は、人生八十年の晩年に到っても、「自らを磨き、自らを頼りにして、教えを一つの羅針盤として生きていく」という、主体的自己の生き方を大事にしていたということがわかります。(中略)
 仏教は個人に対する限りない信頼、個人の魂と精進に対する限りない信頼を説いています。精進というのは一種のスクリューです。「スクリューでもって、泳ぎ渡っていけ。船を進めていけ」と言っているわけですから、これはなかなか強い宗教なのです。
 何が言いたいかというと、結局、「無我とは、何もなくなるとか、やる気がないとか、無気力の教えのような、そんなものではない」ということです。
 仏教は、ほんとうに光り輝く強い強い自分、つまり仏と一体となった自分をつくっていくための教えなのです。この世的な表面的な弱い自分ではなくて、ほんとうに仏と一体となったときに、自分が自分でないほどの強い力が出てきます。悟りの力というのが出てきて、この世的ないろいろな悩みや苦しみ、執着というものを、快刀乱麻のように断ち切ることができるのです。それは強い教えです。(中略)
 この地上を去った世界を実際に見て、この無我の教えがどれほど大切なものであるかということを、私は痛感しております。
 自分自身が霊的な能力を持つ前であったならば、無我の教えというものを本で思想的に学んだとしても、「まあ、我を抑えればよいのだな。自己主張の強い人というのは、やはり嫌なものだな」というように受け取ったかもしれませんが、私は、霊的能力を持って、この世を去った世界を現実に知った人間として、「これほど大切な教えはない」ということを、ほんとうに感じました。
 地上を去った世界においては、大きく分けて二つの世界があります。天国と地獄です。(中略)
 こうして考えてみると、なぜ口を酸っぱくして仏教が無我を説いたかが、わかります。無我に基づいて、「自分というものを空しくしなさい」「自分のものという考えにこだわらないようにしなさい」ということを、なぜくり返しくり返し言ったかというと、結局、その人自身を救うことだからであり、また、その人を中心として地獄ができていくことを、何とかして防ごうとしているからでもあるのです。
(143~163ページ)

「無我」とは、我なるものはないと思うことで、執着を去ることを教える。

これによって、仏と一体となった自分、ほんとうに光り輝く強い自分をつくっていくことができる。

そしてそれこそが、死後、地獄に堕ちるようなことなく、天国へと還る道でもあるのである──。

無我」については、過去に何度かご紹介してきました。

今日は、また別の切り口から説かれた無我の教えについて、ご紹介してみました!

『心の挑戦』

 大川隆法著


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「般若(はんにゃ)の智慧(ちえ)」って言葉を聞いたことがあるんだけど、どういう意味なのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 般若の智慧を得るためには、まず、日々の修行態度を正しくしていかねばなりません。いわゆる三学という「戒・定・慧」を、丹念に修練していかねばなりません。日々、自ら戒め、また禅定の体験をし、そして智慧を蓄えていく。その過程で、やがて解脱という体験をし、解脱の結果、涅槃の境地を得る。この涅槃の境地を得たときに得られる、透明感あふれる深い深い智慧、これを「般若」と呼んでいるのです。
 それは永らく、仏教の修行をしてきた人にとっては、“永遠の憧れ”ともいうべき言葉でした。般若の智慧を得るとは、どういうことなのか。それを得たら、いったいどのようになるのか。(中略)
 ひと言で表わすとするならば、結局、「自己が見え(観え)、他人が見え(観え)、世界が見える(観える)」ということです。(中略)さらに、言葉を換えていうならば、般若の境地というのは、「生きている自分」ではなく、「生かされている自分」というものを、しみじみと悟る境地であると言えましょう。
 前者の「生きている自分」、つまり、「積極的に、能動的に、力強く選びとって生きていく自分」をかたちづくっていく自意識を「識」の立場とすると、「般若」というのは、「生きている自分」ではなくて、「生かされている自分」というものを深く感じとっていく境地です。(中略)
 ちょうど、人差し指が人を指すことはできても自分自身を指せないように、ちょうど、刀が他のものを切ることはできても自分自身を切ることはできないように、識の立場というのは、自我がしっかりしていて、いろいろなものを分析的に見ることが得意ではあるが、自分自身を見ることは難しいのです。
 しかしながら、般若の立場になると、無我の立場になってくるので、自分も他人も、すべての世界が、ありありと如実にわかるようになってくる(中略)。「ありとあらゆる現象――喜びも悲しみも、苦しみも憂いも、いろいろなことが、この世にはあるけれども、すべてのものが、実は、私の生命というものを生かしめるためにある大いなる教材なのだ。そういう大いなる教育の場なのだ」ということを知る。この世ということの意味を知る。この世がなぜあるのか、私がなぜ今ここに生きているのか、いかにして生まれ、いかにしてこの世を去っていくのか――これを知った智慧が般若です。
 識の立場というものは、もう少し狭いのです。この世の中で、より優れたるものをつかみ取っていく、優れたる自己となっていくための修行に必要な知恵、それが識です。これは、人間としての自己確立、自己形成、自己発展にとっては非常に大事なものですが、あくまでもまだ視野の狭いところがあります。
 般若の悟りを得てきますと、霊界をも含んだすべての世界のなかで、生まれ、生き、死に、あの世に還り、また生まれ、生き、死ぬ――そういう転生輪廻の流れのなかで、自己というものをつかみ、さらに他の人の人生というものをつかみ、自己と他人とが同時代の同期生として魂修行をしながら生きている、という現実を知ります。
 そして、この世的には、いろいろと辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあったとしても、そうしたものは、すべて実体のあるものではなく、あくまでも物質世界という教室で、実験として、自らの魂修行のために行なわれている、ということを知るようになります。
 すなわち、般若の智慧の段階においては、「一切が無常である」ということを知っています。また、「一切が無我である」ということを知っています。
 この世のすべての事物が、肉体が、諸現象がすべて、無常なるもの、常ならず変転していくものであることを知り、また、存在しているように見えるすべてのもの、森羅万象が、実は無我、すなわち、「本来の存在ではなく、大宇宙の意志によって、一時期、仮に現象として現わされているものであって、それはあくまでも魂修行のための教材にしかすぎないのだ」ということを知る――こういう境地が、実は悟りの境地であり、般若の智慧ということでもあるのです。
(112~118ページ)

般若の智慧を得るためには、三学(「戒・定・慧」)を、丹念に修練していかねばならない。

その過程で、やがて解脱という体験をし、解脱の結果、涅槃の境地を得る。そのときに得られる、透明感あふれる深い深い智慧、これを「般若」と呼んでいる。

それを得たら、いったいどのようになるのかをひと言で表わすとするならば──。

ちょっと引用が長くなりました。

そして、この引用した部分を、いつものように簡単に要約することなど、私にはとうていできそうにありません。

頓悟禅では、「般若の智慧」について聞かれたとき、指を一本立てるだけなのかもしれません。

しかし大川隆法先生は、この恐ろしく高い悟りの世界を、言葉を尽くして説明しておられるわけです。

言葉にてこれができる、それこそが、ほんとうの悟りを開かれた「仏陀」であることの証明であるだろうと私は思っているのです。

『心の挑戦』

 大川隆法著


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坐禅組みに行って教えてもらったんだけど、悟りって、言葉なんかじゃ表せないものなんだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 頓悟禅(とんごぜん)は慧能(えのう)から始まっていますが、慧能の悟り自体は必ずしも彼独自のものとは言えません。祖師である達磨自身にも、そういうところがありました。
 達磨がインドから中国に来たとき、のちに二祖となった慧可(えか)が、「心が乱れてしかたがないので、どうか、師よ、私の心を安んじてください」と言ったところ、達磨は、「その迷っている心を取り出してみよ。おまえさんのために安んじてあげよう」と言いました。慧可が、「心を探してみたけれども、見つかりません。出せません」と言うと、達磨は、「私はおまえの心を安んじ終わったぞ」と言ったのです。
 このような問答がなされたことが遺っていますが、ここにも微妙なすり替えがあります。
 「心を取り出してみよ」というのは、心というものを、物質的、物体的な比喩に切り替えて言っています。「心を出してみよ」と言って、「出せません」と言われると、「では、心を安んじ終わった。悩みは解決したぞ。出せない心なら、悩むはずはないではないか」という言い方をしているわけです。
 しかし、これは本来の悟りの姿ではないと思います。達磨は、ここで一つの論理のすり替えをしています。
 釈尊ならば、「あなたの心のここに間違いがある」ということを、言葉ではっきりと言ったはずです。しかし、達磨はこれが言えなかったのです。
 禅宗は、このあたりから始まっているので、必ずしも慧能だけの問題とは言えません。禅の悟り自体に、そういう、すり替えの部分がかなりあるのです。
 以後、この頓悟禅の流れでは、たとえば、祖師西来の意、つまり、「達磨大師がインドから来た意味はどこにあるか」と問われると、「庭前の柏樹子(庭の柏の木だ)」と言ってみたりします(『無門関』第三十七則の趙州和尚の応答)。あるいは、仏教の大意を訊かれたら、「一指頭禅」といって、指を一本、すっと立ててみたりします。何を訊かれても、指を一本立てるわけです(天竜和尚とその門下の倶胝和尚〔『無門関』第三則に登場〕が有名)。
 そのように、「言葉で表せないものだ」ということを一生懸命に主張するのです。
 確かに、言葉で表せないものもあることは事実ですが、釈尊が、説法によって悟りを表し、人々を教化したことは事実です。したがって、言葉で表せるもののほうが、真理を弘めるという点では、やはり優れているのです。
 言葉に表せないものもありますが、それを、「言葉に表せなくてよいのだ」というように解釈したならば、それは大きなすり替えであり、低い次元の悟りであると思います。
(169~172ページ)

頓悟禅というのは、達磨(だるま)大師を祖師とする中国禅宗の流れのなかで、第六祖・慧能に始まる禅宗のこと。

頓悟禅では、何を訊かれても指を一本立てるだけで、悟りは言葉に表せないことを主張したりする。

たしかに悟りには、言葉に表せないものもあるが、だからといって、悟りはすべて言葉に表せなくてよいというように解釈してしまうのは、逆に低い次元の悟りである──。

要するに、「あの世はありますよ」「執着を捨てなさい」「肉体ではなく魂こそがほんとうの人間なんですよ」等々、やさしく言ってくれなくては真理は広まりません。

もちろん、その奥にはもっと高度は悟りがあるわけですが、でも、このくらいの言葉を伝えることさえできないのだとしたら、高い悟りだなんてとうてい言えないのだと私は理解しているのです。

『大悟の法』

 大川隆法著


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イエスさまの受難って、人類の罪をあがなってくださったんだよね。イエスさまのこと考えると、救世主を尊崇してる私としても、苦難・困難がやってきて当然じゃないの? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の魂が偉大となるために、人間の魂を光らせるために、仏は時として大きな試練を人間に与えます。そして、その試練のなかを通り過ぎることによって、熱い鉄が打たれ、焼きを入れられるように、魂の足腰が強くなるという事実があります。(中略)
 ただ、客観的には同じ試練がみずからに臨んだとしても、同じような苦しい事件が臨んできたとしても、その人の精神的態度によって、受け止め方が違います。(中略)
 その苦難を自分が求めているような気持ちの人、「艱難辛苦よ、わが身に降りたまえ」と常に願うような心がある人にとっては、それは大きければ大きいほどよいわけですから、客観的な不幸がもっともっと巨大なかたちとなって現れてくることになります。(中略)
 苦難、困難が来ても、「これらは消極的なものである。すなわち、みずからの魂の足腰を鍛え、みずからの素質を伸ばすためにあるのだ。あるいは、これを飛躍台として、よりいっそう素晴らしい世界が展開するのだ」と考えている人にとっては、これはちょうど、サーフィンで乗る波のように見えるでしょう。(中略)
 要するに、自分の偉大な魂が現実と調和できないときに、その現実との乖離を埋め合わせるために、自分が現実に近付いていくのか、それとも、現実を自分の偉大な理想のほうに引き寄せようとするのか、この両者において違いがあるのだと考えてよいと思います。
 自分の理想を屈して、現実に妥協しようとすると、そこに悲劇が生まれますが、理想に現実を近付けようとすると、現実がアメのようにねじ曲がってくることがあるのです。(中略)自分を自虐的にするのではなく、この世的にも大いなる成功を収めんとするときに、必ずそのようになってくるでしょう。
 この世的な成功を罪悪視するなかに、自虐的精神は潜んでいます。「自分がこの世的に成功するということは、仏の意に反することなのだ。幸福になってはいけないのだ。世の中に、苦しんでいる貧しい人が一人でもいるかぎり、自分は幸福になってはいけないのだ」というような思想を持ったときには、必ずその自虐的な思いが自己処罰を呼び込むことになっていきます。
 豊かで穏やかな心を持って、自分をも許すことです。優れた魂は人を許すことはできます。(中略)自分自身を許すことができない部分に、魂の偏狭さがあります。ストイシズムによる狭さがあります。他人を許すのみならず、自分自身をも許してしまうことです。
 それは、自分が偉大な仏の子の一人であるということ、自分も仏の力の一部であるということを信ずることにほかなりません。仏の子である自分が不幸であってよいわけはないのです。(中略)「幸福になるのは、権利ではなく義務でもあるのだ」という観点を、強く強く心に刻んでほしいと思います。
(88~94ページ)

自らに艱難辛苦が降りかかることを願う心がある人には、不幸がもっと巨大なかたちとなって現れてくる。

この世的な成功を罪悪視したり、自虐的精神を持つのでなく、豊かで穏やかな心を持って、他人を許すのみならず、自分自身をも許してしまうこと。

それは、自分が偉大な仏の子の一人であることを信ずることでもある。

仏の子が幸福になるのは、権利ではなく義務でもあるのだ──。

宗教的魂の方の中には、けっこう受難礼賛タイプがおられるように思います。

でも今日は、大川隆法先生の力強いお教えを素直に受けとめたいものです。

そして、「幸福になる義務」というこのお言葉をしっかりと胸に刻みこむこと。

そうすれば、必ずや幸福が訪れてくるのだと私は強く信じているのです。

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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ね、ね、仏さまって、私たちが困ってるときに、やっぱり助けて下さるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学大川隆法先生は、『宗教選択の時代』幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 当時のインド十六国中の最強国であり、仏陀の竹林精舎があったマガダ国の王であるビンビサーラ王という人は、仏陀の熱心な信者で、外護者でもあったのですが、このマガダ国で、仏陀の比較的晩年に、不幸な事件が起きました。王子の阿闍世(アジャータシャトル)が、有名な提婆達多(だいばだった)と組んで、王の地位を乗っ取りにかかったのです。
 提婆達多は、自分には力があるということを誇示して、阿闍世を取り込み、阿闍世(あじゃせ)に物質的な寄進をさせて、自分のパトロン(経済的な後援者)にしたのです。そして阿闍世のほうも、仏陀と組んでいるのが国王のビンビサーラ王ですから、「提婆達多よ、自分が国王になったら、おまえこそ仏陀にして、教団の上首にしてやるぞ」というような密約をしたのです。そして、提婆達多と共謀して、クーデター計画を立てました。
 そして、ビンビサーラ王を幽閉して、「いっさい食べ物を与えてはならん」と命じて、餓死させようとしました。しかし、いつまでたっても父王が死にません。実は、ビンビサーラ王の妻で阿闍世の母親の韋提希(いだいけ)夫人が、夫に一日に一回、面会に行くときに、食事を運んでいるふりを見せずに、自分の身体に蜂蜜や小麦粉やバターを塗り、小麦粉などをなめさせたりしていたのです。(中略)
 阿闍世は、父王がどうしても死なないので、「おかしいな」と思い、監視させました。すると、どうやら母親がビンビサーラ王を生かそうとして、いろいろとしているらしい、ということがわかりました。
 そこで、阿闍世は、「母よ、あなたも私に対して謀反を抱いたのですか。許しません」ということで、母親も幽閉して殺そうとしました。(中略)
 韋提希夫人は、毎日、「ああ、仏陀よ、仏陀よ。どうして私はこんな目に遭ったのですか。お救いください」と、牢のなかで、仏陀に対して救いを求めたのです。
 そうすると、ここが経典の面白いところですが、仏陀が肉体から幽体離脱をして、そのままパッと韋提希夫人のところへ現われて、説法をしたのです。また、「神通第一」の大目連という弟子も、その牢のなかにパッと現われてきたのです。そのように、仏陀が韋提希夫人を救いにきて説法をするという話が、『観無量寿経』などを読むと出てきます。(中略)
 韋提希夫人が、「それだけ偉大な仏陀であるならば、このような苦境にある私を救ってくれるはずです。霊鷲山からここまで飛んできて、私を救ってください。そして教えてください」と言ったということが、経典に書かれています。確かに、肉体を持って牢屋のなかへ入っていくのは大変だと思いますが、霊的になら可能です。
 幽体離脱をして相手のところに現われるということは、よくあることです。(中略)強く願い、強く念っていると、距離に関係なく、相手の姿がありありと目の前に現われてくるのです。そして、話をしてくれるのです。こういうことが現実にあります。
 ですから、この韋提希夫人ではありませんが、みなさんが、何らかの不幸な立場にあったり、あるいは、ロビンソン・クルーソーのように舟が難破して、無人島に流された場合には、一生懸命に禅定して願っていたら、私や、他の弟子たちの姿が見えてきて、「こうしなさい」「ああしなさい」と言っているのが聞こえてきたりすることは、おそらく現実にあるだろうと思います。
(268~273ページ)

仏典にも記録されているように、幽体離脱で誰かのところに現われることは、現実にある──。

実際に、大変な状況のなか、禅定して強く強く祈っていたとき、大川隆法先生のお姿が見えて話をしていただいたことで、ほんとうに救われた体験をした方の話を聞いたことがあります。

日常的にそんな体験を誰もができるわけじゃないとは思います。

だけれども、とっても追い込まれた危機的状況なかでは、その方が持っている強い信仰心が、そんな奇跡を起こすことは実際にあるのだと私は固く信じているのです。

『宗教選択の時代』
 大川隆法著


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仏教って、八万四千の法門(教え)があったんだってねー。なんでそんなにものすごい数の教えが説かれたんだろ。聞いてるほうは、もう勉強なんてできないじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈尊には八万四千の法門があるといわれていますが、それは非常に数多くの教えがあるということの象徴です。なぜ釈尊がそれだけの数の教えを説いたかというと、多くの種類の人間がいるので、それぞれの人に合った法を説かなければ、それぞれの人にとっての救いにならないからです。
 他の人にとってはまったく問題にならないことが、ある人にとっては非常に大事なこともあります。また、釈尊の弟子や在家信者のあいだには、法の理解力にずいぶん差があって、そうとう勉強が進んでいる人もいれば、そうでない人もいて、さまざまなレベルがありました。それに応じて、教えに高低や幅の広さといった種類があり、それで教えの数が非常に増えたのです。
(132~133ページ)

交通も通信手段も、なきに等しいほど未発達だった2500年前のインドにおいては、海外に住む人々を意識して法が説かれる状況でなかったのは、間違いないでしょう。

でも、それでも、八万四千の法門が必要だった。

そう考えてみると、このブログも3000回をはるかに超えたというのに、大川隆法先生が新たな法を嵐のように説き続けられる驚異的なスピードにまったく追いつけていないのも、むしろ当然なのかもしれません。

世界の人口が100億人に向かっている増え続けている、この21世紀。現代日本に再誕された仏陀は、あらゆる機根の人に向けて、さまざまなレベルの教えを、さまざまな角度から、強い情熱をもって、ひたすら説き続けておられる。

それはまさに、一切衆生の救済に向けた仏の慈悲であるのだと私は深く感じ入っているのです。

『信仰告白の時代』

 大川隆法著


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反省の大切さとか、八正道とか教えてもらってるんだけど、でも、どうやっていったらいいのか、わかんないよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

この八正道のなかで、
特に大事なことを、ただ一つ取り出すとするならば、
すべては、「正しく思う」という、この一点に集約される。

あたりを見渡してみよ。
おまえたちを取り囲んでいる人たちの、
心の様相を見よ。
心のありかたを見よ。
なんとも見下げ果てたことを、
一日中、考えているではないか。
いや、ほとんど考えなきに等しい人が、
どれほどの数、いることであろうか。
考えなき人生を生きるとは、
昆虫の人生にも劣ると言わざるをえまい。(中略)
人間として生まれ、そして生きてゆくことの、
いちばんの意味は、
人間が考えというものを持つことができるという点に
帰着するのだ。
すなわち、「正しく思う」とは、
「正しく考える」と言いかえてもよいだろう。
おまえたちの人間性を決定しているものは、
すべて、おまえたちの考える中身にある。

もし、他人の心がガラス張りだとして、
だれもがその中身を見ることができるとしたならば、
おまえたちは、いったい、どのように感じるだろうか。
まさしく、それは驚愕でしかあるまい。
もし、おまえたちの首から黒板がぶら下がっていて、
その黒板に、おまえたちの考えていることが、
チョークの文字となって現れているとしたら、どうするか。
街を歩くことさえできまい。
人と視線を合わせることさえできまい。(中略)

この際に、どうすればよいのか。
そう、基本的には二つのことが重要となろう。
一つは、見られても恥ずかしくないような、
仏法真理に則ったことを考えるということである。
そして、いま一つは、
もし仏法真理に反したことを考えたとしても、
即座に修正を入れるということなのだ。
「ああ、自分は間違ったことを考えていた。
これは、自分の良心に照らして、
まことに恥ずべきことであった」と、
即座に修正することなのだ。
それによって、魂は洗われ、
その汚れは取り去られるのだ。

このようにして、
自分の正しき思いというものを探究してゆく過程において、
その魂は、次第しだいに力を帯びてくることになるのだ。
偉大なる人物とは、
偉大なることを考えた人間のことであるのだ。
これが大事なポイントとなる。
(194~200ページ)

八つの正しい道を探究する八正道の反省行なかで、特に大事なのは、「正しく思う」(正思)であり、これは「正しく考える」とも言いかえることができる。

たとえ人に見られても恥ずかしくないような、仏法真理に則ったことを考えるようにすること。

もし仏法真理に反したことを考えたとしても、即座に修正を入れること。それによって、魂は洗われ、その汚れは取り去られる。

このように、正しき思いを探究してゆくプロセスで、魂は次第に力を帯びてくる。偉大なる人物とは、偉大なることを考えた人間のことであるのだ──。

今日は、反省の考え方に関する、大切な要点の一つを教えていただいたのだと、私は思っているのです。

『永遠の仏陀』

 大川隆法著

 

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大乗仏教ってさ、後世、つくられたもので、お釈迦様の教えじゃないって話、聞いたことがあるけど、ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦仏教を考えるにあたっては、「利自即利他」(伝統的には「自利利他」という)という考え方が非常に大きな鍵を握っています(注)
 仏教界では、「大乗仏教はのちの世につくられたものである。釈迦没後、五百年もたってから、後世の人たちが大乗仏教の思想をつくり、大乗経典をつくったのである」と言われることがあります。(中略)「釈迦が説いた教えは、小乗、すなわち己を整える教えであり、大乗、すなわち大衆救済という教えは後代のものである」と考える人が多いようです。(中略)
 もちろん、大乗経典は後代に編纂されたものですが、その思想の大部分は、実は釈迦の時代にすでにあったものなのです。
 すなわち、釈迦自身が「自分を磨くことによって、完全に孤立した人間となったり、人里を離れ、孤高の人として生きていくような人間になったりしたのではいけない。孤高の人となるためだけの修行ならば、今世で地上に肉体を持った意味がないではないか」と考えていたのです。
 村娘のミルク粥を飲んで考えた、「苦行のなかに悟りはない。中道のなかにこそ悟りがある」という思想の延長線上には、自分を利する考え、すなわち、「自分を磨き、幸福感を増していく」という考えと、「その幸福感を他の人に広めていく」という考えの両者がありました。「中道」の思想には、こうした「利自即利他」の考え方があったのです。
 人間は社会生活を営みながら生きていく「社会的動物」です。そうである以上、いたずらに自力天狗になるのではなく、「どうすれば他の人びとをよくしていけるか」ということを考えながら、みずからが学びえたことを他の人びとに教えていくことが何よりも大事なのです。
 そうした教育者としての一面が釈迦にはあり、この部分も釈迦の思想のなかにはずいぶん色濃く投影されているのです。
 「利自即利他」という言葉は、現代的には次のように翻訳できるでしょう。
 「みずからを磨き、みずからを偉大ならしめていく過程において、社会のユートピアを増進し、幸福の輪を広げ、自と他の大調和を完成していく。傑出した人間が出ることがまわりに不調和を呼ぶのではなく、みずからが傑出していくことによって、社会のいっそうの幸福を増進していく」
 すなわち、「みずからが悟りというものによって与えられた幸福感を、世の中の他の人びとに還元していく」という思想なのです。
 これは非常に大事な考え方であり、「利自」と「利他」とを併せ持ちながら、その順序において、「利自から利他へ」「利自であることが、すなわち利他につながっていく」という観点を忘れてはいけないのです。(中略)
 (注)仏教では、自己を利することを「自利」と呼ぶが、「利他」との平仄を合わせて「利自」と呼ぶこととする。「利自他」を「利自即利他」と呼び換えているのである。
(106~110ページ)

仏教を考えるにあたっては、「自利利他」または「利自他」という考え方が非常に大きな鍵を握っている、

これを幸福の科学では、「利自即利他」と呼び換えているが、この言葉に表れているように、釈迦には、「自分を磨き、幸福感を増していく」という考えと、「その幸福感を他の人に広めていく」という考えの両者があった。

大乗経典は後代に編纂されたものではあるが、その思想の大部分は、実は釈迦の時代にすでにあったものである──。

ここでは、お釈迦さま(釈尊、仏陀)の創始した仏教(原始仏教)と、大乗仏教や大乗経典との関係について、思想的観点から、明確に教えてくださっています。

仏典の解説書をいくら読んでもなんだかよく分からない、大乗仏教の本質をスパッと明確に説かれているわけで。

これは、やはり仏陀自身であられるからこそなのだと、今日、改めて私は感じいっているのです。
 

『釈迦の本心』

  大川隆法著


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日蓮って、鎌倉時代のお坊さんだよね。日蓮宗を開いたんでしょ。どんな人だったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ここで、日蓮の思想と行動を、七百年後の真理観の観点から評価してみようと思います。
 まず、今日的視点からは、狂信性、排他性、独善性、閉鎖性などの観点からみて、鎌倉時代の日蓮宗が、一種の世紀末カルトであることは否めません。
 次に、法華経至上主義についてですが、釈迦の教えは、何百何千の法門(八万四千の法門)があり、法華経のみが正しく、他の経典は真理を伝えていないという考えは、間違っております。各種仏典は、キリスト教の聖書と同じく、弟子たちが筆録し、まとめたものであるわけですから、釈迦の教えをそのままには伝えていないことは確かでしょう。法華経も学問的には、釈迦没後、四~五百年後に成立したとする説が有力ですし、晩年の釈迦の教えの一部を反映しているにしかすぎません。結局のところ、各種の経典は、釈迦と弟子たちとの間の、時・場所・人の三者の影響の下になされた対話の記録であり、どれのみが真実というような性質のものではないのです。
 さらに、他宗排撃についてですが、これは功罪の両面があると思います。功の面とは、日蓮宗独特の情熱的な行動力の源泉となった点です。真理が説かれるときは、溢れ出る熱意がなければ、決して広がってはゆきません。真理に到達したという確信が強ければ強いほど、他宗が邪教のように思えてくるのは、キリスト教においても同じです。ほんとうは、ひとつの教え、ひとつの真理であるにもかかわらず、さまざまな人によって、さまざまに説明をされると、魂の幼い人々は、異なったものであるかのごとく錯覚して、分からなくなってしまいます。つまり、祖師と違って、弟子たちは、その部分しか理解できないからです。
 ですから、空海の真言密教も、親鸞の真宗も、道元の禅も、日蓮の法華経も、それぞれ仏教の法門のひとつにしかすぎないということなのです。つまり、そもそもの釈迦の教えには、すべてが含まれていたのです。釈迦の思想の全体像については、私の『悟りの挑戦』(上・下)、『沈黙の仏陀』『太陽の法』『仏陀の証明』(以上、幸福の科学出版刊)などを読んでいただけれぱ、「南無妙法蓮華経」の題目だけ唱えておれぱ救われるとする日蓮の教えが、仏陀の本心に反しているのは、言うまでもないことでしょう。ともあれ、日蓮の他宗排撃は、真理流布に急であった面は評価できますが、他宗を正邪の「邪」としたのは、間違っております。親鸞も、道元も、日蓮同様の高級霊だからです。
(247~250ページ)

今日的視点で見たとき、鎌倉時代の日蓮宗が、一種の世紀末カルトであったことは否定できない。

日蓮の〝法華経のみが正しく、他の経典は真理を伝えていない″という考えは、間違っている。空海の真言密教も、親鸞の真宗も、道元の禅も、日蓮の法華経も、それぞれ仏教の法門のひとつであって、二千五百年前の釈尊(釈迦)の教えには、そのすべてが含まれていた。

他宗排撃については、他宗を「邪」とした罪の面と、真理流布の情熱的な行動力の源泉となったという功の面とがある──。

幸福の科学の記念すべき第一冊目の書籍が、『日蓮の霊言』であったことは、知る人ぞ知る事実です。

日蓮は、鎌倉時代に天上界から降臨した高級霊(菩薩)の一人であったわけで、その当時の思想と行動には功も罪もあったと、大川隆法先生は、とても公平に評価しておられるのだと私は思っているのです。

『黄金の法』

 大川隆法著


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幸福の科学と幸福実現党って、国防が大事で、軍隊も必要って考えてるんでしょ。でも、それって戦争するってことなんじゃないの。仏教の教えに反しないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『国家の気概』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、侵略的な戦争はすべきでないと思いますが、やはり、「一億三千万人の日本国民をきちんと守る気概を、国家として持つべきである」と明確に述べたいと思います。国民を守れるだけの体制は、きちんと整えるべきです。(中略)
 世界には、現に、侵略的なことをする国はあるのです。
 中国のチベット侵攻を見てもそうです。チベットのダライ・ラマ十四世は、法王兼首相ですが、中国の軍隊にいきなり侵攻されて国を奪われ、インドに逃れて亡命政府を立ててから、もう五十年になります。そのように、いきなり軍隊で襲ってくるようなことがあるのです。
 仏教の教えには、そういう場合に国を軍事的に守る思想はありません。「殺してはいけない」という思想は確かにありますが、それは自分に対する戒めであって、相手が自分を殺すのを禁じることはできないのです。そのため、軍隊に襲われたら、一方的に殺されてしまい、国を取られ放題になります。チベットは、こういう思想的な弱点を突かれたのです。
 この弱点自体は、釈迦の時代からありました。この思想のために、釈迦族は、ほぼ全滅しています。出家して僧侶になっていた約五百人は生き延びましたが、残りの人たちは、ほとんど殺されました。釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びているのです。
 不殺生(アヒンサー)の思想を説いたのはよいのですが、相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分ではありませんでした。その結果、釈迦国は、慈悲を説き、平和を説いている宗教を信仰していたにもかかわらず、大量虐殺に遭って滅びてしまったわけです。
 やはり、「原始仏教には思想的に欠陥がある」と見るべきであり、修正をかける必要があると思います。
 「殺すなかれ」という思想については、「相手に一方的に攻撃をさせる」というあり方を中道と考えるべきではなく、少なくとも、「国家、国民を守る」というラインで中道の線引きをするべきでしょう。(中略)
 日本の先の戦争についても、責任問題等、いろいろと議論があることは承知していますし、日本がやりすぎた面も当然あるとは思います。ただ、結果的に植民地が解放された面も確かにあり、功罪半ばするところがあったのではないかと思われます。
 そういう意味では、「六十数年前に戦争を起こしたから、日本は悪の国であり、自国を守る権利は一切ないのだ。何をされても文句は言えないのだ」という考え方では、やはりいけないのです。そのような思想は、これだけ繁栄した国を滅ぼす可能性を持っています。
(156~159ページ)

侵略的な戦争はすべきでないが、現に世界には侵略的なことをする国があるので、国民を守れるだけの体制はきちんと整えるべきである。

仏教には、侵略にあった場合に国を守る思想がないので、これによって釈迦族は滅びてしまった。

やはり、この原始仏教思想の欠陥には修正をかける必要があり、少なくとも国家・国民を守るというラインで、中道の線引きをするべきである──。

要は、無抵抗で虐殺に遭って、国が滅びてしまうようなことを、神仏は是とされないのだと思います。

国を守るための戦いが必要なこともあるし、少なくともそのための最低限の備えは必要であるのだと私は理解しているのです。 

『国家の気概』

 大川隆法著

 

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大川隆法先生が「再誕の仏陀」だって聞くんだけど、でも、ほんとに仏陀なの? 仏陀の悟りを得た方なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

  釈迦は、二十九歳で出家します。それから、六年間の難行苦行のはて、苦行をすて、菩提樹の木の下で悟りをひらいたのは、三十五歳のときです。彼は、約一週間にわたる禅定ののちに、ある夜、夜中の一時ごろから深い定に入ってゆきます。そして、そのときに得た悟りというのが、つぎのようなことでした。
 「私は、長年にわたって、食べるものをろくに食べず、飲むものもろくに飲まず、肉体を極限まで苦しめ抜いたときに、精神的な飛躍が得られる-悟れる、と思って苦行をやってきた。(中略)
 もし肉体を苦しめることが人生の修行ならば、人間は、肉体に宿って生まれてくること自体がまちがいではないのか。もし本仏が私たちの肉体を否定することを願っているならば、自殺者こそ、最高の覚者といえるだろう。
 しかし、自殺によって得られる結果はなんだろうか。大宇宙の法則は、原因-結果の連鎖のなかにあり、悪しき種をまけば、悪しき実を刈り取らなければならないことは確実である。自殺によって、苦しみという新たな原因をつくれば、あの世の地獄界でも、のたうちまわるような苦しみが待っているにちがいない。自分自身の肉体を苦しめる難行苦行は、緩慢なる自殺行為そのものではないか。
 仏の境地がやすらぎの境地であるならば、苦行のなかにはやすらぎはない。苦行のなかには悟りの因はない。(中略)自分自身の心がやすらいでいないで、自分自身の心のなかに幸福感なくして、一体どうして他人に対して、真にやさしくし、真にいたわることができようか。
 しかし、自分のなかの幸福感とは、一体なにか。カピラヴァスツにいたころ、王子として、みなの者からちやほやされ、金も、女性も、物質も、なにもかも自分の自由になったとき、はたして、私の心のなかには幸福感があっただろうか。(中略)カピラヴァスツの日々は、私にとって、決して幸福な日々ではなかった。精神的には満たされず、不安と、焦燥ばかりがつのっていた。(中略)
 本仏の子・人間としてのほんとうの悟り、ほんとうのしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦行のなかにもない。極端に肉体をよろこばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、ほんとうの悟りほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。
 真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のなかに真理を発見してゆく生き方である。(中略)人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである。
 そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥をきわめてゆく途次にこそ、幸福感は高まってゆくのである」
(218~223ページ)

これが仏陀の最初の悟りであった──。

そして、50年近く法を説いた仏陀が入寂(帰天)したときに得ていた悟りとは?

それは、また次の機会にご紹介したいと思います!

 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

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「因果の理法」って、このブログでもときどき出てくる気がするんだけど、どういうことなの。〝親の因果が子に報い…″って、あれのことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 次に「因果の理法」について語っていきましょう。これも仏教のなかに色濃くある教えです。
 たとえば、「今世で夫婦になったのは、過去世で縁があったからだ」という考え方があります。この考え方を一般的に展開すると、「ある原因行為があると、それがなんらかの結果を生むことになる。よい原因をつくると、よい結果が生まれ、悪い原因をつくると、悪い結果が生まれる」という法則になります。
 これは人生における最も基本的な法則の一つであり、仏教が哲学としても成功したのは、因果の理法について深い洞察がなされているからです。
 親子や兄弟、夫婦の緑が、今世のみならず過去世からもきている理由は何でしょうか。過去世において、親子や兄弟、夫婦であって、「お互いに幸福だった」という思いがあるからこそ、今世においても、親子や兄弟、夫婦の縁となって表われてきているのです。
 このように考えると、「人間は日々に因果の種をまいて生きている」と言えます。日々に種まき作業を行ない、その結果、まいた種がどのように発芽し、どのように成長していくか──そこに成果が見られるようになります。
 したがって、因果の理法は仏教における成功哲学であり、また、幸福哲学でもあります。仏教は人生の苦しみばかりを説き、苦悩ばかりを見つめたように語られがちですが、実はそうではありません。多くの偉大な哲学者がそうであったように、釈迦もまた幸福哲学を説いていたのです。そして、仏教の幸福哲学は何に集約されるかと言うと、それが「因果の理法」という言葉なのです。
 すなわち、幸福という結果を手に入れるためには、幸福という果実が実るだけの種をまき、水や肥料をやり、日ざしをあてて、成長させる必要があります。これが成功哲学の一法則なのです。
 これはあらゆるところに見受けられる法則です。「一生懸命に努力すれば、その努力は必ずなんらかのかたちで実る」というのは、人間の経験則にもあてはまることです。
 なかには、一生懸命に勉強したけれども、大学受験に合格しなかったということもあるでしょう。しかし、一生懸命に努力したことは、本人の将来のどこかで必ずよい影響を与えるものです。また、「悪事、千里を走る」といいますが、悪いことをしていると、やがてどこかで必ず露見し、破滅を生むことになるのです。
 このように、人生を一つの法則、運動のダイナミズムとしてとらえるならば、「人生は原因・結果の連鎖によってできている」と言えます。まいた種は、今世では必ずしも実らないかもしれませんが、少なくとも朝顔の種をまかねば、朝顔の花は咲かないことも事実なのです。(中略)
 したがって、「因果の理法は、時間の流れのなかにおける一種の幸福論である」ということに気づかされるのです。
(186~189ページ)

「ある原因行為があると、それがなんらかの結果を生む。よい原因をつくると、よい結果が生まれ、悪い原因をつくると、悪い結果が生まれる」という、原因・結果の法則が、「因果の理法」。

そしてそれは、よくよく考えてみると、一生懸命、努力すれば、将来の幸福を自分の力で生み出すことができることを意味する。

その意味で、これは仏教における成功哲学であり、幸福哲学であった──。

つまりは、〝親の因果が子に報い…″なんてのは、その一部を取り出して誇張しただけの香具師(やし)の口上にすぎない。

この「因果の理法」こそが、仏教の中心的な教えの一つであるのだと私は理解しているのです。

 

『釈迦の本心』

  大川隆法著

 

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2500前のお釈迦さまの悟りって、一体どんなものだったんだろう。菩提樹の下で坐禅をして、深い深い瞑想に入っていって、一つの悟りを開かれたと聞いてるんだけど、お釈迦さまは、そこで何を知ったんだろう。何を見たんだろう? なーんてちょっと高度な疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈尊が、坐禅をして、心の垢を取り除き、深い深い瞑想の内に入っていったときに見たものは、いったい何だったのでしょうか。
 実は、釈尊は、「この地球上に、個々人が、小さな豆粒のような存在として生きている」というものではない世界を見たのです。「自分の内に、広大無辺な宇宙につながるものがある。その自分の内なる宇宙は、身長一メートル数十センチ、体重数十キロの、一個の体のなかに閉じこもっているものではない。それは無限に広がっていて、自分の目に見える、この三次元の宇宙をも包むほどの、大きな宇宙につながっているのだ」ということを知ったのです。
 大宇宙の根本仏(根本神)がつくったと思われるような、無限の多次元空間の神秘。そのなかには、自己の魂というものも当然あるけれども、それを突き抜けて、さらに霊界世界があり、霊界世界のなかに、「魂の兄弟」(拙著『太陽の法』第2章参照)や、それ以外のさまざまな光の存在がある。また、天国・地獄といわれる世界があり、その世界のなかに、幸福に暮らしている魂たちも、不幸に暮らしている魂たちもいる。そうした広大無辺な霊的宇宙が、自分の内とつながっている。こういうことを発見したのです。
 これは、「自分というものは、自分であって自分ではない。自分という存在がないわけではなく、それはあるが、その自分は、独立した一つの存在、切り離された存在ではないのだ。近代の哲学や文学が追究しているような、実存的な自分ではないのだ」ということです。
 自分の内には、大宇宙そのものとつながっているものがあるのです。その大宇宙は、三次元の星の世界ではありません。さらにそれを包み込んだ大いなる宇宙とつながっている世界が、自分の内にあるのです。マゼランの航海を待たずとも、自分の心の内を見れば、はるかなる世界まで、自由自在に行き来することができたのです。(中略)
 そして、釈尊は、「第一次的な霊眼によれば、自分と他人は別個の存在のようにも見えるが、もっと深い目で見たときには、自他は別のようであって別ではない。自他は別個に非ず、一体なり」ということを悟りました。「自分と他人、自分の魂と他人の魂は、別のようにも見えるけれども、そうではない」ということです。
 これは、もちろん、魂的に近接な「魂の兄弟」とのつながりということでもありますが、それだけではありません。魂の兄弟たち以外にも、広大無辺な霊界に生きているものたちがいます。人間の魂もあれば、人間ではないもの、動植物の魂に相当するものも数多くいます。これらが、ばらばらに住んでいながら、実は同時に、協力し合い、あるいは依存し合って生きているのです。そうした世界であるということを、釈尊は悟ったわけです。
 ちょうど、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が、全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生物たち、生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でているのです。そうした世界がそこにあるのだということを、釈尊は知ったわけです。
(192~196ページ)

釈尊(お釈迦さま)が菩提樹下で悟ったのは、第一に、自分の心の内が、三次元の宇宙はもちろん、天国・地獄といわれる世界をも包み込む、無限に大きな多次元空間の霊的宇宙につながっていること。

第二に、自他の魂は別のようであって別ではなく、実は一体であること。

たとえて言えば、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でていることを知ったこと──。

うーん、今回も深遠な悟りの世界の話なので、これ以上やさしくまとめることは、私にはとうていできそうにありません。

言葉としてはわかるように思っても、これを実感として分かっているのかというと、それが分かったときが、まさに悟りを開いたということであって…。

いずれにしても、このような凄い教えを説くことができる大川隆法先生は、いったい何者であるのか。

まさに「現成の仏陀」(この世に下生された仏陀)その人である、という以外にないのだと私は理解しているのです。
 

『大悟の法』

 大川隆法著

 

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禅宗って、やっぱり悟りを説いてるし、悟りが一番高い宗派の一つだよね? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悟りということを中心に考えるならば、日本人になじみのある仏教では、禅宗というものが、悟りにはいちばん緑が深いと思われるかもしれません。
 しかしながら、この二千年近い歴史を見るかぎり、禅の悟りで、いったいどこまで悟りを得たのかということを考えてみますと、有名な禅者であっても、悟りを得ている人は少ないと思います。特に幸福の科学の仏法真理から見た悟りという意味でみれば、ほとんどの方が到達していない、というのが現実であろうと私は思います。
 禅宗のなかには、たとえば日本人にとっては有名な一休宗純という方もいます。「一休とんち話」は、よく知られているでしょう。機知とウイット(頓知)に富んだ禅僧ということで、現代では慕われていますけれども、彼の人生というものをつぶさに見るかぎり、悪霊に憑依され、そそのかされた人生である、ということが、はっきりと看てとれます。風狂の禅者ではあったけれども、奇妙きてれつなことをし、無頼漢霊に取り憑かれた一生であったと思います。
 そうした人を見て機知に富んだように見えたり、風狂のように、変わり者のように見えることが悟りであるように流れていく考え方が、禅のなかにもありますけれども、これはとんでもない間違いなのです。そういうことをするために修行をしているわけではないのです。それを見抜くだけの見識が禅宗の教えにはありません。
 もう一つは、禅宗の流れのなかでは坐禅を一生懸命に勧めるのですが、結局これが肉体行に墮してしまっているということもあります。ただ坐ることだけを求め、精神的なるものをむしろ否定していく。そういう無神論的唯物論としての禅定というものを考えていく。そして、精神的なるものとしては、せいぜい、「坐禅を毎日組むことによって精神力が鍛えられる。禅定力というものがついていくのだ」という、一種の道力、精神的気魄を得ることだけが悟りだと思う。そんな方が数多いというのが現実です。しかし、幸福の科学の仏法真理を学んだ人であるならばわかるように、「残念ながら、そのような気力、体力だけでは、悟りからはほど遠い」と言わざるをえません。
 また、禅宗のなかでも、知識的にのみ悟りを求めようとしている方もいるかに見えます。しかしながら、そのような頭の訓練的な知識の体操、知の体操によっては、現実の悟りというものは得られません。
 禅宗が悟りにほど遠い世界に流れていった理由、単に「只管打坐(しかんたざ)」あるいは「公案禅」として流れていった理由は、残念ながら、禅者のなかに霊的体験を深めた方がいなかったことが、やはり大きな原因ではないかと思います。
 これに比べて、霊的体験をも持って、知識的な詰めも行なった天台大師智ギなどは、悟りとしてはかなり高いものを得ていたし、心の世界の秘密──「心というものはあらゆる霊界に通じていく」ということを、現実のものとして知っていたという意味で、非常に高い悟りを得ていたと言えます。
(227~230ページ)

禅宗は、有名な禅者であっても悟りを得ている人は少なく、特に仏法真理から見た悟りという意味では、ほとんどが到達していないのが現実である。

坐禅は、ただ坐ることだけを求め、精神的なるものを否定した肉体行に墮しているし、知識的にのみ悟りを求める、頭の訓練的な知の体操によっては、悟りは得られない。

これに比べて、霊的体験をも持って知識的な詰めも行なった天台大師智ギは、非常に高い悟りを得ていたと言える──。

ここで大川隆法先生は、これまで数多くの修行者が黙々と積み重ねてきた修行の営みについて一定の評価をしつつも、現在までの禅宗のあり方に対して、厳しい評価をしておられます。
 
でもこれは、自らが2500年前に釈尊として「仏教」を創始し、今また現代日本に下生した「再誕の仏陀」として、あえて心を鬼にしての説法でもあるのだと思います。
 
ここで大川隆法先生が説かれるところは、要するに、仏法真理の知識(智慧)を得るとともに、霊的体験を重ねることで、心の世界の秘密を真に知ることなくして、高い悟りが得られることはない、ということなんだと私は思っているのです。
 
 
『心の挑戦』

 大川隆法著

 


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キリスト教は、前世とか転生輪廻って、認めてないでしょ。キリスト教も、天上界からつかわされた救世主の教えだって話なんだから、やっぱり前世とか転生輪廻なんてないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 催眠療法の一種に、「退行催眠という催眠術をかけて、相手を小さい年齢のころに戻していく」というものがあります。
 欧米ではフロイトやユングの思想の影響がかなり強く、精神の治療においては、「幼少時に何か問題があった」と普通は考えます。そこで、ある人の心の傷などを発見するために、「子供時代に、どのようなことがあったか。心に傷を受けるような出来事はなかったか」ということを知ろうとして、医者が催眠術をかけ、どんどん昔に返らせて、「五歳のときは、どうでしたか。三歳のときは、どうでしたか。一歳のときは、どうでしたか」などと訊き、その人に話をさせるのです。
 そうすると、その人は、「子供のころ、こんな虐待を受けた」「親に、こんなことを言われ、こんなことをされた」「こんな問題があった」などというようなことを話すので、医者は、「それが、現在の心境、あるいは病気や事故につながっている可能性がある」と考えて、治療を行うのです。
 その退行催眠で、どんどん昔に戻していくと、母親の胎内にいたときのことまで思い出し、「胎内の様子は、こうだった。生まれてくるときの様子は、こうだった」ということまで言うことができるのです。
 それでは、もっと前に戻れるかというと、戻れます。そして、「天国で、こんな生き方をしていた」「この世に生まれてきた友達や親族のなかに、こういう知り合いがいた」ということなど、この世に生まれてくる前のことを言い出します。
 さらに、もっと前に戻してみると、「実は、百何十年前に、××に生まれていた。そのときは男で、職業は××だった」などということを詳細に語りはじめたりするのです。
 こういうことが、現実に、いろいろなかたちで数多く起きてきました。母の胎内にいたときのことや、胎内に入る前のことも分かるので、「どうやら過去の人生があるらしい」ということが分かってきているのです。(中略)
 昔は、キリスト教にも、そういう霊的なものをもっと肯定する一派があったのですが、そのほとんどが、異端裁判により、悪魔の教えとして弾圧されてしまいました。霊的な考え方をキリスト教に根づかせようとして、高級霊が地上に生まれてきても、いつも死刑になってしまうため、根づかなかったのです。
 現代では、欧米でも、「退行催眠によって前世を探り出す」ということをしています。そうやって前世まで戻ってみると、その人がいま抱えている問題について、「なぜ、こんな問題を抱えているのか」ということが非常によく分かる場合があるのです。
 また、「人間関係などでトラブルが起きているときに、『なぜ、この人とトラブルが起きているのか』ということを退行催眠で調べてみると、過去世の時代から何か課題を抱えていて、今回も、その課題を抱えて生まれてきていることが多い」ということも報告されています。(中略)
 結局、「仏教の説いていた三世の因果は昔話やたとえ話ではなかった」ということです。
(217~221ページ)

かつて天上界は、何度も高級霊を地上に降ろして、霊的思想を肯定するキリスト教の一派として活動させたが、どれも異端として弾圧されてしまった。

でも、現代の欧米では、催眠術を用いた退行催眠によって前世を探り出すことが、医師によって行なわれている。

その人がいま抱えている人間関係のトラブル等の問題の原因が、じつは前世にあって、今世はその課題を抱えて生まれてきたからであることが判明するケースが報告されている──。

仏教では、人生というのは、過去世(前世)・現世・未来世の「三世」にわたって因果が連なっていることを説かれていると思います。

すなわちこれは、人間には「前世」があって、さまざまな時代や国に、くり返し生まれ変わってきていること、つまり、「転生輪廻」していることを意味しているはずです。

そして、この「過去世」がある事実が、キリスト教の正統な教義で認められていないのは、50年近くもかけて壮大な法を遺したお釈迦さまとは違って、イエスさまが、わずか3年ほどで十字架にかかって帰天しなければならなかったために、霊的世界の構造までを含む十分な教えを遺す時間がなかったから。

そしてキリスト教は、その後、教義を統一し教団を維持する必要から、霊的思想の部分を排除してきてしまったのだと思い至ったとき初めて、この間の事情がよく理解できるように思います。

結局のところ、霊的世界の真実を考えると、医学に基づく退行催眠によって過去世の記憶が出てくる人がいたとしても、それは当然の話なんだと思います。

やはり、前世はある。転生輪廻はある。そして、魂は永遠の生命を持っています。

この霊的な真実は、誰になんと言われても絶対に変わるものではなし、それは医学によっても証明できる分野であるのだと、改めて私は思っているのです。

 

『復活の法』

 大川隆法著

 

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