しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の石鎚(いしづき)溝

2014年12月13日 | 暮らし
茂平銅山東にある”いしづきさん”の事を父に聞いてみた。


昔。大池の上の山に石鎚さまを信仰しとる人が、四国のほうから御神体をわけてもろうて祀とった。
一年に一回山へ登って拝みょうた。

(その当時)石鎚さま」が世話をしょうたんで、ご神体がひとつある。
それで石鎚さまへ集まり拝んで、それから山へ行っておがみょうた。

何年かに一回はほんとの四国の石鎚山へ拝みに行きょうる。

(いつ頃から現在の銅山の石鎚さまは始まったのか?)

もの心がついた時にはしとった。
あそこのおじいさんが世話をしょうた。
家のヒヤに祀とった。

有志の人だけが集まりょうた。
一度いっしょに四国の山へ登った。
鎖を持って必死じゃった、落ちたら「信心が足りんでバチが当たった。」いわれるけぃのぅ。
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ミノ(蓑)・・笠と合羽

2014年12月13日 | 暮らし
(父の話)

昔はミノ(蓑)ゆうて稲藁で作ったもんじじゃった。
普通の稲藁でつくりょうた。
その頃はなかったんで自分でつくりょうた。

合羽は稲藁で作ったもんを着とった。

頭に被る笠もそうじゃ。


合羽も笠も買うとったんじゃあねぇ。

みな、家でつくりょうた。

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隔離病舎

2014年12月13日 | 昭和16年~19年
小田郡史(大正12年)には「大字用之江字長沢田にあり、明治36年度の設置に係り、敷地総坪三反二畝、建物五棟なり」と記載されている。
小田郡内の各町村は隔離病舎があり、市町村役場の衛生業務では唯一であり最大の問題であった様子だ。

なお跡地は現在、恵風荘が使用している。



(父の話)

病人がおった時にゃ、村(そん)がちゃんと管理しょうた。
おらん時にゃ、一応見張り人がいりょうが。それじゃけぃ、しんばやしにたのみょうた。

(赤痢や疫痢になったら?)
いちおう看護婦がちぃて、このへんのもんもだいぶへぃた。

医者はいつもおらんけど、ちぃとった。
看護婦ゆうてもホントの看護婦じゃぁねぃ。世話人ぐれいなもんじゃ。


伝染病がでにゃぁ入れん。
ていげい家でなおしょうた。

へぃで保険所がやかましゅう言ゅうけい入りょうた。
『伝る』ゆうけぃ。


ウチらでもおばあちゃんがはいりょうた。兵隊に行っとるときじゃ。
兵隊の時ぁ、家に伝染病がいると帰してくりょうらなんだ。(一時帰宅できなかった)
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茂平ごらく場

2014年12月13日 | 暮らし
茂平ごらく場は文字通り、茂平の人に娯楽が限られた時代「娯楽の殿堂」だった。昭和35年頃まで在った。




(父の話)

「ごらく場」は、こわしたんじゃ。木で組んでつくっとった。

芝居をしょうた。
芝居が来るゆうてぞろぞろ、みんな連れのうて、行きょうた。

いっつぁんやこ、(芝居が)好きなもんが請けてやりょうた。

”はな”をうちょうた。
ただじゃあこんけぇ。
TVができてからやめた。

菓子屋も来ょうた。子供が来るけぃ。


(母の話)

(昭和17年に嫁に)来た時にゃあ、あった。
何回か芝居を見に行った。

その頃は映画が来るゆうたら、用之江まで見にいきょうた。

桃の袋掛けをしょうても、「今日ははよ、見にいこうで」ゆうて、歩ぃて見にいきょうた。
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金浦座館主の話

2014年12月13日 | 昭和31年~35年
北川や新山のようなとこは出張で映画をしとる。
茂平にゃワシもいっとった。
いま家が5・6軒建っとる公会堂のとこ、そこへ昭和35・36年ころまでいっとる。
浜のりょうやんは茂平の顔役じゃったが、アレに頼みょうた。
ワシの言うことはなんでも聞きょうた。

客は笠岡からは来ょうらなんだ。旧・金浦町。それに西、
陶山有田、用之江、大宣。

ポスターは店とか、人がよう通るとこ、それに目立つとこ、そこへ貼りょうた。
茂平じゃったら。
吉本、
写真屋があった、そこと・・・。どこじゃったらなあ。


用之江では加藤の店、コセン橋のとこへあったパーマ家、城戸のスーパー・アメリカ屋。

大宣では為乗、松浦の郵便局のとこ・昔の、踏み切りのとこ。
張替えは自転車で行くんで2時間はずーとかかりょうた。
大門でも貼りょうた・・・・?かなあ。


看板はウチには使ようらなんだ、ポスターだけ。
笠岡には絵描きがおった。
一人か二人おった。
ポスターみながら絵を描く。
笠岡の映画館はみなそれを使ようた。


稲垣先生はバタバタの三輪車に人を積んで見にきょうた。
ウチじゃタダで見さしょうた。
料金は30円・50円・・・100円。

戦前2円99銭ゆう時もあった。
3円もらうと1銭、入場税いうのが要りょうた。
県税。


まあ戦後のいっとき、映画が娯楽の王様いう時代があったゆうだけじゃ。
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福山空襲

2014年12月13日 | 昭和20年(終戦まで)
昭和20年8月8日の夜10時、茂平の空は真昼のように明るくなった。
それが米軍の福山空襲で、国宝福山城天守閣が焼け落ち市民の8割が被災した。


福山市史(下巻)の一部。
「8月8日の爆撃は我が軍の防戦として見聞せしものなし」、「戦災後、焼け跡の片付けに従事せし外記すへきものなし」という為体であった。
「神州不滅」をうたい「皇軍不敗」を誇ったにしては市民の信頼をうらぎるものであった。
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