吉浜の山陽真珠は、昭和30年代の金浦中学校区域では最大の企業であった。
以下、
高梁川37号 吉浜歌物語・関藤不二男 より転記。
山陽真珠工業は大正11年神戸市に於いて、増成商店として人造真珠の製造を始めたのがその前身である。
増成3兄弟が互いに手をつないで発足した。
昭和3年合名会社増成化学工業所と改称、郷里吉浜の下道に広大な工場を建設するとともに本社も吉浜に移転、営業所を神戸において本格的な生産に乗り出し大いに外貨を獲得した。
昭和18年大東亜戦争により輸出がとまり、休業に至った。
昭和22年山陽真珠工業と組織を変更し資本金195,000円で再出発した。
工場および社屋は敷地5.000㎡、建物面積1.650㎡。
業績は逐年隆盛となり昭和30年から35年頃が最も盛んで、
従業員数80名、加工は広く内職に出し、年間生産高1億8千万円に及んだ。
昭和38年本社を神戸に移転、吉浜は工場のみとなった。
創業の増成氏は学校、菅原神社など郷里の施設に多額の寄附をされ、こよなく郷土を愛されたが今は故人となり御子息が後を継いでおられる。
以下、
高梁川37号 吉浜歌物語・関藤不二男 より転記。
山陽真珠工業は大正11年神戸市に於いて、増成商店として人造真珠の製造を始めたのがその前身である。
増成3兄弟が互いに手をつないで発足した。
昭和3年合名会社増成化学工業所と改称、郷里吉浜の下道に広大な工場を建設するとともに本社も吉浜に移転、営業所を神戸において本格的な生産に乗り出し大いに外貨を獲得した。
昭和18年大東亜戦争により輸出がとまり、休業に至った。
昭和22年山陽真珠工業と組織を変更し資本金195,000円で再出発した。
工場および社屋は敷地5.000㎡、建物面積1.650㎡。
業績は逐年隆盛となり昭和30年から35年頃が最も盛んで、
従業員数80名、加工は広く内職に出し、年間生産高1億8千万円に及んだ。
昭和38年本社を神戸に移転、吉浜は工場のみとなった。
創業の増成氏は学校、菅原神社など郷里の施設に多額の寄附をされ、こよなく郷土を愛されたが今は故人となり御子息が後を継いでおられる。
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