しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高杉晋作

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・山口県下関市長府
制作・1972年(昭和47年)

長府の街並みは萩に似て歴史があり、町歩きが楽しい。




幕末長州藩士。
1864年(元治元年)12月、功山寺で高杉晋作が、力士隊・遊撃隊らわずか80人程度で挙した瞬間を表した像。
桃型の兜を顎に掛け小具足に身を固めた騎馬像。

「日本の銅像完全名鑑」 広斉堂出版  2013年発行





高杉晋作
天馬空を行く、一代の風雲児


「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん)、敢えて正規するものなし」
生死を賭して戦かった伊藤博文の表現。

徳川300年の世に、最初に反撃の口火を切ったのも彼である。
一代の風雲児とも革命児ともいえる。

高杉家のひとり息子晋作が、新しい人間に生まれ変わっていくのは吉田松陰との巡い会いだ。

21歳の時松陰が伝馬町で斬られた。
その年に結婚した。

文久2年(1862)上海へ行く。 
文久3年(1863)8月18日の政変。
元治元年(1864)6月池田屋事件、7月蛤御門の変(金門の変)、8月四か国艦隊の下関攻撃。
講和の交渉役に命ぜられる。
第二次長州征伐の軍を、自ら先頭に立って打ち破っていく。
その途中に病に倒れた。
慶応3年4月14日、29歳だった。


「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行







「歴史と小説」 司馬遼太郎   集英社文庫  昭和54年発行

幕末の事

なにをくよくよ川側柳
 水の流れを見て暮らす


という唄をつくった長州人高杉晋作ほど飲んで遊んだ男もなかったであろう。
高杉にとって、酒、革命、女は、彼の血が要求している等価値のものであった。
かれは乱世に生まれて英雄となった。

高杉は藩庁から三千両の洋行費をせしめ、子分の伊藤俊輔(博文)をつれて下関まで出かけた。
金がある。つい遊んだ。
芸者末社を総揚げにして連日連夜の大さわぎとなった。
豪遊が藩庁に聞こえ、同志の野村靖之助が、わしの諌止をきいてくれねば腹を切る、といった。
「立派に切れ、おれが介錯してやる」
野村は退散、手がつけられなかった。
さらに長崎に行った。
長崎でも飲み、ついに洋行費は一文もなくなった。
が、英国が長州を応援する意思があることを知った。
この事が高杉に別な思考方法を与えた。
倒幕の可能なことを知った。


金の工面がついたころ、高杉は長崎でオテントサマ号という軍艦を、藩にもことわらず、勝手に買い込んだ。
幕府の第二次長州征伐のとき、丙寅丸と改称して大島郡の沖合で幕府軍艦と戦い、さらに小倉城攻撃に威力を発揮し、
ついで鳥羽・伏見の戦いの後討幕軍の海上輸送に大いに役立った。
がそのときは高杉は病死していた。
累年の奔走、戦闘、酒、女がたたったのである。
この男は風邪一つひかぬ壮健な体をもっていたが、不養生が過ぎた。
父の小弥太が「遺言はあるか」と問うと別にありません、といい
料紙と筆をとって辞世の歌を書きはじめた。

 面白きことも無き世を
  面白く、・・・・・・・・・

とまで書いたが、あとは体力がつきた。筆を落とした。
直後に絶命している。








「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

高杉晋作

奇兵隊は当時としては斬新なものでした。
農民、あるいは一般の町民、そうゆうものまで軍隊に編成していくというのは、
新しい発想をもっている。

上海に行って長髪族の乱(太平天国の乱)を見、
また西洋人がわがもの顔でふるまっているのを見、
うかうかしてると日本は大変なことになると思った。

高杉というのはとにかく弟子を養成するのがうまかった。
山県なんかを養成しているのですね。
奇兵隊の戦法が、第二長州征伐の時山県によって成功しています。






撮影日・ 2015年2月20日




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1 コメント

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長府の町並み (killy)
2021-04-14 16:18:23
長府は萩に比べて下級武士の家が立派でした。経済的な余裕があったのでしょうか。
下級武士の屋敷の横に矢竹の垣根があり、実戦向きだと感心しました。真備町岡田にも岡田藩の武家屋敷と思われる家に矢竹の垣根がありました。洪水後は行っていません。
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