しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

すたれた産業あれこれ

2015年11月24日 | 暮らし
「井原市史」より転記

出部うどん

上出部の農家で、稲の裏作で小麦作付し、納屋で石臼製粉し、農閑期にうどん打ち乾燥、かついで売さばく。
当時の裏作は裸麦か大麦であることは必然で、これを小麦に変えたのは大きな変革であった。
もっとも栄えたのは明治から大正で、このあたりに小倉織が盛行をみるようになり、家々に家内工業として撚糸がとりいれられうどんはばったりとあとをたったのである。


和紙

各地で行われていたが、この地方では七日市が中心であった。楮の木の皮をはいで使用したことは今も変わらない。
楮は耕地に栽培したものでなく、畑や水田のあぜ、河原の堤、山すそなどいたるところに植えられていた。
落葉した頃刈取って、農閑頃にそれを集荷した物が、七日市宿場裏の小田川沿いで処理され、同時にここで紙にすかれた。大正ころまで細々ながら続いていた。今は楮の株が点々と残っている。

刀鍛冶

井原市では西江原・荏原・木之子・県主などが砂鉄の産地とあげられる。
刀鍛冶として最後の伝統を守りつづけてきた女国重がいる。
本名は源、姓は大月で15代目。
文化5年に76才で死ぬまで精進したといわれるが、(世は太平で)多くは鎌とか包丁打が仕事であったであろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芳井町から梵鐘はなくなった

2015年11月24日 | 昭和16年~19年
金属回収令では、銅像や梵鐘が記録写真でよく見るが
芳井町では梵鐘がひとつ残らず供出された。
他市町村の鐘はどうだったんだろう?
そしていまある鐘は、すべて戦後に造られたものだろうか。

以下、
芳井町史より

昭和17年11月1日正午、その二日前までに町役場倉庫に供出された。
直島で精錬される予定で、代金は町村あてになっていた。この供出で町内寺院のすべての梵鐘が供出された。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「勝ち抜くわれら少国民」

2015年11月24日 | 昭和16年~19年
サトウハチローは戦前戦後、詩人として名高いが、キツイ歌を世に出している。
疎開児童に歌われたそうだが、学校でも歌われることがあったのだろうか。


以下
--昭和の戦時歌謡物語・塩沢実信著 展望社—
より転記する。


童謡づくりを常に胸に秘めていたサトウハチローの「勝ち抜くわれら少国民」
は死を美化した軍国主義迎合そのもの、ものすごい歌詞だった。

一、勝ち抜く僕ら少国民 天皇陛下の御ために
死ねと教えた父母の 赤い血潮を受け継いで 
心に決死の白襷 かけて勇んで突撃だ

二、必勝祈願の朝参り 八幡様の神前で
木刀ふって真剣に 敵を百万斬り斃す
ちからをつけてみせますと 今朝も祈りをこめてきた

三、僕らの身体に込めてある 弾は肉弾大和魂
不沈を誇る敵艦も 一発必中体当たり
見事轟沈させてみる 飛行機ぐらいは何のその

以下略

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時の歌は、

2015年11月24日 | 昭和16年~19年
歌も、小説も、新聞も、手紙も、そして会話も状況は似たようなものであったと思える。


以下
--昭和の戦時歌謡物語・塩沢実信著 展望社--
より転記する。


「麦と兵隊」の著者・火野葦平は戦後「当時、ペンに加えられていた制限は大きいものであった。」
火野葦平の言葉は、兵士や国民の士気を鼓舞することを目的とした軍歌・戦時歌謡にそのままあてはまるとみられる。

第一、日本軍が負けているところは書いてはならぬ。皇軍は忠勇義烈、勇敢無比であって、けっして負けたり退却しないのである。
次に、戦争の暗黒面を書いてはならない。強盗、強姦、掠奪、放火、傷害、その他。
第三に、戦っている敵は憎々しくいやらしく書かねばならぬ。味方はすべて立派で敵はすべて鬼畜でなければならない。
第四に、作戦の全貌を書くことを許さない。兵隊の狭い身辺の動きは書けても、作戦全貌は機密に属している。
第五に、部隊の編成と部隊名を書かせない。軍、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊となっているわけだが、全部部隊として表現しなければならない。
第六に、軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下はいくらか性格描写ができるが、小隊長以上は全部、人格高潔、沈着勇敢に書かねばならない。
第七に、女のことを書かせない。皇軍は女を見ても胸をドキドキさせてはいけないのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉浜の山陽真珠

2015年11月21日 | 昭和31年~35年
吉浜の山陽真珠は、昭和30年代の金浦中学校区域では最大の企業であった。

以下、
高梁川37号 吉浜歌物語・関藤不二男 より転記。


山陽真珠工業は大正11年神戸市に於いて、増成商店として人造真珠の製造を始めたのがその前身である。
増成3兄弟が互いに手をつないで発足した。
昭和3年合名会社増成化学工業所と改称、郷里吉浜の下道に広大な工場を建設するとともに本社も吉浜に移転、営業所を神戸において本格的な生産に乗り出し大いに外貨を獲得した。
昭和18年大東亜戦争により輸出がとまり、休業に至った。
昭和22年山陽真珠工業と組織を変更し資本金195,000円で再出発した。
工場および社屋は敷地5.000㎡、建物面積1.650㎡。
業績は逐年隆盛となり昭和30年から35年頃が最も盛んで、
従業員数80名、加工は広く内職に出し、年間生産高1億8千万円に及んだ。
昭和38年本社を神戸に移転、吉浜は工場のみとなった。
創業の増成氏は学校、菅原神社など郷里の施設に多額の寄附をされ、こよなく郷土を愛されたが今は故人となり御子息が後を継いでおられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川村合併騒動①

2015年11月20日 | 昭和31年~35年
昭和30年代の前半、北川村は山陽新聞をにぎわした記憶が強い。
村民が矢掛合併派と笠岡市合併派に二分され騒動が数年間にわたり続いた。


村民は笠岡市合併派が多数であったと思われるが、
最初、5町村(小田・中川・北川・新山・吉田)合併または同調。
次に、3町村(小田・中川・北川)同調。
その次に、2町村(小田・北川)同調。
そこへ県の合併勧告が混乱に拍車をかけた。
小田町・北川村とも同一歩調は取る、がしかし小田町は矢掛派が占め北川村へ働きかけをしたようだ。
最後は北川村長辞職により、北川村は笠岡市へ合併集約ができた。
その間、7年の長さを要している。


この騒動は市町村合併の教訓になる面があるが、不思議に
以後
山陽新聞・中国新聞に当時の回顧録的な記事が載ることはなかった。

本年発行の郷土史本「北川の史跡ガイドブック」にも一行たりとも記述はない。同誌の巻頭に「北川の昔を知る手がかり、互いの話題になる」ことを目的としてあるが、地域の人が知って記憶にとどめておく必用があるのは、こうゆう事ではないだろうか?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新山小学校の「奉安殿」

2015年11月12日 | 昭和16年~19年
この写真は「新山人物誌」から借用した。



「奉安殿」という説明だが、奉安殿と共に魚雷が写っている。


小学校の校庭に“魚雷”が建っているのは非常に珍しいと思えるが、
何時、如何なる事情で建ったのか?
また、何時、如何なる状況で撤去されたのか?
聞き調べしたいと思っている。




なお「新山人物誌」は郷土史家・山部明氏の著作であるが、発刊にいたった思いが伝わってくる。

(以下「新山人物誌」より転記した)

私の新山村助役時代は、支邦事変から大東亜戦争の真只中で、私は来る日にも来る日にも出で立つ若き戦士の勇姿を新山駅頭に送った。
そして、その多くは彼方の地で散華され、迎えたのは白布につつまれた英霊でありました。
この事は素朴な農夫である私の心を永久に痛ましめるものであります。
そして、これらの方々の名前だけでも集録して、後世にとどめておきたいという念願が、長く私の胸に去来し、これが本書をものにした第一の動機であります。
昭和46.6.15

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする