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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

神島見崎の通学・渡船・遍路道

2016年07月30日 | 暮らし
神島のIさん(終戦時少学5年)の話・2006.3.10


通学の道
小学校には山を越えて、遍路道を歩きょうた。
寺間までは(海辺の道の)石垣が低うて、すぐ浸かっとった。それで遍路道を行きょうた。
(通学の)遍路道はこわかった。木が繁ってトンネルのように暗うなっとった。
同級生は二人いた。
隣には7人いた。
寺間からは道があった。
寺間からは海辺の道を歩きょうた。
福浦からは山側、汁方も。
神島荘のとこへ出て、中村でまた狭くなり池のほとりに出て、それで学校が見える。
学校には走りなが行きょうた。
上級生が走らすんじゃ。「走れー!」ゆうて。
それで40分もあれば行きょうた。


瀬戸の渡し
中学じゃったら自転車で通学しとった。
(笠岡東中)中学は三叉路のとこ、いま公民館がある。あのころは回りに田んぼがあった。
そこへ自転車で通うとった。
高校もそうじゃった、自転車。
どこへ行くにも「渡し」を通って行っとった。
潮が速いけえ50mほど流されとった。せぼうなったところが巻くけえ。


車を見る
車をはじめて見たのは進駐軍じゃった。
見崎には道はないので、海からやってきた。
海岸線を走ってきた。
次に見たのは、
それから何年かしてから。
外浦から先生が診察に来た。
その時は三輪車じゃった。
先生の車は(道が狭いので)池に突っ込んだ。
それで皆して揚げた。
次に来た人もやっぱし突っ込んだ、そのときも皆で揚げた。


渡海船(とーかい)
どういう字を書くんじゃろう「トーカイ」ゆう船が笠岡に行とった。
「とーかい、とーかい」ゆうて呼びょうた。
それが二ハイあった。囲いをしてなあ、今の漁船くらいなのに屋根をして。
見崎・寺間・高を廻ってくれてそれから笠岡に行っとった。
トーカイは直接福山に行くのもあった。
(トーカイに乗るのは)行商をするのが多かった。
(積む荷は)魚を市場に持って行きょうた。
それで朝早い。
(子供の)僕らが乗ることはなかった。
子供は仕事の手伝いはするが、笠岡に遊びに行くゆうことはなかった、今のように。
祭りはあるし、海に向かって石なげはするし。そりゃあ楽しい。
(わざわざ町に行くもでもない)


お遍路
札所の場所はむかしと変わらん。
昔は(お参りの人が)すごう多かった。
もてなしは「おせったい」。
せんべいや甘酒を出しょうた。
最近はバスではんぶんまわる。団体が多い。
むかしとは、そりゃあ減っとる。
奥から来ん。
そりゃ、「まえだ」も「たにや」もお遍路さんの宿じゃけえ。外浦の5・6
軒もそうじゃ。
外からまわって、外浦で一泊して、それから(内浦見崎を)まわって帰るのが奥の人じゃ。
その時分は見崎もお遍路さんでにぎやかじゃった。
(接待は)ただじゃのうて、今でいう100円か200円置いて帰りょうた。
それで、まかなようた。ええ時代じゃった。はっはっは(笑い)
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