「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
♪いざ来いニミッツ マッカーサー
昭和20年1月、マッカーサー率いる米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。
この期に至って、ラジオの国民合唱で良識を疑わざるを得ない「比島決戦の歌」が流し始めたのであった。
作詞界の大御所西條八十と、軍歌戦時歌謡作曲の第一人者古関裕而が作曲していた。
「いざ来いニミッツ マッカーサー」痩せ犬の遠吠えに似た品のないこのフレーズは、軍部将校から敵将を入れてくれとの要望に発している。
西條八十は、「私の履歴書」の中で戦後に次の通りに述べている。
終戦直後、ぼくが疎開地で読んだ新聞紙には西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろうと書いてあった。
それはぼくが読売に発表した「比島決戦の歌」の中にある、
出て来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へさか落とし
というひどい詞句のためだと添え書きしてあった。
それを読んだ読売記者で評論家の吉本が、ぼくに手紙をくれて
「あの繰返句はあなたの創作ではありません。
参謀本部の軍人たちが創作して無理に入れさせたものだ。
いざという時には、ぼくが生証人になります」といってくれた。
それでもぼくは一時多少の覚悟はしていたが、幸い事実にならずにすんだ。
♪いざ来いニミッツ マッカーサー
昭和20年1月、マッカーサー率いる米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。
この期に至って、ラジオの国民合唱で良識を疑わざるを得ない「比島決戦の歌」が流し始めたのであった。
作詞界の大御所西條八十と、軍歌戦時歌謡作曲の第一人者古関裕而が作曲していた。
「いざ来いニミッツ マッカーサー」痩せ犬の遠吠えに似た品のないこのフレーズは、軍部将校から敵将を入れてくれとの要望に発している。
西條八十は、「私の履歴書」の中で戦後に次の通りに述べている。
終戦直後、ぼくが疎開地で読んだ新聞紙には西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろうと書いてあった。
それはぼくが読売に発表した「比島決戦の歌」の中にある、
出て来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へさか落とし
というひどい詞句のためだと添え書きしてあった。
それを読んだ読売記者で評論家の吉本が、ぼくに手紙をくれて
「あの繰返句はあなたの創作ではありません。
参謀本部の軍人たちが創作して無理に入れさせたものだ。
いざという時には、ぼくが生証人になります」といってくれた。
それでもぼくは一時多少の覚悟はしていたが、幸い事実にならずにすんだ。
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