しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

通学船

2021年06月22日 | 銅像の人
場所・岡山県浅口市寄島町

管理人が小学生の時は、
笠岡市に有人島が9島あり、うち2島(片島・小飛島)に小学校がなかった。

片島は神島へ渡船があり、大人も子供も渡船で渡っていた。今も渡船場跡がいくらか残る。
小飛島は、たぶん旅客船を使用しての大飛島への通学だったと思える。


寄島では三郎島の子供たちが、子どもだけで海を渡って学校に通っていた。




通常は干潟の浅瀬を通学路にして、潮の干満を気にしながら早足で渡ったようだが、
それでも距離があり(1km以上)通学路は潮が引いたばかりの不安定な場所。
想像しても苦難、特に下級生は気の毒な通学だった。



潮によっては「通学船」での通学だった。

「寄島風土記」

冷たい冬の朝、襟巻で顔を包み、潮風に吹かれて1キロに及ぶ干潟をトボトボ歩いて海を渡り、
堤防に辿り着いて上級生が下級生をいたわりながら、しばし焚火を囲んで暖をとり、
隊列を正し学校に急ぐ子供たちを見て、大人は「三郎の子供じゃのー、可哀そうに」と同情の言葉で見送っていた。

潮の都合では朝5時ごろから渡らねばならぬ日もあった。
帰りも干潮時には歩いて渡った。
短い冬の日は昏れが早い。もう島の家には明りがついている。
潮騒に追い立てられ、満ち潮に追いかけられての家路を急いだ子供たちであった。


潮が満ちている時には通学船に乗る。
島の子供全員が10人位乗れる櫓で漕ぐ小舟である。
暴風雨の時は欠航する。
櫓は上級生が漕ぐ。
波風がある時は不安におののき、命がけの通学であった。








撮影日・2021年6月20日
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