ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



坐禅組みに行って教えてもらったんだけど、悟りって、言葉なんかじゃ表せないものなんだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 頓悟禅(とんごぜん)は慧能(えのう)から始まっていますが、慧能の悟り自体は必ずしも彼独自のものとは言えません。祖師である達磨自身にも、そういうところがありました。
 達磨がインドから中国に来たとき、のちに二祖となった慧可(えか)が、「心が乱れてしかたがないので、どうか、師よ、私の心を安んじてください」と言ったところ、達磨は、「その迷っている心を取り出してみよ。おまえさんのために安んじてあげよう」と言いました。慧可が、「心を探してみたけれども、見つかりません。出せません」と言うと、達磨は、「私はおまえの心を安んじ終わったぞ」と言ったのです。
 このような問答がなされたことが遺っていますが、ここにも微妙なすり替えがあります。
 「心を取り出してみよ」というのは、心というものを、物質的、物体的な比喩に切り替えて言っています。「心を出してみよ」と言って、「出せません」と言われると、「では、心を安んじ終わった。悩みは解決したぞ。出せない心なら、悩むはずはないではないか」という言い方をしているわけです。
 しかし、これは本来の悟りの姿ではないと思います。達磨は、ここで一つの論理のすり替えをしています。
 釈尊ならば、「あなたの心のここに間違いがある」ということを、言葉ではっきりと言ったはずです。しかし、達磨はこれが言えなかったのです。
 禅宗は、このあたりから始まっているので、必ずしも慧能だけの問題とは言えません。禅の悟り自体に、そういう、すり替えの部分がかなりあるのです。
 以後、この頓悟禅の流れでは、たとえば、祖師西来の意、つまり、「達磨大師がインドから来た意味はどこにあるか」と問われると、「庭前の柏樹子(庭の柏の木だ)」と言ってみたりします(『無門関』第三十七則の趙州和尚の応答)。あるいは、仏教の大意を訊かれたら、「一指頭禅」といって、指を一本、すっと立ててみたりします。何を訊かれても、指を一本立てるわけです(天竜和尚とその門下の倶胝和尚〔『無門関』第三則に登場〕が有名)。
 そのように、「言葉で表せないものだ」ということを一生懸命に主張するのです。
 確かに、言葉で表せないものもあることは事実ですが、釈尊が、説法によって悟りを表し、人々を教化したことは事実です。したがって、言葉で表せるもののほうが、真理を弘めるという点では、やはり優れているのです。
 言葉に表せないものもありますが、それを、「言葉に表せなくてよいのだ」というように解釈したならば、それは大きなすり替えであり、低い次元の悟りであると思います。
(169~172ページ)

頓悟禅というのは、達磨(だるま)大師を祖師とする中国禅宗の流れのなかで、第六祖・慧能に始まる禅宗のこと。

頓悟禅では、何を訊かれても指を一本立てるだけで、悟りは言葉に表せないことを主張したりする。

たしかに悟りには、言葉に表せないものもあるが、だからといって、悟りはすべて言葉に表せなくてよいというように解釈してしまうのは、逆に低い次元の悟りである──。

要するに、「あの世はありますよ」「執着を捨てなさい」「肉体ではなく魂こそがほんとうの人間なんですよ」等々、やさしく言ってくれなくては真理は広まりません。

もちろん、その奥にはもっと高度は悟りがあるわけですが、でも、このくらいの言葉を伝えることさえできないのだとしたら、高い悟りだなんてとうてい言えないのだと私は理解しているのです。

『大悟の法』

 大川隆法著


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