しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金属類回収令

2014年12月10日 | 昭和16年~19年
金属類回収令は昭和16年から20年まで「すべてを戦争に」のスローガンのもと、改訂しながら工場や家庭から「不要不急」とみなされる物件すべてが回収された。
寺の鐘、学校の銅像、家庭の鍋や鎌、生徒児童の金ボタンや文鎮などが知られている。
昭和19年からは貴金属の白金、つづいて銀の回収も始まり、「強制買上げ、または強制借上げ措置を講じられるべき」となだめ・脅されている。(参考・岡山県史)

談・大正6年生・男

金属の回収は銅の火鉢を出した。
しょうがないので(こめいもんは皆)出したが
どうしても惜しいのは出さなかった。(隠した)
まじめな人は皆出した。・・・が
隠した人が得をした。

業者がええことをしただけで、
回収したものは(目的を果たさず)そのまま役場の裏に残っていた。

鍬やそういう農具はださんでよかった。
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盧溝橋事件 ”断固として膺懲”

2014年12月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
盧溝橋事件から半年後の7月22日、岡山の歩兵第10連隊に動員令が下った。
「今度という今度は、膺懲(ようちょう)の鉄鎚を徹底的に下すべく」(山陽新報・社説)という露骨な宣揚・世論を背景におよそ5000名が出兵、8月18日華北天津に到着した。
以後徐州を経て武漢まで、戦争目的も曖昧なまま、果てしない行軍がつづいた。(岡山県史)


兵士の野戦日誌から

雨天の中、光山懸城に入城した。信陽攻略の要所だ。
あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。
思えば徐州出発以来、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く、血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山懸へ入城するのだ。
その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
友は、姉妹は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。
後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを誓って今日を休む。
1938年9月25日 (光山懸城内にて)

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奉安殿・御真影・二宮金次郎像の撤去

2014年12月10日 | 昭和20年(戦後)
岡山県史
奉安殿・御真影・忠霊塔・忠魂碑・二宮金次郎像・和気清麻呂などの胸像撤去も実に厳しく行われた。
撤去の程度は、置地の形跡を留めない状態になること。

笠岡市史4巻
御真影は、
「昭和21年1月11日に城見国民学校他4校が御真影を地方事務所に奉還した」、
奉安殿では、
「笠岡女子国民学校が21年8月27日に奉安殿と学校神社、新山国民学校は21年10月10日撤去。」
教育勅語は
「笠岡東小が昭和23年8月24日返還」となっている。

城見小学校の奉安殿と金次郎像の撤去年月は記録が残されていないが、昭和23年末までには撤去されたと思われる。
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戦後の食糧難 (岡山県史・現代Ⅰ)

2014年12月10日 | 昭和21年~25年
1945年11月、岡山県は甘藷茎葉・葉柄・どんぐり・大根葉など米の代用品として供出出荷が促進された。
なお1946年1月からは、ミカン皮・クズ根・クズ澱粉、
7月からは、ニンジン葉・ごぼう葉・里芋葉・カボチャ種子・よもぎ・茶がらなどが米の代用品として追加され政府買上げ対照品となった。

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