ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



大川隆法先生が「再誕の仏陀」だって聞くんだけど、でも、ほんとに仏陀なの? 仏陀の悟りを得た方なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

  釈迦は、二十九歳で出家します。それから、六年間の難行苦行のはて、苦行をすて、菩提樹の木の下で悟りをひらいたのは、三十五歳のときです。彼は、約一週間にわたる禅定ののちに、ある夜、夜中の一時ごろから深い定に入ってゆきます。そして、そのときに得た悟りというのが、つぎのようなことでした。
 「私は、長年にわたって、食べるものをろくに食べず、飲むものもろくに飲まず、肉体を極限まで苦しめ抜いたときに、精神的な飛躍が得られる-悟れる、と思って苦行をやってきた。(中略)
 もし肉体を苦しめることが人生の修行ならば、人間は、肉体に宿って生まれてくること自体がまちがいではないのか。もし本仏が私たちの肉体を否定することを願っているならば、自殺者こそ、最高の覚者といえるだろう。
 しかし、自殺によって得られる結果はなんだろうか。大宇宙の法則は、原因-結果の連鎖のなかにあり、悪しき種をまけば、悪しき実を刈り取らなければならないことは確実である。自殺によって、苦しみという新たな原因をつくれば、あの世の地獄界でも、のたうちまわるような苦しみが待っているにちがいない。自分自身の肉体を苦しめる難行苦行は、緩慢なる自殺行為そのものではないか。
 仏の境地がやすらぎの境地であるならば、苦行のなかにはやすらぎはない。苦行のなかには悟りの因はない。(中略)自分自身の心がやすらいでいないで、自分自身の心のなかに幸福感なくして、一体どうして他人に対して、真にやさしくし、真にいたわることができようか。
 しかし、自分のなかの幸福感とは、一体なにか。カピラヴァスツにいたころ、王子として、みなの者からちやほやされ、金も、女性も、物質も、なにもかも自分の自由になったとき、はたして、私の心のなかには幸福感があっただろうか。(中略)カピラヴァスツの日々は、私にとって、決して幸福な日々ではなかった。精神的には満たされず、不安と、焦燥ばかりがつのっていた。(中略)
 本仏の子・人間としてのほんとうの悟り、ほんとうのしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦行のなかにもない。極端に肉体をよろこばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、ほんとうの悟りほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。
 真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のなかに真理を発見してゆく生き方である。(中略)人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行為をなし、正しく生活をし、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである。
 そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥をきわめてゆく途次にこそ、幸福感は高まってゆくのである」
(218~223ページ)

これが仏陀の最初の悟りであった──。

そして、50年近く法を説いた仏陀が入寂(帰天)したときに得ていた悟りとは?

それは、また次の機会にご紹介したいと思います!

 

『太陽の法』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 悩みの正体って? どもりって? »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。