ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



仏教といえば、お寺とか仏像を観光して見に行く程度のイメージなんだけど、でもそもそも、2500年前にお釈迦さまがおられた時代の仏教教団って、霊的修行をしてなかったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 仏典を読むと、現在の墓場に当たる「死体置き場」で瞑想修行をしていたことが分かります。
 墓場といっても、当時のインドでは、日本にあるようなお墓がたくさん並んでいるわけではなく、大きな穴を掘った所に死体をただ投げ込んでいくだけの土葬でした。また、土葬まで行かずに、鳥葬というか、死体を野ざらしにして鳥や動物に食べさせるようなかたちもありました。(中略)当時のインド人にとっても、あまり気持ちのよいものではなかったはずです。
 こうした死体置き場での瞑想修行の意味として、一つには、「諸行無常の理」を悟るという趣旨があったのだろうと思います。これは、「白骨観」とか「不浄観」とか言われる瞑想法、「人間は、死んだら腐って白骨になっていく。肉体は、そのように無常であり、不浄なものなのだ」ということを悟ろうとするものです。
 死体置き場で瞑想をすることによって、「肉体は、汚いものなのだ」ということを悟り、「肉体への執着を断つ」という修行を行っていたのです。(中略)
 ただ、この死体置き場での修行には、仏典に書かれていない、もう一つの意味があると思われます。焼かれていない生の死体が積み上げられ、捨てられている場所で瞑想修行をしていて、霊的に何も感応しなかったはずはないからです。(中略)
 初期の釈迦仏教では、「阿羅漢になる」ということを一つの目標にしていました。
 阿羅漢の状態になると、一種の神通力が備わってきます。「六大神通力」と言うと話が少し大げさになりますが、簡単な霊能力、あるいは何らかの「霊感」的なものが備わってくるのです。
 そのように、阿羅漢になると、何らかのかたちで神通力が備わってくるので、修行をして阿羅漢のレベルになった人が、死体置き場で瞑想をしていて、何も感じないはずはありません。(中略)おそらく、いろいろなものが見えたのではないかと想像されます。
 単に、肉体が腐って白骨になっていく様を思い浮かべるだけではなく、禅定をしている間に、実際に、さまざまな霊の姿が見えたり声が聞こえたりする現象が起きたのではないかと思います。
 そして、何か霊的な現象を体験した場合は、帰ってきてから、自分の先生に、「こういう現象が起き、こういうことを体験しましたが、このように対応して乗り切りました」というような報告をしていたと推定されるのです。
 お経は、釈迦没後、四、五百年たってからつくられたものであり、そのへんのことが生々しく書かれていないため、現代の人には分からないわけです。
 四、五百年前の話というのは、現在を基準にすると、西暦一五〇〇年から一六〇〇年ぐらいのことになります。戦国時代から安土・桃山時代を経て、江戸期に入るぐらいのころの話です。「そういう昔の時代に説かれた教えが、伝承として伝わってきて、現代になってから、初めてお経としてまとめられた」という場合のことを考えてみると、完璧なかたちで正確に伝わっているとは思えません。
 特に霊的な部分については欠落していると思われます。口伝で伝わっていく過程で、霊的な部分については理解ができなくなり、その説明がしだいに落ちていったのではないかと思います。
(20~25ページ)

釈迦の仏教教団は、死体置き場で瞑想修行をしていたが、「白骨観」とか「不浄観」とか言われる瞑想法によって、「諸行無常の理」を悟り、「肉体への執着を断つ」修行をするという趣旨があった。

仏典に書かれていない、もう一つの意味として、阿羅漢の状態になっていると、「霊感」的な霊能力が備わってくるので、この修行で何らかの霊的現象を体験させていた。

仏典は、釈迦没後4~500年たって、口伝で伝わっていたものが文書としてつくられていったので、その過程で、霊的な部分の説明がしだいに落ちていって、欠落している──。

お釈迦さまが生きておられた時代に、弟子たちに霊的体験がなかったとは考えられないはずなのに、仏典にその類の話があまり出て来ない秘密は、このあたりにあったわけです。

長年の疑問が、今日のお教えでずいぶん解けた気が私はしているのです。

エクソシスト入門 (OR books)

『エクソシスト入門』

 大川隆法著


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ちょっと前のだけど、映画『仏陀再誕』には、2500年前に、菩提樹の木の下でゴータマ・シッダールタが悟りを開いて仏陀となったときのシーンがあったよね。で、仏陀が帰天(入寂)されたときには、どんな悟りを得てたの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 釈迦入寂のとき、すなわち、釈迦八十歳のときの悟り、心境を、彼自身の内心の声を文字として、お伝えすることにします。
  クシナガラの沙羅双樹の木の下で、右腹を下にして、右腕を頭の下に折りしいて、左手を病んでいた腹部にあてながら、涅槃に入りつつあったとき、つぎのように考えていたのです。
 「私は三十五歳で悟りをひらいて以来、四十五年間、善を探究し、正理とは何かを説いてきた。しかし、その私にも、ついに、肉体を去るべきときが来たようだ。私の老いさらばえた肉体よ、すべては無常であるのだ。私にはもはや、なんらおまえへの執着は残っていない。実に四十数年ものあいだ、人々に仏の道を説き、人間として生きるべき道を示すことができた、その「法」こそが私自身の本当の身体なのだ。
 また、私の弟子たちよ、長年、ほんとうによくやってくれた。私の身のまわりの世話から、法の伝道まで、実によくやってくれた。あなたがたのおかげで、釈迦教団は、五千人を超える出家弟子をもつ大教団となった。また、私の教えを信奉する者は、全インドに、一体何十万人いるか数知れない。それもこれも、みなあなたがたが、法難と戦い、法敵の目をかいくぐって、仏法の伝道をつづけてくれたからだ。あなたがたなくして、この法が弘がることはなかっただろう。今後も怠ることなくつとめ励むがよい。(中略)
 ああ、かわいがった弟子たちのことを思うと、私がこの世を去ったあとのことが、ほんとうに気にかかる。弟子たちよ、よくおぼえておくがよい。私の生命は、まもなく地上を去るが、私の遺した教えは、何千年もののちに伝えられて、世の人々の心の糧となってゆくであろう。
 縁生の弟子たちよ、私の最後の言葉をよくおぼえておくがよい。私の生命は、あの満月のようなものだ。月に雲がかかって見えなくなったように思えても、その実、月はやはり、雲の向こうで永遠と輝いているのだ。そのように、生命というものは、永遠に輝いているのだ。永遠におわるときがないのだ。
 これよりのち、私が地上を去ったあとも、あなたがたは、四十五年間、私が説いてきた教えを、心の糧として生きてゆけ。私の教えを心の糧として、だれに照らしてもらうでもなく、自分自身で心に灯をともして、自分自身の行く先を照らしてゆけ。自分の心に法灯をともして、しっかりと生きてゆけ。
 私が、長年、あなたがたに説いてきた教えは、自分をつくる教えであり、自分をつくりつつ、他人を救ってゆく教えである。
 私が死んだ後も、自灯明という言葉を忘れず、法を頼りとして生きてゆけ。弟子たちよ、これが私の最期の言葉である。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ』」
 これが、釈迦が入寂するときの想いでした。さすがの釈迦も、入寂のときには、ほとんど声が出ず、心の窓をひらいている弟子たちが、その霊能力によって、釈迦の心中の声を聞き、その一部が涅槃経に記録として遺されたようです。
(229~231ページ)

私が地上を去ったあとも、私が説いてきた教えを心の糧として、だれに照らしてもらうでもなく、自分自身で心に灯をともして、自分自身の行く先を照らしてゆけ。

法を頼りとして生きてゆけ。

もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ──。

涅槃経で今に伝わる、仏陀の最後の言葉の真意が、じつはここに説き明かされているのだと私は思っているのです。
 

太陽の法―エル・カンターレへの道 (OR books) 『太陽の法』

 大川隆法著


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ね、「空間縁起」って言葉を聞いたことがあるんだけど、それって、何のことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 縁起の理法には空間的な面もあります。
 人はお互いに支え合って生きています。そういう空間のなかを生きているのです。
 「人」という字は、二つの束ねた麦わらが支え合って立っている姿をかたどったものだとも言われていますが、この文字の形が示すとおり、人は相支えている存在です。夫婦でも、親子でも、友人でも、あるいは職場においても、支え合って生きています。これを「相依性(そうえせい)」といいます。
 このように、「人はお互いに依存し合って生きている存在だ」ということを知らなくてはいけません。
 それはちょうど、日本とアメリカの貿易が連鎖していることにも似ています。日本がアメリカに物を安く売れば、日本人にとって利益になるだけではなく、アメリカの人々にとっても利益になります。そのように、連鎖し、お互いに関連し合って、世界が発展し、繁栄しているのです。
 こうした商業行為における縁起がありますが、人間関係においても同じことが言えます。
 人がこの世に生きるということは、この世の空間におけるお互いの関係論のなかを生きるということ、すなわち、「空間縁起」のなかを生きるということにほかならないのです。
 そして、人が支え合って生きているということは、この世のなかに愛の原理が働いているということを意味しています。
 人は、原因・結果の縦の連鎖のなか、時間の流れのなかにおいて、責任を持って生きなければならない存在であると同時に、横の広がりである空間のなかにおいて、お互いに支え合って生きている存在でもあるのです。(中略)
 要するに、空間縁起とは、「重重無尽の人生である」ということなのです。
 魚を獲る網は、縦と横のロープが結び合ってできています。その十文字になっている結び目のところが、いわば各人の個性の部分です。それぞれの名前を持っている、この個性の部分が、結び目のところに当たるわけです。
 結び目は、一つひとつ別のものではありますが、お互いに縦横の十文字をつくり、一つの網になって初めて、「魚を獲る」という使命を果たすことができます。
 そのように、人間は、共同生活をしながら大きな使命を果たしているのであり、自分一人だけ、結び目一つだけでは仕事ができないのです。
 この縦横に全宇宙的に結びついているものを、「インドラの網」(帝釈網)ともいいます。
 各人は、大きな網の一部であって、独立した個人でもありながら、同時にすべてのものと結びついてもいるのです。
 そして、その網をつくっているもの自体は、大宇宙の真理であり、大宇宙の仏の心なのです。
 人は、全体のなかの一部でもあり、一部でありながら全体でもあります。一人でありながら一人ではなく、大勢でありながら、また個人でもあります。それが真実の人生なのです。
(272~276ページ)

人はお互いに依存し合って生きている存在であって、それはすなわち、この世のなかには愛の原理が働いていることを意味している。

人は、「時間」の流れにおいて、原因・結果の縦の連鎖のなかで責任を持って生きなければならない存在であると同時に、横の広がりである空間においては、互いに支え合って生きている存在でもあって、全体のなかの一部でもあり、一部でありながら全体でもある。

これが、「空間縁起」である──。

大川隆法先生は、時間の流れのなかにおける縁起を「時間縁起」、空間のなかにおける縁起を「空間縁起」と名付けて、説明しておられます。

こういう形で言葉にして説明していただくと、いろんな仏教書をいくら読んでみても、なんだかもやもやして分からなかった「縁起」という教えの意味が、とてもよく理解できるように思えます。

さすが「再誕の仏陀」(生まれ変わったお釈迦さま)のお教えだと、改めて納得できる気が私はしているのです。

大悟の法―常に仏陀と共に歩め (OR books) 『大悟の法』

 大川隆法著


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ね、人間には仏性があるって、聞いたことがあるよ。これって、どういう意味なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間にはまず、この地上における自分という個の存在があります。この自分一人の存在も、もともと仏の光から岐れてきた自己存在であるならば、「この自己存在を最高度に発揮させて、幸福を得なければならない」という要請が一方にはあります。
 また、もう一方には、人間というものは一人だけで生きているものではなく、他の多くの人たちと一緒に手を携えて生きているものである、ということからくる、「共通の幸福のために生きなければならない」という要請があります。
 この「個人としての幸福」と「共通の幸福」の二種類の幸福に、どう兼ね合いをつけていくか。実はこのために、宗教というものも、哲学というものも、道徳というものも、過去つくられてきたのです。これらは、複数の人間が幸福に生きていくための原理としてつくられてきたものです。そして宗教は、それを仏や神の観点から見てつくったものです。
 哲学は、それを頭のなかでの、知性や理性の作用として考えています。道徳は、日常ルールのなかで、それを考えようとします。そして宗教は、仏や神の眼から見て、仏や神の価値観から見て、大勢の人が幸福に生きていける方法というものを考えてきたのです。しかも、この世とあの世の両者を関わらせるという幸福をも考えてきました。これが実は宗教の成り立ちなのです。
 結局、この世に生命を持っている一切の衆生――環境問題が盛んな今日であれば植物もそうでしょう――すべての生き物は、それぞれが自分の幸福を求めているとともに、その生命を他の多くのものの幸福のために費やさねばならないという要素を持っているのです。その二つが矛盾するときには、それを一致させるための努力をしなければいけないのです。
 実は、それが「仏の理想」であって、その仏の理想を価値あるものとして、素晴らしいものとして、それを肯定する心、それが、実は「仏性」というものなのです。仏の理想に呼応して生きていこうとする心、意欲、これが仏性なのです。
 それを捨てた人、要するに、仏の理想というものを悪しざまに罵り、それを足蹴にして、逆方向に生きていこうとする人が、「悪魔に魂を売った人間」と言われるわけです。これも、もともと仏性がない人間ではなくて、仏性に反するようなことをしているということは、目に鱗がかかって見えないでいる、惑わしを受けている、それだけのことであるわけです。
 ですから、仏性は全員に備わっています。その仏性とは何であるかというと、仏の理想を自ら実践していこうとする心のことをいうのです。そして、その理想とは何であるかというと、結局は、一人ひとりが自分の生命を最高度に輝かせながら、社会の理想と一致させていこう、それを前進させていこうとする心なのです。
(75~78ページ)

この世に生命を持っている一切の衆生、すべての生き物は、それぞれが自分の幸福を求めているとともに、その生命を他の多くのものの幸福のために費やさねばならないという要素を持っている。

その二つが矛盾するときには、それを一致させるための努力をしなければいけない。一人ひとりが自分の生命を最高度に輝かせながら、社会の理想と一致させていこう、それを前進させていこうとする心が、「仏の理想」である。

その仏の理想を価値あるものとして、素晴らしいものとして肯定する心、仏の理想に呼応して生きていこうとする心、仏の理想を自ら実践していこうとする心、これが実は「仏性」というものである──。

仏性」については、繰り返しご紹介してきました。

今日のお教えは、ちょっとむずかしかったかもしれません。

けれども、この「仏性」の真実の姿の一端について、「仏の理想」というまた別の角度から、教えて下さったのだと私は思っているのです。

心の挑戦―宗教の可能性とは何か (OR books)

『心の挑戦』

 大川隆法著


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無我って、何度も教えてもらったけど、でも、よくわかんないんだよね。結局は、無我の思想って、なんなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間は、この世で生きていると、「この体が自分だ」というように認識してしまいますが、体だけが自分ではないのです。
 もちろん、体とぴったり合った形をした霊魂というものもあり、これもまた、形は有限のように見えます。しかし、これは実は、有限のものであって有限ではないのです。それは大宇宙とつながっています。潜在意識といわれる世界のなかにおいては、広大無辺な霊界とつながっていて、共有意識、あるいは共通意識というような、全人類に共通している霊的想念の世界とも、つながっているのです。
 それはちょうど、電話やテレビの世界と同じで、あらゆる霊的存在と、一瞬にして、つながるような世界です。
 各人は、ばらばらに住んでいるように見えても、ちょうど、電話の配線工事がなされていて、それぞれの電話機にコードがつながっているようなものなのです。各人の存在は、そういうものであるのです。各人は別個の“ナンバー”を持っていながら、実は、すべてがつながっている存在なのです。
 そして、それをつなげているものは、いったい何かといえば、それこそが、心の法則にほかなりません。
 心の法則は普遍のものであり、その法則には、人種や性別、年齢、あるいは時代を超えて、共通のものがあります。
 「このような心であれば、こういう世界に通じる。こういう人たちと通じる」「このような思いを出せば、こういう未来が展開する」という、共通の、心の法則があるのです。
 釈尊は、内なる自分を見つめると共に、「この霊的存在が、実は個別の自我ではなくて、永遠の魂ともつながっている。永遠の大我ともつながっている。そして、個々別々の人たちの心が、みな、つながっている」ということを悟るに至ったわけです。
 現代的な言葉で言えば、「表面意識だけが自分なのではない。潜在意識のなかにも、自分と通じるものがある。自分は潜在意識とも同通している」ということです。
 その潜在意識は、自己の潜在意識であると同時に、霊界世界にある、他のさまざまな霊的存在とも一瞬でつながるものなのです。(中略)このように、あの世というのは、瞬間的にすべてがつながるような世界です。そういう強力なネットワークができている世界なのです。
 要するに、釈尊は、物質的に見える自分とは異なった、「霊界世界につながる我」という自我観を持ったのであり、それを「無我」という言葉で表したのです。
 無我とは、「我がない」ということではなく、「偉大なる大我とつながっている我」ということであったのです。「大我とつながっており、相互に影響し合っている存在。お互いに、別なもののようでありながら別なものではなく、同じようでありながら同じではない存在」ということです。
 そういう世界であったということ、「根本仏(根本神)の大きな念い、自己実現の念いが、個別の生命として表れて、花を咲かせているのだ」ということを、釈尊は知ったのです。
 これが空間領域での無我の思想です。
(196~200ページ)

霊魂とは、有限であって有限ではなく、大宇宙、広大無辺な霊界とつながっていて、全人類に共通している霊的想念の世界とも、つながっている。

各人をつなげているものは、普遍的な「心の法則」である。

釈尊が悟った「無我」とは、「我がない」ということではなく、「偉大なる大我とつながっている我」ということであった──。

これをわざわざ「空間領域での」と限定しておられるってことは、その先があるの? という疑問がわいてきますが、それはまた、次の機会に!

大悟の法―常に仏陀と共に歩め (OR books) 『大悟の法』

  大川隆法著


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大川隆法先生は、国難のときには、時代を代表するような宗教家は、国師として意見を述べなければならないって、言っておられるんでしょ。でも、救世主のはずなのに、イエスさまは違うこと言ってたんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教立国の精神』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 一方、イエスの場合は、どうだったのでしょうか。
 彼が生きていた当時、教団はまだ小さく、実際に組織化もできていませんでした。宗教間の争いもあり、旧宗教からかなり弾圧を受けていました。
 当時、ユダヤは、ローマの属州であり、ローマの通貨が流通していましたが、あるとき、イエスは、「ローマに税金を納めることは、ユダヤの律法に適うことか」という質問をされます。
 イエスが、「そのコインには、誰の肖像が彫られているか」と聞き返すと、相手は、「カエサルの肖像が彫られている」と言います。そこで、イエスは、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というように答えたのです。
 彼は、「この世のことは、この世において権力を持っているカエサル(皇帝)がやるべきであり、神の国のことが自分の領域である」というような言い方をしていますが、長い目で見ると、このイエスの言葉が、政教分離の根元のところに当たるようにも見えます。
 しかし、彼が、こうした言い方をしたのは、「イエス自身の、政治力というか、政治的立場が現実に弱かった」ということです。
 そのため、教祖自らが捕まり、裁きを受け、強盗殺人犯と一緒に処刑されてしまいます。そのとき、弟子は十人あまりしか残っていませんでした。具体的な活動期間が三年間しかなかったことも考えると、「教団の組織化には成功していなかった」と見てよいでしょう。
 したがって、前述したイエスの言葉は、「そういう事情の下での意見である」ということを知らなければいけません。(中略)
 ユダヤにおける「メシア」は、本当は国を救わなければいけないのですが、結局、ユダヤの国は、イエスの死から四十年後、ローマに完全に滅ぼされてしまいます。そして、ユダヤ民族は、二千年近く全世界を放浪することになりました。
 このように、神の使者を殺害したり、その人の言うことをきかなかったりした場合には、その反作用は、けっこう大きく、民族全体にかかわってくるのです。
 私は、政治・経済等についても、さまざまな提言をしていますが、その方向で努力をしていけば、この国はますます繁栄するでしょうし、その繁栄は、世界をユートピアに導いていく具体的な力となります。
 ところが、私が述べていることを、「戯言(たわごと)である」と思い、聞く耳をまったく持たず、宗教を排撃するような政治家を選んでいると、国難は、さらに厳しいものになってくるでしょう。
(52~55ページ)

ユダヤがローマの属州だった時代背景下、イエスは、「この世のことは、この世において権力を持っているカエサル(ローマ皇帝)がやるべきであり、神の国のことが自分の領域である」というように答えた。

ユダヤにおける「メシア(救世主)」は、本来は国を救わねばならないはずであるが、これは当時、イエス教団がまだ組織化できておらず、イエス自身の政治的立場が非常に弱かった事情のもとでの意見だった。

この神の使者を殺害してしまったユダヤ民族は、国が滅び、二千年近く全世界を放浪することになってしまった──。

イエスさまも、教団がもっと組織化されていて、殺されてしまうほどに政治的立場が弱くなかったとしたら、もっと違うように答えられたのだろうと思います。

いま大川隆法先生は、それこそ自らの生命を惜しまず、「不惜身命」で警世の声を発し続けておられます。

その重大な意味は、同時代ではなかなか理解できずとも、時代が下れば、その決断の重さと勇気の意味が、誰の目にも明らかになるのではないでしょうか。

この国の多数の人々が、この「国師」の言葉に真摯に耳を傾ける時代が、少しでも早く来ますようにと、心よりお祈りしたいと私は思っているのです。

宗教立国の精神 (OR books)

『宗教立国の精神』

 大川隆法著

 

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仏教っていうのは、あの世なんて認めない宗教なんだって、お寺の住職から聞いたよ。でも、そうなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マルクス主義やカントの流れをくむ思想の影響を受けて、日本の大学のインド哲学科や仏教学科などでは、「釈尊は無我を説いたのだから、仏教は無霊魂説なのだ。釈尊は『霊魂などない』ということを説き、あの世も否定したのだ」という説を、仏教の根本であるかのように説く勢力が出てきました。そして、それを学生にくり返し教えてきたのです。
 その結果、お寺の住職たちのなかにも、「仏教は無霊魂説である。仏教はあの世を認めていないのだ」と言いながら、職業として、葬式をしたり戒名をつけたりしている人が増えてきました。仏教を生業とする者にとって、これが一種の自殺行為であることは否めません。
 「釈尊は無我を説いたのだから、霊魂も霊界も認めなかったのだ」と主張する学者や宗教家に対して私が言いたいのは、「その主張は『釈尊は悟っていなかった』と言っているのと同じである」ということです。
 仏陀とは、悟りを開いた人、悟りたる人、目覚めたる人のことです。したがって、「釈尊は仏陀ではなかった」と言うに等しいことを、いかにも仏教であるかのように宣伝しているという実態が、現在の仏教にはあるのです。
 これは、二千五百年の風雪に耐えかねた仏教が、「死に体」、あるいは残骸、残滓になろうとしているのかもしれません。
 釈尊が説いた無我とは、「己の執着、我執を去らなくては、心の安らぎを得て天上界に還ることはできない」という教えです。釈尊は無我を説くことによって、「肉体の五官による動物的な執われを去りなさい。動物的生存は人間の本来の姿ではない」ということを教えたのです。
 ところが、「我執を去れ」ということと「人間の本体はない」ということとは、思想的に別であるにもかかわらず、それを混同している人がいるわけです。
 霊界の存在を知ったうえで、この世を見るのでなければ、人間の生きる意味は分かりません。
 霊界があってこそ、「この世は仮の世である」ということが明確に分かるのであり、この世が仮の世であるからこそ、「諸行無常」の思想が生きてくるのです。これによって、人生の意味が明らかになります。
 それを仏教では「悟り」と呼んでいるのです。
 釈尊が霊界の存在を否定し、機械的生存としての人間の生き方を説いたのならば、釈尊は単なる道徳家、あるいは学校の教師のような存在になってしまうでしょう。
 また、仏教者のなかには、「釈尊は『いいかげんに生きることのすすめ』をした人である。釈尊は『いいかげんに生きなさい』ということを説いたのであり、それが中道の意味なのだ」と主張する人もいます。
 しかし、過去の二千五百年間、いいかげんに生きた人はガンジス河の砂の数ほどいますが、そのなかの、どの人からも仏教的思想は芽生えませんでしたし、いかなる人の考えからも世界宗教は生まれませんでした。仏教は釈尊のみから生まれたのです。
 釈尊の思想が、この世的なるいいかげんな生き方、「機械としての人間がほどほどに生きる」という生き方を説いたものならば、全世界の人びとに広がる教えには決してならなかったでしょう。
(217~221ページ)

「釈尊は無我を説いたのだから、霊魂も霊界も認めなかったのだ」という学者や宗教家の主張は、「釈尊は悟っていなかった」と言っているのと同じである。

釈尊が説いた無我とは、「己の執着を去らなくては、心の安らぎを得て天上界に還ることはできない」という教えであり、これによって、「肉体の五官による動物的な執われを去れ。動物的生存は人間の本来の姿ではない」と教えたのである。

霊界があってこそ、「この世は仮の世である」ということが明確に分かるのであり、この世が仮の世であるからこそ、「諸行無常」の思想が生き、人生の意味が明らかになる。それを仏教では「悟り」と呼んでいる──。

今日は、大川隆法先生が、仏教の教えの本来の意味を、わかりやすい言葉で説明してくださった一節をご紹介してみました。

これこそが、「再誕の仏陀」(現代日本に生まれ変わったお釈迦さま)による、真の仏教解説である。

そう私は確信しているのです。

繁栄の法―未来をつくる新パラダイム (OR books) 『繁栄の法』

 大川隆法著

 

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なんだかむずかしそうな話だけど、「縁起の思想」って、どう考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間をとりまく世界には、三次元世界とあの世の世界、この二つの世界があります。あの世の世界は「実在界」ともいわれますが、人間は、実在界に本籍を置いておきながら、時々、この世に生まれ変わってきて、そして魂修行をしてはあの世に還る、こういう転生輪廻をくり返しているわけです。そして、この転生輪廻の過程のなかに、縁起の法則が一本きっちりと入っている、ということを教えているわけです。どのような人間であっても、この縁起の理法から逃れることはできません。(中略)
 人間として生まれ、さまざまな諸条件のもとに育っていき、その結果、来世、行くべきところが違ってきます。地獄に行く人もいます。地獄にも非常に多くの種類があります。(中略)百や二百というものではなくて、ほんとうは何千種類、何万種類とあります。
 その人の心のあり方だけ、間違った心のあり方だけの地獄があります。その間違った心を持つ人が出たら、その人一人だけの地獄でも充分つくれます。また、数が集まれば、大勢でその同じ地獄をつくっていきます。すべてが、そうした法則のもとにあるということなのです。(中略)
 魂の法則があるのです。魂がどういうことを経験すれば、より仏に近い方向であり、どういうことを経験すれば、より地獄に近い方向であるかということは、もうはっきりと決まっているのです。
 そういう一定の法則が決まっているなかにおいて、今世の数十年を生きているときに、人間は自由意志でもって選択行動を起こします。何を選ぶか、それについては完全な自由が許されております。
 もちろん、地球に住んでいるということ、人間という生物であること、あるいは人間である以上、食べないと生きていけないということ、また、他の人間関係のなかに置かれているということ、そのように条件づけられた存在であることは事実ですけれども、その一定の条件のもとで、自由に考え行動することができるのです。
 たとえば、誰だって、本気でその気になれば、人の一人ぐらいは殺すことが可能でしょう。それは可能だろうと思います。しかし現実には、そうしようとはしません。それは、「そういうことは、してはいけない」というブレーキが心にかかるからです。(中略)
 それが、転生輪廻の過程で学んできた「善とは何か」という知識であるわけです。それが、魂のなかに熏習されてしみ込んでいるわけです。
 人間は魂のなかに、してよいことと悪いことというものを、転生輪廻の過程で得た智慧として、ある程度、蓄えております。幼いうちはわかりませんけれども、人から教えを聞いたり、教科書で学んだりするうちに、そのルールが守れるようになります。それは現実に、心のなかに、すでにかなりの部分が蓄えられているからです。それが、その部分を指摘されることによって目覚めるのです。(中略)
 そして、自分で選び取っていった結果について、来世の責任が生じる――これが人生修行における縁起の思想であるわけです。この流れから誰一人逃れることはできないわけです。
(36~41ページ)

人間は、あの世からこの世に、ときどき生まれ変わってきて、魂修行をしてはあの世に還る転生輪廻をくり返しているが、その過程に「縁起の法則」がきっちりと入っている。

魂がどういうことを経験すれば、より仏に近い方向であり、どういうことを経験すれば、より地獄に近い方向であるかは、はっきりと決まっている。

人間は、今世を生きているときに何を選ぶかについては完全な自由が許されている。そして、自分で選び取っていった結果について来世の責任が生じるというのが、人生修行における「縁起の思想」である──。

どんな高い学歴があっても、ものすごいお金持ちであっても、身分や地位がある成功者であったとしても、誰一人、この「縁起の法則」から逃れることができないという考え方。

この思想は、仏の眼からはでたらめな生き方をしていると自覚している方にとっては、とても怖い話です。

でも逆に、いっしょうけんめい信仰の道を歩んでいる人にとっては、大いなる福音だと思います。

仏が教えて下さっている、この世を貫く真実に目をつぶることなく、今世を生ききって行きたいものだと私は思っているのです。

 

心の挑戦―宗教の可能性とは何か (OR books) 『心の挑戦』

 大川隆法著


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「宇宙の理法」って言葉を聞いたことがあるんだけど、これってどういう意味なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 では、宇宙の理法とはいったい何であるかというと、これは仏が考えている法則ということですから、「仏の理想」でもあります。あるいは「仏の念い」でもあるわけです。あるいは、場合によっては、この法則が「仏の生命」そのものでもあるわけです。(中略)
 その法則を「仏の念い」と言ってもいいし、「理想」と言ってもいいし、「仏の力」と言ってもいいけれども、「仏というものは、一つの法則にこの宇宙を委ねられた」ということを言っているわけです。「人間も、万象万物も、すべてがその法則のもとにあるのである。法則が仏なのだ」ということを言っているわけです。
 そうしてみると、仏陀が、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」と言っていますけれども、この意味がわかるような気がするでしょう。「法というものは縁起なのだ」と――。
 この「法」にはいくつかの意味がありますけれども、一つには、「教え」と言ってもいいでしょう。「宇宙の理法、仏陀の法は、実は縁起というものを教えているのだ」という考え、また、「縁起というものを見れば、法とは何かがわかる」ということは、ここでわかります。
 「法」のもう一つの意味は、「事物の存在」「一切の万象の存在」という意味です。そうすると、「法を見る者は縁起を見る」というのは、「この大宇宙の森羅万象、そこに広がっている生きとし生けるもの、事物を見ると、そこに縁起が発見される」ということです。
 先ほど言ったたとえでいうならば、原因を持たずして成り立っているものは何ひとつない、ということです。みなさんの生活用品を見ても、服を見ても、机を見ても、時計を見ても、原因がなくてそこにあるものは何ひとつありません。やはり原材料があって、それを加工して、人の手によって、そこに成り立っています。そして、服なら服というものをつくりたいという念いがあって、つくられているのです。
 そのように、世界の事物はすべて原因・結果の連鎖を持っている。また、多くの人の手によって成り立っている。縁起によって、すべてのものは存在している。また、すべてのものの存在は、縁起によって説明される。
 「法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る」――この循環は、要するに、「教え、ダルマとしての法も、存在としての法も、すべて縁起によって説明される」ということを意味しているわけです。(中略)
 すべてのものの成り立ちを縁起で説明しているのは、一つには、論理的なものの見方、あるいは理性的な解釈がそこにある、と言ってよいでしょう。これは、釈迦自身の持っていた、非常に強い理性の力が現われているのだ、と言えると思います。(中略)
 ですから、現在あちこちに広がっている御利益的な信仰、あるいは怪しげな新興宗教などは、仏教とは非常に違っています。仏教のなかには、非常に理性的なものの考え方、科学的な考察、合理的なものの考えというのが、きわめて強く入っているのです。それは、この縁起の思想を見てもわかるはずです。
(31~35ページ)

宇宙の理法とは、実は縁起を教えている。

この大宇宙の森羅万象、そこに広がっている生きとし生けるもの、事物を見ると、そこに縁起が発見される。

この縁起に、仏教の理性的で合理的な考え方が強く示されている──。

今日は、ちょっとむずかしい仏教理論の部分ですが、前回の「縁起」の続きの部分を、ご紹介してみました!

 

心の挑戦―宗教の可能性とは何か (OR books) 『心の挑戦』

 大川隆法著

 

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大川隆法先生って、救世主なんだってね。でも、キリスト教では、アンチキリストに気をつけるように教えられてるんだと思うんだ。幸福の科学の教えは正しいんじゃないかと思ってるんだけど、キリスト教の教えと、大川隆法先生が救世主だってこと、どう考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『真実への目覚め』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「アンチキリスト」について、考え方は、いろいろあるでしょうが、キリスト教の教会の二千年の歴史を振り返ってみると、「自分たちの考え方に合わない意見が出てきたときには、アンチキリストという考え方を使うと非常に便利である」という面はあったのではないかと思います。
 その意味で、「最初の教えを維持する」ということにおいては、その考え方には有効な面もあるかもしれません。
 ただ、時代が変わっていくときには、当然ながら、人を救う方法も変わっていかなくてはならない面があります。イエス以後も、新しい宗教が次々と出てきていますが、それらがすべてキリストの考え方に反するとは私は思っていません。
 例えば、キリスト教では、いろいろな霊界思想が出てきたのですが、それらは、ことごとく、異端思想として排除されていきました。
 しかし、生前のイエスは霊的な話もかなりしています。それは、今遺っている『聖書』のなかにも、いろいろなところに出ています。例えば、イエスが悪霊を追い出したりする記述は数多く出てきています。また、イエスは、「自分の前に、エリヤは、すでに来たのだ」とも言っています。これは、「バプテスマのヨハネが、ユダヤの預言者エリヤの生まれ変わりのような立場で出た」ということを言っているのです。
 『聖書』に遺っているイエスの言葉から見ても、霊的な能力や、「あの世から、この世に生まれてくる」という思想は窺えるのですが、教会が『聖書』を編集していく過程において、かなり整理をしたものと思われます。
 キリスト教の歴史には確かに異端のものもあったとは思いますが、他の世界宗教のなかには、それと共通する思想を持つものも数多くあるので、玉石混交というか、正しいものも間違ったものもあったであろうと考えられるのです。(中略)
 「その教えが正しいか間違っているか」ということを判断する基準は、イエス自身が言った言葉そのもののなかにあると私は思います。それは、「よい木かどうかは、どのような果実を結ぶかによって判断する以外にない」ということです。それで判断すればよいのです。
 その教えを信じる人たちが、おかしくなっていくなら、その教えを説く人はアンチキリストかもしれませんし、その教えを信じることによって、人々が、正しい道に入り、正しい信仰に入り、繁栄への道に入っていくならば、その果実は、よいものだと考えることができると思います。
 これは宗教だけに限ることではなく、一般の企業でも同じですが、やはり、より多くの人に支持されなければ、よいものとして認められることはありません。
 最終的な判断基準としては、それ以外にないと私は考えています。
(140~144ページ)

キリスト教会が、自分たちの考え方に合わない意見に対して、アンチキリストという考え方を使うと非常に便利だという面があった。

しかし、時代が変わっていくときには、人を救う方法も変わっていかなくてはならない面がある。

教えが正しいか間違っているかを判断する基準は、「よい木かどうかは、どのような果実を結ぶかによって判断する以外にない」というイエスの言葉で判断すればよい──。

大川隆法先生の教えで、ほんとうに私も私の家族も幸福になることができたと思っています。

また数えきれないほど多くの人が幸福になっているのを、実際にたくさん見聞きします。

この幸福の科学の教えというのは、その「果実」を見てもらいさえすれば、正しい教えであるのは間違いないことを確信しています。

一人でも多くの方が、この教えに触れて、幸福を手にされますようにと、心から私は願っているのです。

 

真実への目覚め (OR books) 『真実への目覚め』

 大川隆法著

 

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縁起でもないって言ったりするけど、その「縁起」って、一体全体、なんのことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 縁起というのは、「すべてのものには原因と結果がある。その原因と結果の連鎖によって世界が展開している」という、ものの考え方なわけです。
 たとえば、水素の分子と酸素の分子とが、熱を加えられることによって、そこに化学反応を起こし、小さな水滴が出る。その水滴が多量に集まったときに、水ができる。そして、水が大量に集まると、池ができ、川ができ、海ができる。そしてまた、そのなかに海の生物が育ち、生きていくことが可能になってくる。海の生物がそこへ棲むようになってくると、それをまた生命の糧とした生命活動が可能となってくる。
 あるものとあるものが結び付き合うという原因行為があって、新たな結果が出てくる。その結果がまた次の原因となって、また新たな結果が出てくる。
 このように、この世界を空間的に見たときに、この世の中というものは、原因と結果の連鎖によって、すべてができあがっているのです。
 水素と酸素から水ができるという話をしましたけれども、たとえば人間に関しても同様で、父親と母親があって子供ができます。その子供がまた他所の家の子供と結婚することによって、新たな子供ができます。そのように家系が連綿と続いて、人類は、現在に到るまで何十万年、何百万年、何千万年、それ以上の歴史をくり返してきているわけです。
 こういう原因行為と結果がなければ、人類自体はいま存在しません。また、二千五百数十年前の釈迦の思想も、人類がいまだに連綿として続いているからこそ伝わっているのであって、人類が釈迦の時代で死に絶えていたら、伝わっていないわけです。すべてのものがそのようになっているわけです。
 こうしてみると、ここで面白いことに気がつかれるだろうと思うのです。
 「世界の成り立ちは、原因・結果の法則、縁起の法則によって成り立っている。また一方、人間というものも、この世でのさまざまな諸条件のなかで、自らが魂修行として何を選び取っていくかにより、より優れたものへと登っていくことができる。そしてそこに仏への道がつながっている」――こういうことになりますと、縁起という思想は、いわゆる「大宇宙の理法」というものとまったく同じことである、ということに気がついてくると思います。大宇宙の理法と一緒のことなのです。
 要するに、宇宙は、そういう理法、ひとつの法則のもとに、運営、運行がなされているのです。その理法のもとにすべてが展開している。この地球も他の星も、そして、星が集まってできた太陽系や星雲も、ひとつの法則のもとにある。そういう空間的な縁起の法則のもとに、すベてが成り立っているということです。(中略)
 空間も時間も、すべて原因・結果というこの連鎖によって起きている。そして、原因・結果の連鎖が単独で起きるのではなくて、お互いに複合的にいろいろなかたちで絡み合って、この世界に時間と空間を在らしめている。これが「世界は縁起によって創られている」ということの意味であるわけです。(中略)
 そうしてみると、縁起というのは「宇宙の理法」という意味なのです。
(26~31ページ)

空間的に見たとき、この世の中は原因と結果の連鎖によってすべてができあがっている。人間は、この世のさまざまな諸条件のなかで、魂修行として何を選び取っていくかで、より優れたものへと登っていくことができ、そこに仏への道がつながっている。

空間も時間も、すべて原因・結果というこの連鎖によって起きており、原因・結果の連鎖は、互いに複合的にいろいろなかたちで絡み合って、この世界に時間と空間を在らしめている。これが「世界は縁起によって創られている」ということの意味である。

つまり、縁起という思想は、いわゆる「大宇宙の理法」とまったく同じことであり、縁起というのは「宇宙の理法」という意味なのである──。

うーん、なるほど。

やさしい言葉で語られてはいますが、でも、真なる「仏陀」だけが解説できる、仏教思想のほんとうの核心部分の教えが開陳されているんだと思います。

それでは、この「宇宙の理法」とは、いったい何を言っておられるのでしょうか?

その問いへの答えは、また次の機会にご紹介したいと思います!

心の挑戦―宗教の可能性とは何か (OR books) 『心の挑戦』

 大川隆法著

 

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ね、幸福の科学では「仏陀再誕」っていうけど、でも仏教じゃ、仏陀じゃなくって、弥勒菩薩が再誕することになってるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『死んでから困らない生き方』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 確かに、「仏陀入滅の五十六億七千万年後に、弥勒菩薩が生まれ変わってくる」というようなことが、「弥勒下生経」という弥勒系の経典に書かれています。つまり、「兜率天に住んでいる弥勒菩薩が下生してくる」という内容のお経があるのです。
 これは、おそらく、インドの西の外れからアフガニスタンのバーミヤーンに近いあたりで成立したお経だろうと思います。
 仏陀入滅後、仏陀教団では、いろいろと分派ができ、それぞれが独自のリーダーなどに頼るようになりましたが、その過程で、いろいろなお経ができました。この「弥勒下生経」は、そのなかの一つだろうと思うのです。
 弥勒は、インドの言葉では「マイトレーヤー」ですが、これには、慈悲の「慈」(慈しむ)という意味の、「マイトリー」という言葉が含まれています。
 弥勒信仰そのものは、北伝仏教、すなわち、シルクロードから中国や朝鮮半島を通って日本に入ってきた仏教のほうでよく伝えられた信仰です。
 そのため、「弥勒の生まれ変わり」とされた人は、過去、中国には数多くいました。(中略)中国では、「黄巾の乱」など、「○○の乱」というものがたくさん起きましたが、それを率いた革命家には弥勒菩薩を自称した者が多く、「われこそは世を立て直す弥勒菩薩だ」などと言っていました。(中略)
 一方、インドのアジャンター村には、「仏陀入滅の二千五百年後に仏陀が再誕する」という伝説が遺っています。
 これは主として南インドのほうに遺っている伝説ですが、スリランカやタイ、ビルマ(現ミャンマー)など、南伝仏教のほうに伝わっています。「仏陀入滅の二千五百年後、仏陀は東の国に生まれ変わる」という教えが遺っているのですが、そのルーツは、はっきりしていて、アジャンター村あたりにあるのです。
 アジャンター村は、有名な石窟寺院の近くにあり、村人たちは仏教の遺跡を長く護ってきました。そういう人たちが「仏陀再誕」を言い伝えていたのです。(中略)
 弥勒信仰のもとになっている、「弥勒が救済仏として現れる」という見方には、かなり希望的観測も含まれています。つまり、「未来仏」という考え方は、「遙か先の未来であれば仏になれる」という意味で使われている面もあるのです。
 ところが、アジャンター村に遺っている思想は、もっと明確なものです。「二千五百年後」と年限が区切られていますが、これは現実性のある数字です。
 一方、「五十六億七千万年後」というのは天文学的な数字であり、そもそも、そのころに地球が存在するかどうか、あやしいあたりなので、相手にしないほうがよいと私は思います。
 いちおう二種類の話があることはあるので、仏教系の人が「弥勒下生」のほうを言うこともあるだろうと思います。
 ただ、仏陀は「仏陀」ですが、弥勒は「菩薩」なのです。
(134~143ページ)

仏陀入滅の五十六億七千万年後に弥勒菩薩が生まれ変わってくると「弥勒下生経」に書かれ、北伝仏教で伝えられているが、天文学的数字の未来であり、そのころに地球が存在するかどうかもあやしく、相手にしないほうがよい。

一方、インドのアジャンター村には、仏陀入滅の二千五百年後に仏陀が再誕するという伝説が遺っており、南伝仏教で伝えられているが、二千五百年後というのは現実性のある未来である。

しかも、仏陀は「仏陀」であるが、弥勒は「菩薩」にすぎない──。

そして、仏教に遺っているこの二つの伝説のうち、仏陀入滅の二千五百年後である1956年に、大川隆法先生は生まれられた。

つまり、「仏陀再誕」の伝説がほんとうに実現していることを、もっと多くの人に知っていただきたいものだと私は願っているのです。

『死んでから困らない生き方』

 大川隆法著


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「無我」なんて言われても、自分があって、その自分をこの世でしっかりと主張しないと、この世で自己実現できないじゃない? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 無我の思想は、別の言葉で言えば、「自分を捨てる」という考え方でもあります。
 「自分を捨てる」というのは、「より高次な自分を得るために、低次な自分、すなわち、物質界にとらわれて悶え苦しんでいる自分を捨てる」ということでもあるでしょう。「欲しい、欲しい」と、奪う心になる、その気持ちを捨てていくことによって、より高次な自己実現を成すことができるようになるのです。
 いちばん多く捨てた人が、いちばん多く得ることもあります。
 いちばん多く捨てた人とは、どういう人でしょうか。それは、客観的には有限のものである、自分一人の命を、数十年、あるいは百年の命を、自分以外のもののために使いきった人のことです。そのようにすればするほど、その使いきった命は、さらに大きな命となって、よみがえってくるのです。
 有限の命を自分のためだけに使った人は、その命がそれ以上のものになることはありません。しかし、有限の、数十年の人生を、自分以外のもののために、五十パーセント、六十パーセント、七十パーセント、八十パーセント、九十パーセント、九十九パーセント、百パーセントと使った人は、その命が何十倍にも何百倍にもなって生まれ変わってくるのです。
 そういうことができる人とは、どういう人でしょうか。
 少なくとも、価値観の基準、原点が、この世にあれば、利他に徹することはできません。
 価値観の基準、原点が、この世にあって、外見だけ、そのように見える生き方をする人は、いわゆる偽善者であることが多いと思います。「人にほめられたいがために、自分を飾るために、名誉心のために、虚栄心のためにやる」という場合が多いでしょう。
 偽善ではなく、ほんとうに自分を捨てられる人がいたならば、それは霊的な人であり、仏や神に愛されている人です。あるいは、自分の気持ちのなかに仏や神と同通するものがある人です。そうでなければ、そういう生き方はできないはずです。
 人間は、本能のままに行けば、自分をより拡張する方向に、自己、自我を拡張する方向に努力していきますし、それが、この世的な成功の原理のように思われているところがあります。確かに、そうしなければ、負けてしまうように見えることもあります。この世的には敗北に見えることが多いでしょう。
 しかしながら、もう一段大きな、ほんとうの意味での勝利を願うのであるならば、視点を、百八十度、くるっと変えなければいけません。
 より多くの人々のために生きる人、より多くの人々のために命を捨てる人こそ、より多くの実りを得、より多くの命を得、仏神から頂いた命を、十倍、百倍、千倍に生かしきることができるのです。
(310~313ページ)

無我の思想は、「自分を捨てる」という考え方でもある。

いちばん多く捨てた人が、いちばん多く得ることもある──。

うーん、なるほどなるほど、です。

今日も、前回に引き続き、「無我」についてのお教えを、ご紹介してみました!

『神秘の法』

 大川隆法著


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反省、反省って宗教は言うけど、でも、そんなことして意味があるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日々修行をし、そして心の錆落としをして、仏の光というものを受けとめることができるようになったとき、すなわち守護霊や指導霊の指導を受けられるような状態になったとき、私たちは、この三次元を超えた世界、無限の世界がほんとうにある、ということを知ります。
 そして、自分が独りで孤独な魂修行をしていたと思っていたところが、実は、自分の魂の兄弟という存在が、生まれ落ちてよりずっと自分を見守ってきたという事実に気づきます。(中略)
 「ああ、そのような霊存在が、自分をずっと眺めていたのだな。そして、その霊存在は、ほんとうは自分自身からまったく離れた存在ではなく、自分自身のなかの真我なる心、ほんとうの心、潜在意識のなかの穢れていない心であり、それが実は自分の守護霊となって見ているのだ」ということに気づくことになるのです。(中略)
 ところが、それは潜在意識といわれるだけあって、表面意識とは違ったものなのです。
 表面意識というのは、みなさんが目が覚めている状態です。朝、目が覚めて、夜、眠るまでのあいだに、目覚めている意識のことです。この意識は、みなさんの頭脳や神経作用、肉体諸器官から、まったく自由ということはありえません。(中略)したがって、非常に三次元的な物質波動に染まりやすい、また、他人の影響を受けやすい(中略)、非常にこの世的な波動に染まりやすい部分であると言ってもよいと思います。
 たとえば、澄みきった池があったとしても、秋になれば木の葉が落ちて、水面に木の葉とかゴミとか、いろいろなものが浮かんで、汚れたように見えます。その水は実は澄んでいても、表面自体は、澄んだようには見えなくなってくることがあります。そういう状態がちょうど、肉体修行をしている表面意識に近いと言ってもよいと思います。
 山奥の、せせらぎに近い民宿に泊まったりしますと、(中略)旅館の人が、せせらぎに溜まった紅葉の葉っぱを、熊手でかき寄せているのです。“紅葉かき”にも似たそのような作業をしなければ、ほんとうは、澄みきっている清流の姿を見ることができないのです。
 これが、私が日頃みなさんに勧めている反省の意味でもあります。(中略)守護霊は、あなた自身を毎日見つめてはいるのですが、守護霊からは、その本来の声をみなさんに届けることが、どうしてもできないことがあります。それが、表面意識が汚れているとき、濁っているときなのです。
 ですから、表面意識といわれる心にある曇りを、反省によって、一つひとつ晴らすことで、潜在意識の部分と同通していくことになります。そうすると、(中略)肉体を持って生活をしておりながら、その身そのままで、実在界とつながった存在としてのみなさんとなるのです。みなさんの考え方が守護霊の考えと一致します。実在界の視点でもって生きていくことができるのです。その視点でもって生きていくときに、みなさんの悩みというものは、なくなっていきます。
(192~196ページ)

反省で、日々、心の錆落としをして、表面意識といわれる心にある曇りを、一つひとつ晴らすことで、仏の光を受けとめることができるようになったときは、すなわち、守護霊や指導霊の指導を受けられるような状態になったときである。

そのとき私たちは、潜在意識の部分と同通し、この三次元を超えた世界がほんとうにあることを知る。

そして、実在界の視点でもって生きていくことができるようになり、悩みは、なくなっていく──。

反省の功徳については、なんどかご紹介したことがあります。

今日は、反省行によって心のさび落としができたときに、宗教修行者としてどういう境地に至ることができるのか、という角度からの教えをご紹介してみました。

そして、仏教ではこれを古来から、「阿羅漢(あらかん)の境地」と呼んでいるのだと私は理解しているのです。

『心の挑戦』

 大川隆法著


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無我って、何回教えてもらっても、よく分からないなあ。だって、大人になったら、自我をもってるのは当然のことでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏教の流れにおいては、その一派が禅宗となって、「一喝を与えたり、一転語を与えたりして、人の意識をくらっと転回させる」ということをしています。無我の思想には、それを思わせるようなものがあります。
 自我の芽生えは、十歳を過ぎれば当たり前のことであり、誰もがそうなります。自分を護るために、戦いもします。けんかもすれば、人を殺しもします。食糧の奪い合いもします。生きていくということは大事なので、そういう自我の世界に入ることは普通であり、教えられなくてもそうなるのです。
 この世的には、自我を固めていくことが成長であるように見えます。しかし、無我の思想は、それと対立する思想です。
 無我の思想を持てば、争いの世界においては、一見、敗れていくように見えます。自我の争いをしている世界のなかに、無我の思想を持った人が出てくると、それは、都合のよい生け贄か獲物にしか見えないかもしれません。お人好しにしか見えないかもしれません。誰が見ても、一見、敗れそうに見えます。
 ところが、無我を徹底した人が出てきたときには、そこに、人々を反省させ、悔い改めさせる力が湧いてくるのです。
 そういう無我の人が出てくることによって、人々は、「自我のために、お互いに傷つけ合い、争い合い、自己実現と称して足の引っ張り合いをする」ということの虚しさを感じ、「ああいう無我の思想に一部でも学べば、われわれも、もっと生きやすくなるのではないか」と悟るようになるわけです。
 ただ、この世に生きているかぎり、「完全に無我となって、自我の部分がなくなる」ということはありえないでしょう。それは、肉体を持っている以上、人間の基本的欲望が消えないのと同じです。(中略)
 しかし、あえて無我の思想を説く人、価値観の逆転を説く人が出ることによって、人々の心に、「それに学び、少しなりとも自我を治めよう」という思いが生じてきます。それに追随しようとする人が出てきます。
 そこに、一つの調和、ユートピアの芽が現れてくるのです。
 つまり、この世において本能のままに生きれば、自我の方向に突き進んでいくものを、価値観の逆転を教える人が出ることによって、人々は、その正反対の思想に目覚めることができるわけです。
 そして、それは、ある意味において、「あの世返りをする」ということになります。それが無我の思想でもあるのです。
(307~310ページ)

この世においては、自我を固めていくことが成長であるように見えるが、無我の思想は、禅の一転語のようなものである。

無我を徹底した人が出てきたとき、そこに人々を反省させ、悔い改めさせる力が湧いてくる。

そこに一つの調和、ユートピアの芽が現れてくる──。

「無我」については、過去に何度もご紹介してきましたが、やはりいろんな角度から学んでみないと、その核心部分をつかみ切るのがむずかしい思想だと思います。

そこで、今日もまた、別の切り口から説かれた教えを、ご紹介してみました!

『神秘の法』

 大川隆法著


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